月刊ボンジョルノ

ほとんどツイートの転載です。

追悼

2008-03-30 | Weblog
東儀兼彦先生が亡くなった。享年70歳。いかにも早い。
先輩プロデューサーのマネをして生意気にも「カネヒコさん」などと呼ばせていただいていたが、その方がぴったりくる誠に気さくなお人柄だった。
話好きで、人をつかまえては「ねえねえ、あれどうなった?」とニコニコしながら話しかけてくる。
アシスタントでウロウロしている若造の私にも全く同じ接し方なのであるが、これのできる人が少ない。
細かい打ち合わせも面倒がらずに「いい気晴らしだよ」と劇場にしょっちゅう足を運んでくださったが、そういうときに直接お話を伺うことでどれだけ勉強になったかしれない。

「僕はプレイヤーだから」というのが口癖で、プレイヤーなどというハイカラな単語が秦河勝の末裔たるカネヒコさんの口から出るのが妙におかしかった。
雅楽について質問されれば答えるし、頼まれればプログラムに解説も書くが、自分は研究者でも評論家でもましてや好事家でもない、プロの演奏家なのだという自負と自戒がそこには込められていた。
楽を奏する者というと平安貴族とごっちゃにしている方が多いが、あれは貴族が余技として雅楽を嗜んでいるだけで、雅楽を生業とする楽師というのは貴族ではなく一種の職人である。
特に奏楽をもってミカドに仕える特殊技能集団が現在の宮内庁式部職楽部で(ちなみに楽師さんの国家公務員としての肩書は内閣府技官という)、その中でもアルチザン気質というのか、ごちゃごちゃ言わずに芸に徹するとでもいうような雰囲気を醸し出している方だった。
背広で劇場にやって来る普段の姿は大変失礼ながら「気のいいおじさん」という感じで、気取った権威主義的なところの見事にない方だったが、楽部の春秋の演奏会の舞台でお見受けする装束姿はさすがに凛としていて、楽部を代表して二階の陛下に向かって礼をする首席楽長の貫目にこちらも背筋が伸びるような気がした。

自費で篳篥の舌(吹き口の部品)の作り方のDVDを刊行されている。
舌は吹き手が自分で切ったり削ったりしてこしらえるものであるが、これなぞは数十年、いや十年経ったらハンパでなく貴重な資料になるのは確実で、あえてこれをDVDに残しておこうという、そういう目のつけどころや、それを実現する実行力や、いたずらに口伝に頼らない開けた考え方には敬意を表さざるを得ない。

最初に入院されたときはちょうど秋の雅楽公演『序と残楽』の直前で、このときは演奏の前に中沢新一・岡野玲子両先生との鼎談もお願いしてあったので、かなり焦った。
当然ピンチヒッターも考えたが、「『もうチラシもできてるから出ないわけにいかないんです』って許可をもらいましたから」と、何事もなかったかのように病院から駆けつけてくださった。
楽屋で照れ臭そうに岡野先生にサインをもらっているのを目撃した。

その後のある日、突然つるつる坊主でひょっこり訪ねて来られたことがあったが、まるでなんの違和感もなく、それどころか威風あたりを払うようで、京都のどこかの高僧かと思わせるような立派さであった。
やはり普段失敗の許されない大舞台(大喪の礼なども含めた皇室の儀礼を大舞台と呼んでいいのかどうか分からぬが)をつとめているだけに立派な顔になるんだなあと感心した。
「やっぱりねえ、篳篥を何日か吹かないと唇の感じが違ってきていい音が出なくなるんだよ」とおっしゃっていて、まあ芸事はなんでもそういうもんだろうなあとは思ったが、やはり一抹の哀愁を感じざるを得なかった。
しかし稽古場できちんと若手に怒鳴ることのできる方でもあり(目撃したのは一度きりだが)、これから後進の指導にばりばり働かれるにちがいないと思っていたので、70歳にしてお逝きになったのは残念でならない。

今日はCD『喜瑞』を聴いてカネヒコさんを偲ぶことにしよう。
心よりご冥福をお祈りいたします。