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イエスはいったい何を教えたかったのか?(45)『アニメ 結界師(パート2)』 1月30日(木) 21:59に更新

2014年01月30日 21時59分13秒 | 山上の説教の考察

ブログ(45) 『アニメ 結界師(パート2)』 この内容は、『アニメ 結界師(パート1)』から続いています 

 

さて、ここでちょっと火黒(かぐろ)について考察してみたいと思います。彼が使っている武器というのは“日本刀”でした。彼のこの“日本刀”による破壊力は凄まじいものがありました。しかも、彼のその破壊力のパワーとエネルギーというのは、短時間のうちにドンドン進化して強くなっていました(第51話を参照)。

 

そして、影宮(かげみや)時音(ときね)は、現時点での良守(よしもり)の『結界術』や不完全な『絶界』の発動で火黒に対抗していくことはあまりにも無謀なことであることを、良守にわからせようと説得していました。でもこのことは、火黒と直接戦った良守自身も、もちろん、よくわかっていました。それでも、良守は仲間であり、友達であった志々尾限(ししお げん)のかたきを取るために、自分の命をかけても、たとえ刺し違えてでもいいから・・・という思いで、火黒との戦いに挑もうとするのでした。この勝算のない火黒との戦いにおいて、良守は、一体どうなってしまうのでしょうか? ここからが、“アニメ結界師”のクライマックスとなっていくのです。

 

ところで、黒芒楼(こくぼうろう)の最強の敵であるこの火黒という人物を別の角度から観ていくと、とても面白いことがわかってきます。

 

それは何かと申しますと、凄まじい破壊力をもった彼の“日本刀”という武器・凶器というのは、さばく”ことによって人を切り捨てていく、抹殺していくということを象徴しているようにも観えます。つまり、誰にも負けない最強の強さを追求することを生きがいとし、すべてを敵に回してでも倒していく、滅ぼし絶やしていくという生き方です。火黒にとって、“弱さ”こそが悪なのであって、“最強の強さ”を求めることこそが人としての進化なのでり、人間として素晴らしいことのように思えたというわけです。ここに、彼の“美学”というものがあったのでした。そして、自分のこの“美学”に照らして、当てはまらない者や合致しない者はたとえ味方であっても、自らの“日本刀”で切り捨て、滅ぼしていった場面というのが、実際、“アニメ結界師のストーリー”の中で描かれています。つまり、火黒が手にしている刀という凶器でさばいていく”行為というのは、自分の“美学”に反している者はすべて排除していく、そのような者が存在することさえ許さない・・という原則に則っているものであり、そのようにして火黒は数多くの人々をバッサリ、バッサリと切り捨てて、滅ぼしていったと言えます。

 

このような最強の敵である火黒に勝つためには、良守は一体どうすればいいのでしょうか? どのようにして火黒と戦っていくのがベストなのでしょうか? 実は、これが、今回のブログの中心テーマなのです。

 

どうか、この“アニメ結界師”を単なるアニメの一つだとか、エンターテイメントに過ぎない・・・などと思わないでいただきたいのです。今回のブログでは、真面目に、真剣に、“アニメ結界師”の中にある奥義に迫ろうと、私は考えているのです。見逃してはならない重要なメッセージに皆さんの関心を向けようとして、このブログをさらに展開していけたら・・・と思っているので、しばらくお付き合い下さい。

 

2014年1月28日〈火21:29に新規に更新 → 1月29日〈水〉8:30に一部改訂して更新

 

*        *         *         *

 

さて、凄まじいエネルギーとパワーを秘めている火黒の必殺剣に、“正統継承者である結界師”良守が勝つということは可能なのでしょうか? 良守がこれまでよく使っていた従来の“結界術”で「結(けつ)!」とやっても、超スピードで瞬時に移動できる火黒を“結界”で捕らえることは明らかに無理なことだったと思います。もし仮に火黒を“結界”で捕らえたとして、その後、「滅(めつ)!」とやったとしても火黒を滅却して消し去ることは不可能だったのでした。火黒のエネルギーとパワーの方が格段と上だったからです。つまり、戦ったとしても勝負にならないということは、火を見るより明らかなことでした。

 

結界を張る”という行為そのものがどういうことなのかということを観ても、それがわかります。 つまり、私が観るに“結界”を使って、相手を一定の枠内に捕らえるということ自体、他者を“さばいていく”という火黒剣さばきと原理的には何ら変わりがない・・・と思えるからです。“結界”というのは、結界師自らが設定した一定の空間に捕捉する行為と言えます。これは、良守火黒の“さばこう”とする行為の一環と言えるからです。従って、良守が“結界”を使って「結(けつ)!」、「滅(めつ)!」とやったとしたら、火黒と戦いは、“互いにさばき合うような戦い”になってしまうのであり、結果は、エネルギーとパワーにおいて優位にある火黒が明らかに勝つことでしょう。

 

それではもし仮に良守が兄の正守が発動したことのあるような“絶界”を完成させて、それ用いて火黒と戦ったとしたらどうなるでしょうか? それなりの勝負にはなるかと思います。でもおそらく、ずーっと昔、風間流結界術をあみだした創始者時守の“絶界”を実際に体験したことのある火黒であるならば、すでにそれを超えるレベルのエネルギーとパワーを今や身に着けているはずなのです。従って、良守がそのような“絶界”を完成させて、それを用いて火黒に挑んだとしても、火黒自身には勝算があったのではないかと私は推測しています。ちょっと前に不完全な“絶界”を発動させて、火黒の必殺剣からかろうじて自分の身を守った良守火黒は一定の評価をしていました。さらにもう少し待って良守の“絶界”が完成してから、改めて火黒は自分の必殺剣で勝負してみたいと楽しみにしていたくらいだったからです。

 

でも結局、火黒が実際に戦うことになったのは、火黒自身が知っているような単なる“絶界”ではなかったのでした。確かに“絶界”のようではありましたが、これまでの“絶界”とは似ていて非なるものであり、その“絶界”のような高密度のエネルギー界の内容は全く異なるものだったと言えます。 

 

では、良守が独自に完成させていったというその“絶界のようなもの”とは、これまでの“絶界”と比べて、一体、どのような点で異なっていたのでしょうか?

 

 *        *         *         *

 

火黒がフルパワーで最後の攻撃を良守に仕掛けに急速なスピードで近づいてきた時に、間一髪のところで良守独自の絶界が完成するわけですが、私はこれが完成に至るためには、影宮(かげみや)の貢献を見逃してはいけないように思えてならないのです。影宮 閃(かげみや せん)良守絶界の発動がまだ未完成であることを察知して、良守火黒との間に割って入ったのでした。そして、良守が壊した火黒の3つの刀の断片のうち最も強力な刀を持って、火黒の攻撃をある程度阻止して、少しでも時間稼ぎをしようとしました。そして、その間に良守は“独自の絶界”を完成させることになったわけです。

 

でも、単に、影宮が時間稼ぎをしてくれたから“独自の絶界”が完成したというわけではない・・・と私は思っているのです。影宮火黒良守との間に割って入ったからこそ、完成できたのではないかと、私は観ているのです。

 

通常の“絶界”というのは、何らかのネガティブな感情が引き金となって発動し、その高密度のエネルギーから構成される“絶界”の中には自分以外のものを存在させることができないと言われています。その“絶界”に触れるものすべてを消し去ってしまう威力があったのでした。

 

兄の正守が、良守が発動させた“絶界のようなもの”(この中に影宮も取り込んでいた)を目の当たりに見た時に、次のように鋭い分析をしていました。 

「これは良守がやったのか?・・・この高密度のエネルギー・・・良守だけのものか? ここは烏森(からすもり)の地でもないというのに・・・。・・・侵入するものは排除する。そういう意味では“絶界”だが、自分自身の人間を取り込んでいる時点で“絶界”とは違う。」

 

つまり、火黒との最終決戦で発動させた良守独自の絶界というのは、ただ単に“敵”である火黒を滅ぼして消し去るために発動されたものではなかったのです。それは自分の命をも顧みないで自分と火黒の間に盾となってくれた友である影宮を“守るために”発動されたものだったのです。だからこそ、良守が発動した高密度のエネルギーから構成されている“独自の絶界”の中であっても影宮は存在し得たのでした。言い換えれば、良守独自の絶界”のエネルギーの中にはネガティブな感情の要素が混じっておらず、純粋に“包み込んで守り、救うための高密度エネルギー”だったので、影宮もその中で存在し得たと言えます。

 

このブログのパート(1)でも述べたように、“”と呼ばれていた黒芒楼(こくぼうろう)の主である黒芒(くろすすき)の化け狐が、良守が発動した絶界のようなもの”をみて、「壊すために力を使うかと思ったら、誰かを守るために力を使って」と言っていたのは、実に的を射た表現であったと言えると、私は思います。

 

この良守が発動した“独自の絶界のエネルギー”というのは、火黒から発動されている“人をさばき、滅ぼすための高密度エネルギー”とは、質的に全く異なる、むしろ正反対のエネルギーで構成されていたと言えます。

 

そして、火黒は、良守が発動した“独自の絶界の高密度エネルギー”の領域に入り込んできた瞬間、自分が負けたことに気づくのにそんなに時間はかかりませんでした。

 

火黒は消え去っていく直前に自分に問いかけながら、思い出します、「今、おれはここで負ける。なぜだ? なぜおれはこのような不自由なやつらに負ける? おまえらに何がある? おまえらにあるのは、全部おれがかつて捨てたものばかりじゃないか。だからか? おれには何もないからか? わからね~。 ただ、今蘇るこの感覚は、この体が今より熱をもっていた頃、刀で切るあの切なる感覚・・・、私はあのヒリヒリした感覚をずっと続けばいいと思っていた。でも長い時間で求めたものとなんか違う。・・・そうだ、ようやく思い出せた。この感じだ!」(もしかしたら、この引用文に、一部私の聞き間違いがあるかもしれません)と。

 

火黒は、良守の破壊的なエネルギーで打ち負かされて、消滅していったというわけではありませんでした。良守が発動した“包み込んで守り、救うための独自の絶界の高密度エネルギー”の領域・空間の中にあって、これまでの自分の生涯をパノラマのように思い出しながら、何かを悟って、納得して消え去っていったというのが適切な表現のように私には思えてならないのです。

 

 (1月29日〈水〉21:48に更新)→(1月30日〈木〉21:19に一部改訂更新)

 

・・・この内容は、ブログ(45)パート3に続いています・・・

 

(ブログを後から読み返して誤字や脱字を訂正したり、内容を改訂したり、増補したりして、適宜、進化(?)するために更新することがありますので、ご了承を・・・)

 

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