ちび猫のつぶやき

宇宙人の独断と偏見なのですが、警鐘を鳴らす訳ではなく希望の光を照らす訳でもなく、ただ足下の事を皆で見ていたいだけなのです

25.ちび猫が描く『第0010号の追伸』~『ハーブ・ガーデニング』(3)~

2011-06-18 | つぶやき
第0025号



*****(制作終了)*****



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(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0010号第0011号第0012号第0047号もお読み下さい。)



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・追伸-20:プランターと原発事故(第0023号と重複)


5月最後のその日、農作業に詳しいはずの私の母が、「イチゴの植えてあるプランターで、最近病気が出て困っている」と言うので、ホームセンターで安く大量に買ってあった予備のプランター3個と簡易配合の培養土を提供して、私が弱りかけたイチゴの植え替えをすると買って出たのですが。その病気の出たプランターは私の使っていた安物とは違って下の横に鉛筆程の丸い水抜き穴が開いているタイプのモノで、立体構造の網を底に置く事によって底に水が少し溜まる仕組みになっていたのですが、その水抜き穴が一つしかない上にそこに土が詰まっていて、プランターの中が水浸(ミズビタ)しになっていたのです。確かにこのプランターの構造は良く出来ていて、水遣りの手間を大幅に軽減させてくれる画期的なモノなのでしょうが、水抜き穴が丸くて一つしかないという事は、一般的な言い方でいうところの「その水抜き穴が何かでふさがってしまうという植物にとっては{致命的な事態}をあり得ない事に【想定し忘れ】て造られてしまっている“試作期間中の未完成品”」みたいなのです。

《:ただ、【想定】という事だけを単純思考していくと、《{多量の土で水抜き穴がふさがる}という事態を予(アラカジ)め前提にする事が出来た上でこの水抜き穴の事を考えている今の自分の立場を人は忘れていて》、そして、《水抜き穴があまりにも小さすぎるし、形も丸ではなくて楕円とか三角とかにしても良かったのではないかと思うし、何よりも穴が一つしかないというのはどう見ても不自然であると経験的に直感したコトなのを、合理的な思考の結果だと錯覚(サッカク)していて》、なおかつ、《このプランターが「土が水抜き穴をふさぐコトで根腐れを引き起こす」という可能性を【想定し忘れ】て製作するという人為的な【想定ミス】を犯して開発された“試作期間中の未完成品”であると安易に決め付けてしまっていて》。ついには、その末(スエ)に、《この単純な人為的ミスを次の製品開発の時に考慮されさえすればより完成度の高い新製品が造られていくことだろうという“希望的観測の妄想”に陥(オチイ)り、そういった【想定】と【想定ミス】を繰り返す事でメーカーが次に造る製品の完成度を確実に向上させていくだろうという“おとぎ話のような幻想”に陥ってしまい》、そして、《経験と直感を元にしただけの非科学的な判断とそれを基にした、架空の条件下での理論の構築と、一定の条件下での論理立ての積み上げと、その繰り返しでしかない【想定の決定作業】や【想定に基づく研究】や【想定の精度や条件の向上】が、学術研究の本筋だと“非学術的に盲信”してしまって》、なおかつ、《人の生活に役立とうとする姿勢や人の幸福に貢献しようとする理念などの正義の志(ココロザシ)と、それを変節する事なくやり続けるという誠実さが、人々を見守る神(仏)の恩恵を引き寄せて大きな成果が与えられるのだと“何らかの神様を厚く信仰”してしまっている》。といったような、“幻覚的期待”に浮かれて狂奔(キョウホン)している人間の姿や、人類の知識や学術という『知』の不自然さが浮き彫りになってきます:》

そして、{致命的な事態}という言葉が使われる程(ホド)の「【想定作業】によって深刻な悪影響が出ている{重大な問題}」であり、学術的にも興味深い「普段は固定している土の(ミクロとマクロの)流体状態と静止」についての学術的テーマで、{現在もなお詳しい調査・研究の抜け落ちている『学術的新分野』}であるにもかかわらず、「一見(イッケン)ただの何処(ドコ)にでもある製造メーカーによる人為的で単純な【想定ミス】に見えるし、どうせ問題点やリスクの設定を【想定】する時の議論が、“経済性と利便性の妥協点の選定”をろくにしないままコスト重視で行なわれた結果なのだろうし、それによって、消費者を軽(カロ)んじる“低い志”でモノを造っているメーカーの姿勢がうかがい知れて、そういったコトからも分かるように{結局は、神(仏)からの《ご褒美》がそう簡単には得られずに“試作期間中の未完成品”になってしまった発展途上商品}なのだろう」などと“思考放棄のような希望的納得”を消費者のみんながしていて。そのため、そういった“試作期間中の未完成品”が少しの改良を小出しに加えられただけで、根本的な問題解決は何時までも先送りにされたままで出回ってしまうという“危険性の放置状態”が問題視されないままになっていて。さらには、メーカー側や消費者ばかりか学術研究者からでさえも、日本における{土の「普段は固定している土の(ミクロとマクロの)流体状態と静止」に関する『学術的新分野』の“野放し”}を疑問視する声は(「やぶへび」になると思っているのか)出そうにないのです。

しかしそれは、程度の差こそあれ、あの東日本大震災の時に巨大津波に襲われて“あっけなく壊滅”してしまい、内陸部へと向かう“津波の猛威を防ぐ”事の出来なかった、【津波の高さを想定】して造られた“軽くて脆(モロ)いが背丈だけ高くて安くて早く造れる防波堤”や、津波に襲われてから三月にもなろうとしているのに危機的な状況がまだまだ続きそうな“危険状態からの回復手順や危機対応設備の導入を必要としない原子炉設計思想によって造られる日本の絶対安全原子炉”の福島の第一原子力発電所の原発事故についてもまったく同じで。

新聞やテレビなどで繰り返し見聞きしてきた《“日本の専門家達”の説明や分析で必ず使われる“【想定外】の事態”》という言葉に内在する、「~~~人間による【想定作り】が怠りなく行なわれ、【怠りの無い想定】が作られてさえいれば、そういう“危機的事態の発生”は無かったはずで。したがってこの事故は、単なる人為的なミスであり、{科学技術における“学術的な問題の存在”として指摘されるような、学問的意味合いの事情}は一切含んでおらず。しかも、人類と日本社会に貢献するんだという高い志を、日本の科学工業技術者や産業開発研究者が失わずに、何時も粉骨努力し創意工夫し、さらに細かく言うと、“一人一人が個々に”{有用性や効率性を自戒(ジカイ)し、公平性や公共性を高度に追及し、神(仏)からの《ご褒美:女神の微笑み》を大切に考えながら}怠りなく、日本が世界に貢献し誇れる不断の継続を実践していて。ましてや、【想定作り】における改善不可能な怠りなどがあるはずも無いので。この一時的な危機的状況さえ乗り切れば、【想定の微調整】だけで事態は確実に収束へと向かうはずなのだ~~~」というような学術研究とはほど遠い{学問的な調査・研究をするのには不向きな理想主義の考え方}の言い訳をしている“日本の専門家達”という存在があって。
そういった“学問オンチ”を専門家として野放しにするような、日本国市民の「~~~土木事業や原子力開発における【想定ミス】の大事故がチョクチョク起こっているのに、“学術的な問題の存在”が無いという不自然な説明で安心し。技術者や研究者が“個人個人で個別に”{馴れ合いにならず、結託(ケッタク)せず、切磋琢磨(セッサタクマ)し、神(仏)の支援に感謝し、天の理の導きに耳を傾けて}正しい世界の実現を前向きに追い求めてさえいてくれれば、それで日本は安泰であると安心し。何時も一人で穢(ケガ)れを嫌い、孤高を保った清浄な精神で、一対一の対応の神(仏)と向き合って現状の認識を拒絶する《個人ごとの神秘主義的な信仰》を強固に守る日本人の民族性~~~」があって。それが共通の起因となっているのではないかと思うのです。





・第0025号(新規)


そしてそれは、自然科学や人文学・宗教などの人間が認識出来ている全ての知識・学術に値する『人類の《知》』の『各分野の孤立性による不完全性と限定性』(:「トーマス・クーン」の『《専門図式》の概念』における『スキ間だらけの《論理ネットワーク》』や『複数の《非体系的構造》』に相当)という概念に基づく、『人類の《知》』というモノ自体の“あやうさ”の確認と自覚の作業(:「トーマス・クーン」の『《専門図式》の概念』における『実験・観察の成熟』による人間の都合に合わないデータの蓄積による『スキ間だらけの《論理ネットワーク》』の{スキ間の明確化}とそれによる{不確定性の掘り起こし})が人類の中で何時までも進まずにいるのにも関わらず、世界中の多くの学術研究者が「人間が作り出す“あやうさ”に気が付かないまま、人間がその“脅威”にさらされる」という危機的状況に無関心で、今現在も“あやうさ”の不確定性が何時までも手付かずで放置され続けているからなのです。

《:その結果が、土が起因となった“ありえない”はずの「付加価値の高いプランターの水浸し」であり、地震と津波による“ありえない”事態の「波の高さを【想定】して築き上げた防波堤の崩壊」と「絶対安全な原子炉の事故処理の長期化」なのですが:》

《:それは決して人為的なミスなどではなくて、人間が理解して使用している全ての知識・学術に値する『人類の《知》』の不確定性による{“ありえない”はずの現象}なだけなのです:》

《:プランターにおける『知』の不確定性は、“希望的観測なのを科学的常識だと決め付けてしまう意識”や“経験に基づく予想を合理的考察だと誤認する理性”がもたらす、人の《妄想的な願望》や《意固地な誠意》や《神(仏)と一対一の対応の信仰》が現状認識より優先される“神秘主義”に由来する{商品開発におけるリスク対処の放置}と、「土の(ミクロとマクロの)流体状態と静止」に関する{学術研究の放置状態}という、{“ありえない”はずの現象}であり:》

《:日本の土木事業や原発開発における『知』の不確定性は、地震や津波についての学術研究の放置状態でもなければ、土木工学や原子力エネルギーについての学術研究の放置状態でもなくて。日本の土木事業や原発開発に携(タズサ)わる技術者や研究者が、“神秘主義”に起因する「~~~自分は“自分だけの神(仏)”から『自由に生きるための《見えない支援》と、高尚で正しくあるための《天の理》の導き』を受け取っていて、後から{どんなに良い話}や{迷いを生む問題の提起}や{不安を煽(アオル)るリスクの指摘}をされようとも、一度自分で決定した【“神(仏)”に支えられた自由意志による想定】については責任を持って貫徹する勇気と、最後まで実直(ジッチョク)に対応する誠実さとで、不器用な一個人としての“神(仏)”への{精一杯な礼儀}をつくす決意を固めたその上で、『《天の理》に適(カナ)う公平性と公共性の実現と、そのための有用性と効率性の徹底』によって目に見える高い成果を上げて、“自分だけの神(仏)”の{絶対的価値}を高め、それによって自分の穢(ケガ)れを祓(ハラ)い、魂の清浄を手に入れて、危機感や焦燥感や迷い・よけいな疑念などが心の中から払拭(フッショク)された理想的な仕事場や研究環境を実現させようと、何時も自分のために励(ハゲ)んでいて。
少し何かがあっただけで浮ついて【大切な想定】を安易に譲歩し、平気でコロコロと肝心な部分で妥協してしまう八方美人的姿勢を恥じず、同じような軽薄(ケイハク)で自惚(ウヌボ)れた仲間達と馴れ合い、結託(ケッタク)して、{《見えない支援》を裏切って}みっともなく失敗してしまったり、{《天の理》を見誤って}無駄に時間と労力と才能の損(ソン)を積み上げてしまったり、そして、歴史的な汚名を被(カブ)らされた上にみんなの笑い者にされたり、学術的思考の名を借りた反社会的で非現実的な“綺麗事(キレイゴト)でしかない歴史の逆行”を懲(コ)りずに振りかざしたりするような、そんな人の顔をしているだけの“偽善的な厄介者”とはとても付き合えないと、何時も自分から切り捨ててしまう~~~」というような、基本的な部分での、{人の助けになろう・他人を助けよう}とか、{人を守ろう・隣人(リンジン)を守ろう}とかの『あるべき理念』が完全に抜け落ちてしまっている『“神(仏)”との《一対一の対応》の信仰』を無条件で信じているという、{“ありえない”はずの事態}なのです:》

《:しかし、島国である日本とは違って、大陸を覆(オオ)いつくしている『パラダイムとしての支配的宗教』は、宗教自体が絶対的で強制力の強い『世界と人間の創造主』を絶対神として信仰しているので、日本人の《個人ごとの神秘主義的な信仰》(:神(仏)との一対一の対応の信仰:神(仏)と自分との小乗的な狭い主従関係の信仰)は大昔に排除されてしまっていて。世界的な一神教の宗教概念である「《創造主である絶対神》により世界は正しく創造されていて」、「人も正しいモノとして創られている」と、付け足しとしての「人の理性も正しい判断をするように創られている」という基本的大枠の中で、各宗教・各宗派で「神の教えの通りに正しく生きられない人間は悪魔に感化されたモノであり、排除が必要である」というような教義上の理念を掲(カカ)げての“殺戮(サツリク)の淘汰(トウタ)”が昔から繰り返されてきて。長い歴史の中で、教団の存在が伏せられた特定の教義上の理念だけが優先されて、個人がそれに自主的に従うという社会集団が、民主主義という名の下に広域に形成されていて、今現在、日本の小乗的とは異なった大乗的な形式での『《民主主義という“生存競争”の概念》の一般化と普及(フキュウ)』により、各宗教・各宗派の生き残りをかけた争いが地球上を覆いつくしかけているのですが。日本では奇跡的に、世界的に稀有(ケウ)な《神(仏)と個人との小乗的な関係の信仰》が、“神秘主義”の形で今だに継承(ケイショウ)されているのです:》

《:また、よく『パラダイムシフト』という言葉を安易に用いて、科学や人文学などの色々な分野における停滞や行き詰まりがそれによって一気に解消される夢のような“魔法の認識手法”を語る人が学術研究者の中にも多く居るのですが、『パラダイムシフト』とは早い話、現在確立されている各個に孤立した各分野の孤立さ故(ユエ)の不完全性や限定性とそれによる不確定性が、その分野に近い新しい分野の発見とその急速な進歩・進展によって不確定だったデータの解析が少し進んで、不確定性の多かったその分野の不完全性や限定性が一時的に解消される現象の事であり、新しい分野が行き詰れば不確定性が解消したかに見えたその分野もすぐに行き詰ってしまい、結局また不確定性が露出して、「人間が作り出す“あやうさ”に気が付かないまま、人間がその“脅威”にさらされる」という状況は何時までも続く事になるのですが。しかし、『人類の《知》』の不確定性を容認出来ない今の多くの学術研究者では、その『パラダイムシフト』にたどり着く事さえ、そう容易な事ではないでしょう:》

今言ってきた、『各分野の孤立性による不完全性と限定性』とか、“不確定性の掘り起こし”とか、「人間が作り出す“あやうさ”に気が付かないまま、人間がその“脅威”にさらされる」とか、日本人の《神(仏)と人間との小乗的な関係の信仰》とか、地球上を覆う「民主主義という“生存競争”の概念」とか、“あやうさ”が先送りされるだけの『パラダイムシフト』とかのコトは、「『人類の《知》』の“不確定性”を人間の【人為的な“想定ミス”】や『悪魔に感化されやすい人間性』に単純にすり替えてしまう事の《危険性の告発》」ではあるのですが。仕事へ行って気が付いた時に、仕事場に置いてあった造園業者が管理しているプランターを見てみたら、その殆(ホト)んどが一つ穴の開いたモノで、そういえばその造園業者が大雨の前後によくやって来るので何時も不思議に思っていたのを思い出しました。何だかんだと堅苦しい話しをしてはいるものの、私の観察力や認識も所詮(ショセン)そんなモノだったのです。・・・とりあえずは、便利なモノには大きな落とし穴があるものです、皆さんも気を付けましょう。



(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0011号第0012号をお読み下さい。)





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ちび猫のコメント参照
次回につづく。


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