ぎょうてんの仰天日記

日々起きる仰天するような、ほっとするような出来事のあれこれ。

教えること学ぶこと 2

2021-02-16 00:40:06 | コラム

教育をする側について書いたが、それではもう一方の学ぶ側についてはどうか。「自分はなぜ学ばなければならないのか」との疑問へはどう答えるか。以下は「紳士・淑女になるため」に加えて人生の後輩に答える私の考えだ。

学ぶことの意味は三つあると思っている。一つは大きな決断をする時。どれほど素晴らしい家族が、友人がいようと自分自身の頭で考え決断しなければならない時が人生には必ず来る。人によりその問題の大きさや種類は様々だろうがそれは来る。その時にそれまでの自分が学んだこと、身につけたことを総動員して考えに考え抜き決断する。そのための準備期間としての学びだ。それまでの人生のすべてを賭けてする決断、その時のために人は学ばなければならない。

二つ目はそれより小さい日常的な決断の数々のため。毎日の仕事や生活のことで私たちが日々する決断のことだ。そのために私達は学び準備をする。自分と他者、自分と世界との距離、世界を構成するものの数々を知る。普通の人にとって例えば物理学は日々の生活に役立たないかもしれない。しかしそうした基礎知識を頭に入れておくことは世界を知ることの一つとして一定程度大事ではある。この二つ目の決断の積み重ねがいつの間にか経験となり、一つ目に挙げた「人生ここ一番」の時に役に立つ。

三つめ、あるいは副産物的なものであるのかもしれないけれど、何よりも生きていて楽しくなる。人生の大きな喜びの一つとなり得る。見ているもの、聞くものすべてが楽しくなる。自分の好きなものを取っ掛かりとして、あるいは仕事を通して学んでいくうちに人は世界にある様々なつながりや美しさ、公式や方式、違いや同じものがあることに気がつく。

文字を学んだ子供が新しい目と頭で世の中を見渡す時のように、世界は突然その姿を意味あるものとして見せてくれる。地図も楽譜もITも同様だ。そうした新しい世界が広がり続ける。一生の間ずっと。

klimkinによるPixabayからの画像



最新の画像もっと見る