Amazing Grace 北の大地での田舎暮らし

大自然の中での田舎暮らし
北の大地で生かされていることに心から感謝し、日々感じたことを綴っています

湖の麓より

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泥流地帯

2012年07月21日 | 北海道風景日記





今日は「泥流地帯」のことをアップします

7月1日未明に十勝岳の火口付近で明るく見える現象が確認され、十勝岳温泉郷では宿泊客ら約120名が慌ただしく避難しました

が、この時は大飯原発再稼働と小沢氏離党のことでニュースも新聞も埋め尽くされ、北海道のニュースでさえ報道されませんでした

避難勧告が出たのは1988年の大規模噴火以来、24年ぶりのことです

十勝岳は記録に残る1857年(安政4年)以降、数十年ごとに噴火を繰り返しています

今回、火のようなものが見えると110番通報があった大正火口は、1926年(大正15年)に死者・行方不明者144名の被害を出し

三浦綾子氏の小説「泥流地帯」の題材となったことで知られる大正噴火の際にできたので大正火口と名づけられています

前兆現象から噴火までの期間は数カ月のこともあれば、数年のこともあります

札幌気象台は火口付近の硫黄が燃えたことが原因と推定、今後も警戒が必要と



「ただ逢いたくて」の歌をなぜ選んだかというと、自然災害であっという間に失われた貴い命

どんだけ大金を積んでも、どんなに頼んでも、どんなことをしても会うことができなくなる

そう、3・11もそうですが、どれだけ手を尽くしても会えない場所へ命が持っていかれてしまう切なさ、つらさ、くやしさ

なぜ?

日本が地震国であるということを、いえ、自然に対して私たちは無防備でありなにもできないということをもう一度考えなければならないと

もちろん、考えてもどうこうできるわけではありません

ただ命というものは、生かされている時には当たり前に思っていて、失われた時に気づく

失った者しか、その痛みがわからない

病気で闘病生活をしていても別れはつらいです

事故だったら加害者がいますが、自然災害は...

昨日でクリック募金150回になりました

毎晩、クリックする時に、世界中の苦しんでいる人々のことを考えさせられます

クリック募金したからどうこうというわけではありません

ただ、報道に幅がないのなら、麓は自分のブログで警鐘を促したい

そう思ったのです


ただ逢いたくて



泥流地帯



三浦綾子氏の「泥流地帯」の題材となった安井弥生さんの抜粋記事です




大正十五年五月二十四日十勝岳大爆発の日

私は、大正十一年三月二十二日に、当時上富良野村長の吉田貞次郎と母アサノの三女として生をうけました。

そして、数え年五歳のとき、大正十五年五月二十四日、十勝岳大爆発を体験し、九死に一生を得たわけでございます。

その日は朝から雨が降っておりまして、ゴーゴーと山が鳴っていたそうです。

丁度私の家では、母屋を新築中で、その日は左官屋さんが来て壁を塗っておりました。

それであまり雨が降るので一服しようか、と休憩していた時のことです。

あまり山がゴーゴー鳴るので、祖母が母に「ちょっと外を見ておいで」といったそうです。

私の家のすぐ前に、釧路へ通ずる国道があり、そのまた向こうに国鉄富良野線の線路が走っています。

国鉄の路面は平地より高く盛り上げられていますが、家から外に出て母はびっくりしました。

線路の向こう側に隣の家が流れて浮いて来ているではありませんか。

母は「大変だ大変だ」といって家に飛びこみ、それで祖母をはじめ左官屋さん、私の姉と兄、それに左官屋の弟子もみんな逃げ出しました。

私は、左官屋さんの小母さんが私をおぶってあげるといってくれたのだそうですが、私は母でなければ嫌だといってきかず玄関で泣いていました。

それを母が見つけ、急いで私をおぶり皆のあとをついて走りました。

祖母は六十七歳で一番年をとっているので、少し遠回りになるが路幅が広い畦路を走り、他の者は全部一刻も早くと田んぼの中を直線に走ったそうです。

それで私をおぶった母も、田んぼの中を皆のあとをついて走りました。

そのうち、祖母の声で「覚悟せよ」というような声がきこえ、ハッと振りかえると、祖母の姿は泥流にさらわれもうなかったといいます。

私の家から西の方向に三百メートルほど行ったところに、米村さんという家があり、その米村さんの後方百メートルのところに小高い丘があり

みんなその丘まで逃げようとしていたようですが、そこまで逃げて行くことはできず、やっとの思いで左官屋さんたちは米村さんまで辿りついたそうです。

私をおぶっていた母は、すっかり泥まみれでした。しかしその母屋まで着くことは出来ませんでした。

流木で二進も三進も行かなくなったらしいのです。

その時母がうっかりとおぶっていた私を落としてしまったそうですが、そこはたまたま流木やその家の薪などがぎっしり詰まった所であり

そこであわてて母は私をおぶり直し、納屋のさしかけまで辿りつき、私を馬車の上に置き救いを待ったそうです。

国鉄の線路の高さが泥流をせき止め、私たちは助かりました。

自分たちが助かったと知ると、思いはさっき泥流にのまれてしまった祖母のことです。

ことに、母は「おしゅうとめさんを死なせて、嫁の私は生きていられない。私も死ぬ」といってきかなかったといいます。

左官屋さんが一生懸命に母をなだめてくれたそうです。

いまはトタン屋根ですが当時は柾で屋根を葺いており、その柾を止める釘に私が頭をぶつけ痛い思いをしたことを今でも覚えています。

また、私が「神さん仏さん助けて下さい」「神さん仏さん助けて下さい」と叫んだことも今も覚えています。

私たちはじっと座って救いを待つよりありませんでした。そのうち、先に母屋に着いた左官屋さんが私たちを見つけ助けに来てくれましたが

母屋と納屋の僅か二十メートルか三十メートルくらいの間を、何十分もかかったということです。

そしてやっと入った米村さんの母屋には畳が水で浮いており、布団を貸してもらいそこに座って一夜を明かしたそうです。

姉の記憶によると、もう助からないと思いながら走ったが、助かってしまうとこんどは恐ろしくなってガタガタと歯が合わないぐらい震えながら一夜を明かした。

何も食べなくてもお腹は空かなかった、と申しています。

十勝岳からわが家まで直距離約二十五キロメートルぐらいですが、爆発してから約二十五分で泥流が流れ着いたといいます。

爆発は五月ですから、山にはまだ雪が積もっており、その雪を一瞬のうちに解かし、木や岩やあらゆるものを巻き込み、泥流となって山麓を襲ったものです。

流れてきた泥流はなま暖かったそうです。


日本の火山マップです




安井弥生さん


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