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意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

イエスはいったい何を教えたかったのか?(36) 『いつも何度でも・・・パート1』 8月28日 水曜日 8:23 更新

2013年08月28日 08時23分00秒 | 山上の説教の考察

ジブリ映画、『千と千尋の神隠し』の主題歌である「いつも何度でも」(作詞:覚 和歌子、作曲:木村 弓) という歌があります。皆さんも、以前よく耳にしていたのではないかと思います。

 

今回のブログでは、この「いつも何度でも」という歌の歌詞の中に秘められたメッセージについて、考察してみたいと思います。以前から、このブログの中で書きたいと思っていました。もちろん、私独自の直観で感じ取ったメッセージの解釈と言えるわけですが・・・。悟りの世界、真理の世界へ向かって、ご一緒に、しばらく心の旅をして参りましょう...。

 

では、まず「いつも何度でも」の歌詞を引用しておきます。


 

呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心躍る夢を見たい。 かなしみは 数えきれないけれど その向こうできっと あなたに会える

繰り返すあやまちのそのたび ひとはただ青い空の青さを知る。 果てしなく 道は続いて見えるけれど この両手は光を抱ける。

さよならのときの静かな胸 ゼロになるからだが耳をすませる。 生きている不思議 死んでいく不思議  花も風も街も みんなおなじ。

呼んでいる 胸のどこか奥で。 いつも何度でも夢を描こう。 かなしみの数を言い尽くすより 同じくちびるでそっとうたおう。

閉じていく思い出のそのなかにいつも 忘れたくない ささやきを聞く。 こなごなに砕かれた 鏡の上にも 新しい景色が映される

はじまりの朝の 静かな窓。 ゼロになるからだ 充たされてゆけ。 

海の彼方にはもう探さない。 輝くものは いつもここに わたしのなかに みつけられたから。」

 

この主題歌の名前は「いつも何度でも」ですが、この歌詞をよくみると、もう少し詳しく言うと、「いつも何度でも夢を描こう」という意味であることがわかります。さらに言うと、「いつも何度でも心躍る夢を描こう」ということです。心に心躍る夢を想い描こう、つまり、心躍る夢を想い描くことによって自ら創り出していこう、創造していこう、現象化・現実化していこうということにもなると思います。

 

人は過ちを繰り返すもの、その度に変わらない青い空の青さを人は知ることになる。数えきれない悲しい経験もする。でも、その悲しみの数を言い尽くすよりも、それと同じ唇でそっと歌おうよ。これからもそのような果てしない道が続いていくように見える。人が繰り返す過ちや数々の悲しみは思い出となって、心の中へと閉じ込められていく。でも、その中にあって、忘れたくないささやきが聞こえてくる。このささやきは、どこから聞こえてくるのだろう? あ・・・、私の胸のどこか奥から聞こえてきている気がする・・・。そうだ、私の胸の奥の方から、私を呼んでいるささやきが聞こえてきているんだ。私の目の前からいろいろなものが消え去っていって、さよならをする時のような静寂な胸の奥に耳をすませば、私に呼びかけている輝くものが私の胸の奥に存在していることに私は気づいた。もう私は海の彼方を探す必要はないんだ。とても大切な輝くものは、いつもここに、つまり、私のこの胸の奥に存在していたんだ。心の想いをそこにチューニングする時に、はじまりの朝に静かな窓が開かれてまばゆい光と新鮮な風が入ってくるように、私の胸の奥の輝く存在から私にエネルギーが充たされてくるんだ。このエネルギーと共に私は、いつでも何度でも心躍る夢を描いて、デザインして、創造して現実化していくことができるんだ。こなごなに砕かれて、もう使い物にならなくなったような鏡であっても、その鏡が新しい景色を映し出していくように、もはや行き詰ってしまったかのように思える状況であっても、自分の心の奥にある輝く存在と共に、新しい未来を創り出していくことができるんだ。この時、果てしなく道が続いてみえるけれども、それは迷いの道でも、暗やみの道でもない。私は自分の両手にを抱きつつ、自ら道を切り開いていけるんだ。確かな道を自分の足で歩んでいくことができるんだ。

 

こんなふうな秘められたメッセージを、「いつも何度でも」の歌詞の中に私は観るのです。皆さんには、どのように観えるでしょうか?

 

ここで特に重要なポイントになってくることは、いかにして「ゼロになる」かということです。人は、ゼロになった時に、充たされるからです。ゼロになった時に、“胸の奥に存在する輝くもの”からのささやきに耳をすますことが可能になってくるからです。ゼロになるためには、それなりのコツ秘訣があるのです。一体、それは何なのでしょうか? 逆に、人がゼロになることを妨げているものは、何なのでしょうか? 

ゼロになるとは? ゼロになるにはどうすれば? このようなテーマについて、今回のブログ(36) 『いつも何度でも』の中で扱っていきたいと思っています。しばらくまた、気長にお付き合い下さい。

2013年8月17日 土曜日公開スタート) ⇒  8月19日 月曜日 一部改訂更新)  

 

*     *     *     *     * 

 

これまでの復習になるかも知れませんが、旧約聖書のヨブ記に記載されているヨブという人はあのような試練に出逢う以前は“ゼロ”にはなってはいませんでした。ヨブがそれまでどのような人生を生きてきたかを観てみるとわかります。ヨブは、“”に遠ざかり、その真逆にあるところの“”というものを実は追及していたのでした。でもそれは、むしろ“ゼロ”から離れるような生き方と言えるのです。仮に、“”をマイナス(-)としますと、“”というのはプラス(+)ということができます。“悪(-)”から目を背けたり、“悪(-)”に対抗したり、“悪(-)”を避けたりして、“悪(-)”から遠ざかる方向、つまり、“善(+)”の方向に向かって行こうとすればするほど、不安定さや緊張が増してくるものなのです。無駄にエネルギーを消耗してしまうのです。やがて、疲れてきてしまうのです。でも、当の本人はなぜ自分がそのような状態に陥っているのかは、なかなか理解できないものなのです。(+)でもなく、(-)でもなく、(ゼロ)になることが重要なのです。これが一体どういうことなのかを、以下のようにイメージして、あるいは、図式化して捉えていくと、案外わかりやすいかも知れません。・・・・・・ 8月19日 月曜日 増補更新)⇒8月28日 水曜日一部改訂更新) 

 

*                 *                 *                 *                 *

 

ようやく、図が出来上がりましたので、ブログをさらに続けます。

 

さて、これまでのブログでも何度の書いてきたように、ヨブという人は、この世のほとんどの人々がそうであるように、“善悪の固定観念”で物事をみる癖を持っていたと、私は観ています。私は何も善と悪の存在を否定しているわけではありません。“善悪の固定観念”という色メガネをはめて、身の回りに起こる出来事などをすべて観てしまっていることに気づいていないことに大きな問題があると申し上げているのです。この世で起こることは何でも、善悪で区別したり、分類したりすることで説明が出来ると思い込んでいることに問題があるということです。ヨブとヨブの3人と友人たちは、このような“善悪の固定観念”という考え方を土台にして、ずーっと議論していたので、結論が出なかったのであり、ヨブの試練がなぜ起こったのかを解明することが出来なかったのでした。

 

なぜ、“善悪の固定観念”に囚われていると、人は“悟り”から“迷い”の方へ、落ちて行ってしまうのでしょうか? 理解の助けのために、これから図を用いて説明することに致します。

 

“ゴム紐理論”

下にある図において、中央にある●というのは人間です。●から左右に伸びている線というのは丈夫なゴム紐のようなものと思って下さい。そして、このゴム紐がくっついている左右の端にあるというのは、ゴム紐を固定している重い大きなブロックのようなものと思って下さい。仮に、左の方向を悪(マイナス)、右の方向を善(プラス)とします。

 

 

         

 

 悪(マイナス)                                        善(プラス)

 

 

さて、試練に遭う前のヨブというのは、当時の世の中において、神にも評価されるほどの“正しい敬虔深い人”だったことが、ヨブ記を読むとよくわかります。ヨブは、神を信じ、神を敬い、神の教えを忠実に守るような“信心深い人”だったというわけです。このヨブは、“”に遠ざかり、“”を追及していくというような人生を送っていたのでした。そのような心がけは、もちろん、とても大切なことだと思います。このようなヨブの生き方を図で描くと、次のようになります。   

 

           ヨブが悪に遠ざかり、善に近づこうとしている生き方   

     

 悪(マイナス)                                    善(プラス)  

 

ここで皆さんに考えていただきたいことは、もしヨブが“善悪の固定観念”に囚われて“”を避けて、それと対極にある“”を追及しようとした場合に、ヨブに対してどのような力が働くかについてです。ここで、“ゴム紐理論”という私の考え方を紹介します。これはどのような理論とかと申しますと、ヨブがを求めることを熱心になればなるほど、の方向とは逆方向の力がヨブに強く働いていってしまうということです。ヨブがの方向へ行けば行くほど、右側のゴム紐は緩んでいくのに、逆に、左側のゴム紐の方の力は強まっていって、ヨブが行こうとしている方向とは逆方向に引こうとするわけです。実は、これはとても不安定な状態なのです。そして、に近づこうとしているヨブの心の中では、との狭間にあって戦い葛藤が生じてしまうことになるのです。このために、ヨブ自身のエネルギーが“善悪の戦い”の中で消耗してしまい、のために使うエネルギー、余力はほとんど残っていなかったのではないかと察します。

 

このように“善悪の固定観念”に囚われてしまったがゆえに生じてしまった歪み不安定さを解消するために、ヨブの人生に“試練”が生じてしまったと観ることもできるのではないでしょうか。ちょうど、地下奥深くにある地盤の歪みを解消したり、蓄積したエネルギーを発散したりするために、地震が起こるように・・・・。ヨブの人生に“試練”が生じてしまったのは、単にヨブが“悪”に遠ざかり、“善”を追い求めたからというわけではなく、“善悪の固定観念”という『妄想』の中に存在する『観念的な善』を追い求めたために、歪んだエネルギーが蓄積してしまい、それが許容量をオーバーしてしまったために、それまで蓄積されてきた目に見えないエネルギーが発散したというわけです。そして、それが“試練”という形で現象化したのではないかと、私は考えるのです。従って、試練を解決するのに、ヨブとヨブの3人の友人たちの間の議論の土台となっていた“善悪の固定観念”を頭の中からまずキレイに消去してしまうことが重要なポイントになってくるのです。なぜなら、もしこれまで通り“善悪の固定観念”に囚われたままで“試練”を解決しようと試みるならば、その試練の原因となったエネルギーの歪みを再び増やしていくことになってしまうからです。

 

ところで、「主よ、・・・あなたは善にして善を行われます。」(詩編119編65節~68節)、「義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。」(詩編7編9節)と記されているように、神という存在は“善”であり、“義”であります。ところが、神とは違う存在に造られた人間の場合は、“善”や“義”を熱心に求め、がむしゃらに追及したところで、必ずしもそこに到達するとは限らないのです。旧約聖書の中に、「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。」(伝道の書7章16節)とあり、新約聖書には、「義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。」(ローマ人への手紙9章30~31節)と記されているのです。また、使徒パウロは、かつて、神の義のためだと思って、実際にはイエスの弟子たちを迫害していた時期もありました。人は、“ゼロになる”ことなく、“”や“”に到達し得ないようになっているのです。“ゼロにする”ということは、“善悪の固定観念”によって生み出され、蓄積された歪んだエネルギーを消していくことを意味するとも言えます。そして、そのエネルギーを一気に“試練”という形で発散させるよりも、むしろ、日頃から蓄積したエネルギーの“ガス抜き”を少しずつやっていく方がむしろ無難なわけです。つまり、日々、自分の思考パターンから“善悪の固定観念”を取り除いていくことを実行していくこと、これが大切なのです。

 

ところで、使徒パウロは、この“ゴム紐理論”で説明したのと似たような戦いや葛藤を体験したことを、以下のように述べているのです。

「・・・わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙7章14~24節

 

実は、この“死のからだ”が“ゼロになるからだ”となっていく時に初めて、人は充たされ、活気づいていくのです。ここにこそ、“救い”というものがあるのです。

 

もちろん、これとは逆パターンもあります。から遠ざかり、の方へと近づいていく場合です。それを図で描くと、以下のようになります。

    

             善から遠ざかり、悪に近づこうとしている状態    

      

 悪(マイナス)                                    善(プラス)  

 

このいい例は、イエスが語られた譬にある放蕩息子ではないでしょうか。つまり、自分の相続分の財産を要求して父の家を出て、放蕩な生活に走り、へと突き進んでいったあの放蕩息子です。しまいには、手持ちの財産も全部使い果たして、困窮生活となってしまった放蕩息子にも“試練”が訪れたのでした。でもそのように、の方向へと突っ走っていた放蕩息子にも、やはり、それを抑止する逆方向の力が働いていたのでした。この力というのは、もちろん息子を思う父の“寛容の愛の力”でした。これが、“”の方向に進んでいた放蕩息子を“”の方向へと引き戻そうとしていたのでした。そして、その力に引かれるように、放蕩息子は父のもとへと帰っていくことになったのでした(ルカによる福音書15章11~32節を参照)。

 

さらにこの“ゴム紐理論”を展開していってみてみましょう。

 

イエスの山上の説教にある「・・・あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6章34節)というのは、以下の図で説明することができます。“あす”というのは、もちろん、時間的に“未来”を意味します。

    

                   未来にシフトして生きている状態

        

 

 

図の上の方向を未来の時間、下の方を過去の時間とします。“あすのことを思いわずらう”ということは、体は今という時間を生きているのに、心が未来の時間に飛んでしまっている状態で、未来へ進もうとする人を逆方向の抑止力が働くために、これもやはり人からエネルギーを消耗させ、を生きているにあたってエネルギーを効率よく使うことが難しくなってしまいます。体は今という時を生きているのにもかかわらず、心が未来を生きようとする時に、思い煩いストレスが生じてしまい、今の人生を楽しむことができなくなってしまうわけです。

 

これとは逆に、体は今という時を生きているのに、心が過去という時に囚われて生きているという場合もあります。図で示すと、以下のようになります。                                          

     

 

                   過去にシフトしている状態

 

 

このような状態について、イエスは山上の説教で次のように言っています。

「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。・・・もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイによる福音書6章12~15節

 

過去にこだわり、過去に囚われて生きてしまっていると、人は“ゆるすという行為”を実践することが難しくなってしまいます。“私はあの人のことは、絶対にゆるせないし、ゆるしたいとも思わない”などという人は、今という人生を楽しむことはできなくなってしまうのです。過去をあるがまま受容できず、ゆるしていけなくなる時に、人は今という時を生きるのが辛く、苦しいものになってしまうのです。心が過去へ向かって行こうとする人に、それとは逆方向の力が働くために、やはり、エネルギーの消耗があり、今という時を生きるのにエネルギーを効率的に使うことができなくなってしまいます。

 

人の心と体も、今という時を生きていかなければならないのです。これが最もエネルギー効率の良い人生の生き方だからです。最も安定した生き方でもあるのです。これを図で描くと、以下のようになります。   

 

     

                       最も安定な状態

 

 

人としてこのように最も安定な状態で生きるということが、“ゼロになる”ということなのです。体を今ここに残したまま、心が未来過去にシフトしてしまっていたり、また、“善悪の固定観念”に頭が囚われた状態にあっての方に振れても、の方に振れても、人は“ゼロになる”ことは難しくなるのです。

 

つまり、善悪の固定観念(=善と悪という二元論)に囚われず生きていく、さらに、未来を思いわずらうことも、同時に過去にもこだわらず、囚われずに生きていく、すなわち、すべてをあるがまま認めて、ゆるし、受容しながら、今というこの一瞬一瞬という貴重な時を活き活きと生きていくことこそが大切なのです。イエスが説く“さばくな”(マタイによる福音書7章1節)というのは、このことを言っているのではないかと、私は観ているのです。

 

このように“さばかずに生きる”という極意を身につけていくということが、人としての原点に戻るということであり、すなわち、“ゼロになる”ということでもあるのです。この時に人はエネルギー的に充足し、かつ、安定していけるように造られているのであり、“輝くもの”が実は自分の内の存在していたことに自然と気づくのです。 

 

「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章23節

「・・・あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。」(イザヤ書58章8節

「あなたがたは、世の光である。」(マタイによる福音書5章14節

「果てしなく 道は続いて見えるけれど この両手はを抱ける」(「いつも何度でも」より)

 

人がゼロになり内なる光が輝き始めるようになると、たとえ自分の身の回りにどのような現象が起ころうとも、パニックに陥ることなく、心を乱すことなく、今という時を、この一瞬一瞬という貴重な時を “確固たる人”として安定的に生きていけるようになれるのではないでしょうか。この時に、人は“依存”から“真の自立”へと進化・成長していけるようになるのではないでしょうか?

 

使徒パウロの以下の言葉は、ある意味、彼自身が悟ったことを、すなわち、“ゼロ”を経験したことを示唆しているのではないかと、私には思えるのです。

「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」(ピリピ人への手紙4章11~12節

 

千と千尋の神隠し』の主題歌である「いつも何度でも」の歌を聴く度に、私はこのブログで書いたようなメッセージを感じ取って、一人で感動している・・・というわけです。

 

さて、皆さんは、「いつも何度でも」の歌が流れてくる時に、どのようなことを想いながら聴かれるのでしょうか?

 

8月24日 土 更新) ⇒ 8月25日 日 補足更新)  ・・・ブログ(36) いつも何度でも・・・パート2に続いています・・・

 

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 (適宜、ブログの内容を訂正したり、改訂したり、増補したりして、更新することがありますので、ご了承を・・・)

 


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