ちび猫のつぶやき

宇宙人の独断と偏見なのですが、警鐘を鳴らす訳ではなく希望の光を照らす訳でもなく、ただ足下の事を皆で見ていたいだけなのです

22.ちび猫が描く『人類滅亡』の【予言】序章・第5項・テロ(1)~参照~

2011-05-28 | 悪夢と予言
第0022号



*****(制作終了)*****



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(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0010号第0011号第0012号第0047号もお読み下さい。)




~~~~~予言の書・序章「人類滅亡」まで~~~~~(第0011号第0012号参照)


・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その1(第0014号参照)


・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その2(第0015号参照)


・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その3(第0017号参照)


・≪【予言】≫第4項『民主主義』(2)(第0018号参照)

・≪【予言】≫第5項『テロ』(1)その1「テロの世界」(第0018号参照)







・『予言の書・序章「人類滅亡」まで』





・≪【予言】≫第5項『テロ』(1)



・参照・1



・聖書・人文学・自然科学


【『聖書・人文学・自然科学』とは、人間がその崇高(スウコウ)な「理性」によって数千年の時の中で作り上げてきた奇跡の産物で、その価値は比べようもなく大きくて、その利用範囲も無限に広く、まさに《人類の財産》と呼ぶにふさわしい「共通の英知」であり。人類の誰もが社会生活を営みながらもそれを正しく利用して、人類への貢献を成し遂げる自由と権利と正義の心を持ち合わせているのだと、世界中の誰もがポジティブに思ってしまいがちなのですが。

実際には、平凡で窮屈(キュウクツ)で思い通りにならない日々の中で、
「思いと結果をピュアに一致させて自己の正当性を図ろうと画策するのだが、そんな“ピュアで正当だという自己意識”がたいてい空回りしてしまって、どんな努力をしようとも、その甲斐なく事態が悪化していってしまう状況で、何時までも悪循環が止まらずにいるのにもかかわらず。それでも、この“何とかしたいという純粋な気持ち”は誠実で変節が無いため、有効性が高く絶対に有用であると思えてしまい、惜(オ)しくて何も変えられず、何も始められないままただもがき苦しんでいて。正当な努力は何時も不当に実を結ばないと恨(ウラ)めしく感じるこの最悪な状況の中で、逃げず投げず持ちこたえようと、必死に頑張ってこの現状をギリギリの所で支えているというのに。この上さらに、これ以上の努力で“あるようには感じられない自分の悪い所”を考えて、アップアップしている状況を押して“実感の湧かない新しい自分”を作っていくなどという《勇気》も《気力》も【度量】も無くて、綱渡り的に過ごす事にクタクタになってしまう憂鬱(ユウウツ)な日々」や、
「自分の狙(ネラ)いや思惑や期待と食い違う事の多い困難な現状の中で、《勇気》をもって“見えない現実”を逃げずに理解し、《気力》を萎(ナ)えらせずに“地に足を着けないままでの方向転換”を試(ココロ)み続ける【度量】も無いまま、勝手で一方的な状況分析を繰り返し、歪んだ世界観を抱いてしまい、偏見に満ちた憎悪や不満などの誰からも理解されない“負の感情”を大量発生させてしまっていて。自分が今、相手の《将来の努力の手柄》を根こそぎ横取りするような【大切な事】を不用意に言ってしまい、その人の沢山の夢を無残に押しつぶし・引き裂き・奪い去っていて、ついに相手から嫌悪され・拒絶される事態を自分で引き起こしているのにも関わらず。その惨状にもまったく気付くコトが出来ずにいて、当然の結果として周囲に煙たがられてしまっているというのに、自分は「相手と有益な【大切な事】を共有しようと広い心で親切をしているだけだ」と開き直ってしまったために、自分の想いを歪めて受け取る相手に思い知らせてやろうとしての{相手への“脅し文句”や“侮辱行為”などでの“当り散らし”}が止めらなくなってしまった腹の立つ日々」や、
「自然や他者などの自分ではない側の、自分には無関係な摂理(セツリ)や事情の面倒な把握作業に対し、何時までも安易な幻覚や、嫌いな人のせいにして逃げていないで、キチンと向き合って取り組み。そして、“人間社会が必要とする有用性の高い事象”を《探し出し》、《選別し》、【紡(ツム)ぐ】事に価値を見いだし、それにばかり拘(コダワ)って来た横に“捨て置かれてきた”不要で邪魔で厄介な事象にも、キチンと目配りをして。その上さらに、特定の“唯一神教”や“民主思想”で形成された『世界的ギャング大集団』の武力を恐れて、そのゲームのルールのような《限られた範囲内での有効性が重んじられて作られている“神聖な理性”や“民主的な精神”の観念》の理解にばかり時間と労力を費(ツイ)やしてしまって、《腐り果てて中身のまったく抜け落ちた名ばかりの正義》の名の下に『管理される必要のある汚物』を処理するように踏みにじられ処分されいた多くの被差別者(:障害者や、社会的劣等者や、異民族・異文化圏の人間など)の、本来の世界全体としての大きな在り様(アリヨウ)を見過ごしてきてしまった事を自覚して、『世界的ギャング大集団』を内包する“この世界全体”の在り様(アリサマ)をより完全に解き明かすための実験・観察、分析・構築の繰り返しを【自分一人で】目差していれば良いモノを。「トーマス・クーン」が『《専門図式》の概念』で控えめに言っていた、「~~~『スキ間だらけの《知》のネットワーク』や『複数の《非体系的構造》』という《知》の新体系に基づく『人類の《知》における、各分野の孤立性による不完全性と限定性』を自覚するための、『実験・観察の成熟』を達成した上での《知》の{スキ間の明確化}とそれによる{不確定性の掘り起こし}作業により、「人間が不確定性のまま作り出してしまう“あやうい論理”の危険性に気が付かないまま、多くの人間がその“論理的脅威”の弊害にさらされている」という多くの人間が直面している危機的状況が少しずつ見えてくる~~~」という【大切な事】の暴露を勇んで試みてしまう事によって、人類創生期から失態を繰り返してきている、人間の愚かさである{天邪鬼(アマノジャク)という人間の不確定性を軽視(ケイシ)し嫌悪して差別や迫害を繰り返してきた理性主義の暴走}や{不確定性の不用意な扱いによる人間の区分け政策とジェノサイドの執行}と同じ大罪(タイザイ)を“又候(マタゾロ)”繰り返してしまう事になってしまって。結局は、何もしないでいた方がマシだったのではないかと苦悩する日々」などに、誰もが直面していて。
そのため、そうした人類共通の沢山の悩みから、誰もがスッキリ開放されたいと人類創生より無自覚で思い願っていて。そして、そういった人間が安易に陥(オチイ)ってきた「~~~理性による合理的な分析作業で説明出来る『神に正しく従う自然や精神の事象』と、それとは異なった不確定性な『悪魔に唆(ソソノカ)された不正な自然や精神の事象』を目の前に突きつけられて、それ以外の選択の余地の無いかのような現実逃避や責任転嫁でしかない“あやうい論理”の、無理やりな正論化の無数の無茶な作業の繰り返しで、散発的に興っていた【ウソで不確定性のような『《知》のすき間』を埋める事で様々に創作された『人類の《知》』と呼ばれる】宗教や芸術や科学~~~」が、数千年の時間を掛けて蓄積されながら巧みに練り上げられ、形あるそれなりもモノとして紡がれてきて、人類の誰もが安心して納得してしまうよう上手に作られた“地雷原の上に造られた楽園”といえるモノなのが、『聖書』や『人文学』や『自然科学』である『人類の《知》』の今の現状であり。現代においても人間は「理解出来ない突然の“作用”で意図しない危機にさらされて不安に脅えている飼い犬」みたいな存在なままなのです。

*聖書=(:旧約聖書{ヘブライ語聖書}・新約聖書{新しい契約の書}・クルアーン{読誦(ドクジュ)されるべきもの}など)

*人文学=(:哲学{古代ギリシャ哲学・儒教}や、社会科学{言語学・政治学}や、文芸{文学・芸術}など)

*自然科学=(:数学{「0」の発見・幾何学}や、物理学{ニュートン力学・アインシュタインの「相対性理論」や、生命科学{ダーウィンの「進化論」・バイオテクノロジー}など)

*「トーマス・クーン」=(:『科学革命の構造』で【パラダイム】の概念を現代思想に打ち立て、その後、『《専門図式》の概念』で『スキ間だらけのネットワーク構造』や『複数の《非体系的構造》』という《知》の新体系と、それに欠かせない『実験・観察の成熟』を提唱した科学史のパイオニア。自分の考えが、思想世界に弊害をもたらす事を予見して、自然科学以外の場面での使用を控えるように訴えていた)】





・日本人とジプシー


【『日本人』とは、日本人の多くが日本人の事を「“宗教”に疎(ウト)く、“哲学”を持ってはおらず、“科学”というよりもモノまねが得意な民族」だと自己否定的に言っている民族なのですが。
ウソか本当か、建国以来の島国であったために、人の出入りが少なく、それにともなって情報も少なくて、さらには独特の日本語を使っていたために、大陸にあった国では比較的身近にあって容易に使えていた外国や他民族の『聖書』や『哲学』や『科学』が、ほとんど入手不能か解読不能であったため、昔から必要に応じて何でも自分達の手で創作する事が多かったために、現在においても外国の他民族がオリジナルである『聖書』や『哲学』や『科学』に頼(タヨ)るコトがなく。それに近くてもっと高度なモノを少ない情報を元にしてほとんど新たに作り出す事を独自にしてしまっている、オリジナル性の発揮を現在進行形で行なう能力に長けた数少ない稀有(ケウ)な民族なのが、『日本人』の実像なのです。
しかし、そんな“オリジナル性”も、日本人一人一人ではまったく発揮する事が出来なくて、個人個人はただコピーをしようとしているだけなのですが。極東の島国で、日本語しか使えないのが当たり前の環境で、外国人が直接やって来ることも少なく、外国人から直接何かを教わる機会も少ないので、何かを知るには何時も自分からアクティブにモーションを仕掛けなくてはならず、しかも、少ない大雑把な情報から想像を膨らませて多くを引き出しているものだから、ついつい新しいモノまで余分に生み出してしまっていただけなのです。
すなわち、外国発信の【大切な事】を押し付けられてしまい、強迫的反発精神の天邪鬼(アマノジャク)という人間の不確定性に抵触してしまって、コピーもまともに出来なくなってしまってしまうという差別の対象理由から逃れられないで、足掻(アガ)き苦しみ悩み暴発している、大陸で非主流派とされている民族や国家や宗教の人達と、“オリジナル性”の発揮を図らずもしてしまっている日本人との一番重要な違いとは、民族性や宗教的な背景の違いなどではなくて、単に辺境の島国としての隔離された閉鎖的環境が自然存続出来ていたかどうかの違いなのかもしれません。

この世界には、実験が理論どうりにスムーズに成功出来る《祝福された純正物質》や、理性による合理的な分析作業で説明された事をスムーズに了承して《安定して共感する事の出来る精神》などの、『神に正しく従う自然や精神の事象』と呼ばれ、「正しい人間が正しく発見して正しく用いる事の出来ている事で{正しい物や作用や心が属している真理の世界}と言われている」だけの、人間が認識でたコトによって『人類の《知》』となり、『スキ間だらけの《知》のネットワーク』や『複数の《非体系的構造》』という《知》の体系を形成している部分と。
実験結果が安定する事のない《呪われた劣化物質》や、理性による判断に反発して《理由無く共感を拒む精神》などの、『悪魔に唆(ソソノカ)された不正な自然や精神の事象』と呼ばれ、「悪意に満ちた人間が不純な発見をして悪質な用い方をしてしまっているために{悪魔が裏で糸を引く悪意によって意図的に偽造された物や作用や心で構成されているウソで出来た世界}と言われている」だけの、人間が認識出来ずに『人類の《知》』とする事のまだ出来ていない、《知》のすき間に広がる不確定性の部分とがあって。
その区切りを考えてみるだけでも、人知を超えたこの世界の深淵(シンエン)を想像する事が出来ると思うのですが。それにも拘(カカ)わらず、人間の理性が世界の全てを認識出きると考えてしまう人類の傲慢は跡を絶たず、剰(アマツサ)え、『人類の《知》』がすでに世界のほとんどを認識してしまっていて、自然や精神の不確定性は悪魔に唆(ソソノカ)された事によるウソで作られているという無茶な前提が引き起こす人間の悲劇が日常茶飯事に起こっているというのに。人間の不確定性である《理由無く共感を拒む精神》を悪用して、声高に民主主義や自由市場経済を連呼して、異国の異民族や異教徒を陥(オトシイ)れようとする暴挙が現代世界においても画策されているのですが。過去において、啓蒙主義の押し付けによって気力の低下した異民族を大量に作り出して、植民地主義を成り立たせていた帝国主義時代に、辺境の日本民族が急激な文明開化と富国強兵を達成する事によって、その人間の不確定性を悪用した呪縛から世界中の多くの民族が解き放たれた事があったように。現代においても、敗戦国である日本の揺ぎ無い経済大国ぶりや、極東の辺境からファッションや音楽や漫画・アニメなどでの高い品質とオリジナル性のある文化が発信される事で、またもや、世界中の多くの民族が人間の不確定性を悪用した呪縛から解き放たれる可能性が高いと思うのです。

よく日本は、ジプシー問題が存在しない数少ない国の内の一つだという言われ方をされたいると思いがちで、そもそもジプシー問題が「~~~8世紀前半にアラブ帝国のウマイヤ朝が抗争の絶えない北インドへと侵攻して、西インド地方を占領した事に始まる民族問題で。その後のイスラーム帝国のアッバース朝における9世紀頃からの『スーフィズム』の台頭で、イスラム領域内でのアラブ民族以外の異民族が飛躍的に生活し易くなった事から、それまで以上に西インドのシンド地方などからのイスラム領域内への移住が進行していき、その中のラージャスターン地方のジャイサルメールから移住してきた民族が今のジプシーの始祖と考えられていて。スーフィズムが台頭してすぐの9世紀の後半に始まっていたイスラム原理主義が、特にイスラームにおけるアラブ人の復権を求める中東地域において特に広まっていて、そのため、唯(タダ)でさえ肩身の狭い思いをしていた中東地域からアナトリア(小アジア)周辺に移住していたジプシー達の所へ、まずは西からキリスト教徒の十字軍が蹂躙してきて、そんな彼らとも上手に付き合えるようになった頃には、こんどは、東からモンゴル人がやって来て、イル=ハン国やティムール帝国を順次興国したために、ついに15世紀初めにジプシーの一団がキリスト教世界のヨーロッパ大陸へと移住するために西への移動を開始したのですが。しばらくしてすぐに1402年~1413年の間中断していたオスマン=トルコ帝国が再興して、その勢力がウィーンを包囲するほど広域に拡大したために、イスラム領域内に留まっていたジプシーの多くは農奴となって安定した生活を送っていたのですが、19世紀になるとオスマン=トルコ帝国が衰退を始め、1853~1856年のロシア帝国とのクリミア戦争でイギリス・フランスの支えを受けて勝利して、ロシア帝国の南下をギリギリで持ちこたえていたが、1877~1878年のロシア帝国との戦争に大敗してルーマニアやセルビアやモンテネグロの独立を承認してしまったために、バルカン半島とその周辺地域へのロシア帝国の進出をついに許(ユル)してしまい、その混乱と脅威に押し出される形で15世紀の時とは比較にならない数のジプシーがイスラム領域内から大挙して西・南ヨーロッパや南・北アメリカ大陸を目差して大移動する『カルデラリの大侵攻』が始まり。イギリスの救貧法を真似(マネ)たヨーロッパ各国の救貧法的の制度が、そんなジプシー達による『カルデラリの大侵攻』の直撃を受けて財政破綻を引き起こしてしまい、15世紀にやって来て地域住民と経済的な結び付きを築いていたジプシーと一緒くたにしたジプシーの排斥政策が各国で断行され、20世紀に入るとドイツのナチスがヨーロッパ大陸を掌握(ショウアク)して、ユダヤ人へのホロコーストと対を成すジプシーへのポライモスという兇行(キョウコウ)が執行されてしまい、ヨーロッパ大陸おけるジプシーの居場所が消滅してしまった上に。戦後40年間は、補償問題はユダヤ人にだけ適用されていて、ジプシーは日頃の素行の悪さが原因で各国で排斥されていたモノをナチスがポライモスで処分しただけだというドイツの言い分がまかり通ってしまい、1982年の西ドイツ首相によるナチスのジプシーへの犯罪行為が公認されるまで、ほったらかしにされていたのですが。さらには、ジプシーへの補償や支援を15世紀にやって来ていて各地で独自の地位を築いてきていたシンティ達と、『カルデラリの大侵攻』でやって来た難民のようなロマニ系のロマ達とで区別出来ない平等主義の弊害で、シンティ達とロマ達との間で確執(カクシツ)が起こっていたり、ジプシーの種類を細かく分けると際限が無くなってしまうほどジプシーは各地で多種多様な生活をし、ハッキリしない不安定な立場に立たされている存在であって、ジプシー問題の解決のメドはまったく立っていないと言っていい惨状でありますし。それ以外にも、近年定住生活をやめてジプシーになった集団が各国・各地で様々に色々な形態で発生していたり、アメリカに渡った国別では世界最多の数の多種多様なジプシーが、市民サービスとしての生活保護政策の財政を圧迫していて、19世紀~20世紀にかけてのヨーロッパの問題がアメリカでは未(イマ)だに継続しているといった有り様なのです~~~」ので、極東の島国である日本に、そもそもジプシーがどれだけ入国しているのかもハッキリしないのが現実なので、ジプシー問題が存在しないのが当たり前であると思うかもしれませんが。見方を変えて言い方を変えてみると「大きな戦争も無くなり、ジプシーが戻(モド)れるはずのイスラム領域内において、アメリカの支援によってイスラム原理主義が浸透してしまい、異教徒や異民族の排斥を国家政策にしてしまっているイスラム教国が多くなってきているために、ジプシー問題の解決が遅々として進まないが。日本国や日本人が色々な分野で頑張る事で、民主主義や自由市場経済という重い呪縛からイスラム教徒達を解き放てれば、イスラム教国が自由化されて、ジプシー問題が一気に解決するかもしれない」と言う事も出来て、そうすると、日本は世界的なジプシー問題の重要なキーパーソンであるのに、まったくジプシー問題の解決に関わろうとしない、世界的に無責任な国であると言えてしまうと思うのです。】





・スーフィズム


【『スーフィズム』とは、人間の理性や個人の内面を尊重して禁欲的で厳しい修行を自ら行ない。権力と癒着して官僚化した《ウラマー:法学者》が『クルアーン』や『スンナ』・『ハディース』を私物化したために、《シャリーア:イスラーム法》が“形式化”してしまっていると9世紀の頃より“危惧”してきたイスラム教のグループで。イスラム教の信徒数を世界最大に押し上げた最大の立役者である。

細かく言うと、「神に創造された自らの理性を信頼して内面の反応を研ぎ澄ます事」とは、{これこそが“世界創造の神の作用”である“合理的な事象”そのモノに《人間としての正しい存在と厳格な立場》に立って、自らが適合するコト}であるし、それはある意味で「自らが何時も正しく安定して変わる事なく存在していられるようになれたという大発見」であるので、{それこそが「預言である『クルアーン』を受けるに等しい崇高なモノの享受の瞬間」である}と主張し。
「せっかくの{預言者ムハマンドによってもたらされた預言である『クルアーン』や、その預言者の行言録である『ハディース』や、そこに書かれている預言者の慣行である『スンナ』}や、それを絶対大原則として各宗派が解釈を付(フ)(:附:補完)した不文法(フブンホウ)の《シャリーア》」であっても、人間である《ウラマー》の思惑や意図で“形式化”され、形式的に運用されいては、どんなに大勢の人間で《五範疇》を守り努力しようとも(:六信を信じ、それを五行(五柱)の行為で表現する努力信仰を、どれ程広範囲に広めようとも)、これでは{“世界創造の神の作用”である“合理的な事象”に自らが適合するコト}に近づくコトは出来ないと“危惧”を表明していて。
たとえそれが、土着の信仰行為ではあっても、それが“神に創造された自らの理性を信頼して内面の反応を研ぎ澄ます事”であるならば、それは「預言である『クルアーン』を受けるに等しい崇高なモノの享受」であると解釈したので、インドや東南アジアでのイスラム教の布教が爆発的に進んだのである。

噛み砕いて言うと、《シャリーア》が出来た過程や、《シャリーア》の運用に当たって、{最後の預言である『クルアーン』とそのほかの啓典(:旧約聖書・新約聖書:『モーセ五書』・『詩篇』・『福音書』)や、預言者ムハマンドの行言録である『ハディース』や、預言者の慣行である『スンナ』}の“最終目的”である{“世界創造の神の作用”である“合理的な事象”に自らが適合するコト}を、人間の《ウラマー》が世俗的な価値観に目を奪われて忘れられてしまい、広範囲において大勢の人間を対象にした機械的な信仰行為の定義化が行なわれたために、イスラームの信徒達が{“世界創造の神の作用”である“合理的な事象”に自らが適合するコト}の偽造を強要されて道を踏み外し、イスラーム世界の混乱を引き起こしていると9世紀の頃より“危惧”していて。そんな似非(エセ)信仰だったら、よっぽど多神教信仰の中にある宗教行為の方が{“世界創造の神の作用”である“合理的な事象”に自らが適合するコト}に近い場合があるという宗教解釈をしたので、インドや東南アジアの政権のイスラーム化とともに、普通は難航するはずの土着の民のイスラーム化が加速的に進んだのです。

余談ですが、コーヒーを世界的飲料の地位に押し上げた立役者は、この『スーフィズム』なんですよ。】



~~~第0026号へ続きます~~~





~~~第0022号先頭へ~~~







ちび猫のコメント参照
次回につづく。



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