5:4,8
信者の復活に関して、コリント①15章で書いたことでは説得できなかったのか、またあれこれと例えを用いて説明しようとしている。結局、この身体を脱ぎたいんだか脱ぎたくないんだか、訳分からなくなってる。簡潔に書けないってことは、パウロも良くわかってなかったんだろうな・・・。
5:7「我々は直接見える仕方ではなく、信によって歩んでいる」
パウロは永遠の世界で主と共にあることを願っていた。でもまだ直接それを見ることはできないから、その時が来ることを信じて歩んでるんだ、という意味。
改訂版では「見えるものによってではなく・・・」とあって、これだと目に見える現実世界のものによってではなく・・・みたいな感じになって、パウロがここで考えている趣旨とずれる。
5:10「我々は皆キリストの裁きの座の前で顕わにされ、それぞれが身体によってなしたことを、良いことであれ悪いことであれ、なしたことに応じて償わねばならないからである」
パウロは基本、信仰義認(人間が義とされるのは、律法の実践によるのはなく、神の側が罪人である人間を救おうと決めてくださったからだと信じること)の人。なのに、信者を脅す時にはその信仰と矛盾したことを言うんだよね。なんだかな。
どんな罪人であってもイエス・キリストを信じるなら救われる(魅力的な宗教に思えただろう)、と宣教して信者を集め、信者になった人には自分の基準を押し付けて、そうしないと裁かれるよと脅す。これって、まんまこの組織だよねw。
でも実生活をおくる上での指針は必要だから、ある程度はこういう矛盾も仕方ないのかなぁ・・・。
ちなみに、ここで言う「悪いこと」の原語の意味は、悪というより、軽率な、不注意な、といった感じ。
5:12,13
パウロは、コリントに自分に敵対する者(イエス幻視に関してパウロを正気じゃないと言う者)がいて、信者をたぶらかしていると思っていたのかもしれない。
5:16「我々は、今から後は、誰をも肉によって知ることはしない。もしも(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今はもはやそのように知ることはしない」
パウロが、かつて生きていたイエスを知ることを拒絶しているとして有名な箇所。パウロはここで、福音書に書かれるようなイエスの話(伝承)などどうでもいい、自分は自分に現われた復活のイエスだけを知るんだ、と宣言した。まぁ、売り言葉(本当にイエスを知ってるのか証拠を出せ)に買い言葉的な宣言だったのだろうけど。
マルコがパウロと別れ、福音書を書いた理由は、このあたりにあったのかもしれない。
改訂版は「肉によって」を「人間的な観点で」って訳してる(訳じゃなくて勝手な解釈だよね)けど、これじゃ文脈上意味がわからないよ。この聖句だけ抜き出して都合よく適用しようという魂胆かな。
5:20「我々はキリストに代わって願う、あなた方は神と和解しなさい」
パウロは、和解はすでに生じた事柄で、信者はすでに神と和解したのだ、と言ったそばから続く節でこういう矛盾したことを言う。パウロが考えているのは、神の和解の言葉を伝える私の使徒職を疑ってるうちは神と和解したことにはならない、私の権威を認めることによって神と和解しなさい、ということだろう。
改訂版は「あなた方は」という語を省いて、一般人への言葉と受け取れるよう訳されてる。矛盾を解消しようとしたのかもしれないけど、これじゃ、パウロとコリントの確執が伝わらない。
(聖句は田川訳、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました)
(新世界訳は、改訂版だけと比べていきます。この訳、変なところいっぱいありすぎw。4:5なんて「皆さんに一生懸命仕えている」ですよ。ふきそうになりましたw。子ども相手としか思えない訳です~)
信者の復活に関して、コリント①15章で書いたことでは説得できなかったのか、またあれこれと例えを用いて説明しようとしている。結局、この身体を脱ぎたいんだか脱ぎたくないんだか、訳分からなくなってる。簡潔に書けないってことは、パウロも良くわかってなかったんだろうな・・・。
5:7「我々は直接見える仕方ではなく、信によって歩んでいる」
パウロは永遠の世界で主と共にあることを願っていた。でもまだ直接それを見ることはできないから、その時が来ることを信じて歩んでるんだ、という意味。
改訂版では「見えるものによってではなく・・・」とあって、これだと目に見える現実世界のものによってではなく・・・みたいな感じになって、パウロがここで考えている趣旨とずれる。
5:10「我々は皆キリストの裁きの座の前で顕わにされ、それぞれが身体によってなしたことを、良いことであれ悪いことであれ、なしたことに応じて償わねばならないからである」
パウロは基本、信仰義認(人間が義とされるのは、律法の実践によるのはなく、神の側が罪人である人間を救おうと決めてくださったからだと信じること)の人。なのに、信者を脅す時にはその信仰と矛盾したことを言うんだよね。なんだかな。
どんな罪人であってもイエス・キリストを信じるなら救われる(魅力的な宗教に思えただろう)、と宣教して信者を集め、信者になった人には自分の基準を押し付けて、そうしないと裁かれるよと脅す。これって、まんまこの組織だよねw。
でも実生活をおくる上での指針は必要だから、ある程度はこういう矛盾も仕方ないのかなぁ・・・。
ちなみに、ここで言う「悪いこと」の原語の意味は、悪というより、軽率な、不注意な、といった感じ。
5:12,13
パウロは、コリントに自分に敵対する者(イエス幻視に関してパウロを正気じゃないと言う者)がいて、信者をたぶらかしていると思っていたのかもしれない。
5:16「我々は、今から後は、誰をも肉によって知ることはしない。もしも(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今はもはやそのように知ることはしない」
パウロが、かつて生きていたイエスを知ることを拒絶しているとして有名な箇所。パウロはここで、福音書に書かれるようなイエスの話(伝承)などどうでもいい、自分は自分に現われた復活のイエスだけを知るんだ、と宣言した。まぁ、売り言葉(本当にイエスを知ってるのか証拠を出せ)に買い言葉的な宣言だったのだろうけど。
マルコがパウロと別れ、福音書を書いた理由は、このあたりにあったのかもしれない。
改訂版は「肉によって」を「人間的な観点で」って訳してる(訳じゃなくて勝手な解釈だよね)けど、これじゃ文脈上意味がわからないよ。この聖句だけ抜き出して都合よく適用しようという魂胆かな。
5:20「我々はキリストに代わって願う、あなた方は神と和解しなさい」
パウロは、和解はすでに生じた事柄で、信者はすでに神と和解したのだ、と言ったそばから続く節でこういう矛盾したことを言う。パウロが考えているのは、神の和解の言葉を伝える私の使徒職を疑ってるうちは神と和解したことにはならない、私の権威を認めることによって神と和解しなさい、ということだろう。
改訂版は「あなた方は」という語を省いて、一般人への言葉と受け取れるよう訳されてる。矛盾を解消しようとしたのかもしれないけど、これじゃ、パウロとコリントの確執が伝わらない。
(聖句は田川訳、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました)
(新世界訳は、改訂版だけと比べていきます。この訳、変なところいっぱいありすぎw。4:5なんて「皆さんに一生懸命仕えている」ですよ。ふきそうになりましたw。子ども相手としか思えない訳です~)
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