日々の寝言~Daily Nonsense~

ストーリー/フィクションの力とその限界

ハラリ氏の特別授業の感想文の
続きを少しだけ。

授業を受けていた生徒からの質問の中に、
「宗教もストーリーだということだと思うが、
 それについてどう考えれば良いか?」
というようなものがあった。

それに対して、ハラリ氏は、
「ストーリーはあくまでも団結の道具である」
ということを言った後で、

「ストーリーが全知全能の神ではなく、
 あくまでも不完全な人間によって作られた
 ということを理解することです」

「人は神を理解することはできないのです。
 それを受け入れることができれば、
 自分と異なる人やコミュニティを受け入れる余裕が生まれます。
 すべてが全く同じである必要は無いのです」

ということを言われた。

しかし、ここに実は問題が潜んでいる
のではないかと思う。

一時期、宮台真司さんなどが、
「大きな物語の終焉」というようなことを
言っていたと思う。

大きな物語、共同体が限界を迎えたので、
小さな島宇宙的な共同体の中で
それぞれが小さな物語を生きる時代になった、
というようなことだったと思うのだが(間違っているような気もする)、
その場合に、島宇宙を超えて団結はできるのだろうか?

すべての(妄信的ではない)物語は相対的なものである、
というメタな物語の下で、どうやって同じ目標をもって
団結することができるのか?

ダイバーシティとか、インクルージョンといった問題が
思うほど簡単ではないのは、このあたりではないかと
なんとなく思われるのだが、どうなのだろう?

連合政権のように、相手の物語、価値観を認めた上で、
よりメタなレベルの物語を共有すれば良いのだろうが、
そういう物語が強い力を持てるのだろうか?

子育てする夫婦のように、強い共通の目標があれば、
違いは認めた上で、共通する部分で団結し
協力すればいいような気もするが・・・

それが、生態系を壊すな、というような、
あるいは、SDGs というようなストーリーなのだろうか?

昔、岸田秀さんが「唯幻論」を唱えて
(ご自身による総括本も出ているようだ)すべてはフィクションで相対的だ、
と書いているのを読んだときも、
いろいろなことから自由になったように感じた一方で、
それはニヒリズムに行きつかないのか?
という感じを持ったのだが、
ハラリ氏の話にも、同じような印象を持ってしまう。

我ながら、進歩が無いと思うが、
それを超えて、どういう物語を、
どういうふうに共有すればいいのか?

「認知革命」から、一段階レベルが上がった
革命が必要なようにも思われる。

追記:
NHK から当該部分の動画(英語字幕版)が公開されていた。

[ETV特集] 宗教も人間が作り出したフィクション | ユヴァル・ノア・ハラリの特別授業 | 認知革命 | NHK


そこでは、人間に共通な「スピリチュアル」な問いと、
それに対する答えである「宗教」を区別して、
個別の宗教ではなく、スピリチュアルな部分でつながらなくてはいけない
と主張されている。
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