愛していると言ってくれの再放送をやっている。
もう伝説と言っていいほどの名作ドラマである。
新型コロナウイルスの影響で撮影ができないから、4月期のドラマは軒並み途中で止まったり、最初かから放送しなかったり。各局バラエティなども総集編や特別編などと言って再編集したものを多々流してるみたいだ。
で、過去のドラマを放送してたりするんだが、普通はせいぜい「逃げ恥」とか「下町ロケット」とか数年前のものだが、この「愛していると言ってくれ」は1995年放送だから、もう25年前か。
1995年といえば1月に阪神淡路大震災があった年。震災を機にそれまでのバブル景気の名残が一気に飛んで、いろんな価値観が変わった年だ。
ボランティア(奉仕活動)というものが世間に浸透したのもこの阪神大震災からだ。それまでは「奉仕」とか「社会貢献」などというものは、一部の慈善活動家か篤志家がするものだった。偏見ではないよ。
実際、エチオピア飢餓救済のため、U.KのRock&Pops界スーパースターがBAND AIDとして集まった「Do They Know It's Christmas」を聞いても、アメリカのこれまた超売れっ子ミュージシャンが集まってUSA for Africaが「We Are The World」を歌ってても、海の向こうの“金も名声もあるミュージシャン”がやってる“慈善活動”って感じだった。
日本はその頃バブル景気を謳歌し、イカしたファッションで全身キメた男女が、アフターファイブにオッシャレ〜なレストランやBarで愛を語ってた時代だ。
それを誘導するかのように、オシャレな男女が、きらめく都会で恋や恋愛を謳歌するドラマ、俗に言われるトレンディドラマがヒットしてた。
「君の瞳をタイホする!」「抱きしめたい!」「君の瞳に恋してる!」「愛しあってるかい!」・・・愛とか恋とかタイトルにつけときゃとりあえず見るだろう、あっ「!」も忘れずになって感じだ。まさにバブル象徴のトレンディ会社、テレビ局と広告代理店の思惑そのまま丸出しである。
俺は当時流行ってたこのトレンディドラマってやつが苦手だった。自分とは無縁の世界。仕事柄お客様との会話(OLさんとかね)のためにビデオ録画して渋々見ていたが、見ないまま数週間分溜まってそのうちまた新しいトレンディが始まって上書きって事もザラだった。
この「愛していると言ってくれ」もタイトルに「愛」が付いているので、最初は勘違いして観ていなかった。お客様から次々と「いいドラマよ」「面白いよ」と絶賛され、挙句には「絶対見ないと後悔するよ」とまで言われたので3話目から見た。
ご存知の通りこのドラマは耳の聞こえない(口もきけない)画家の男(豊川悦司)と劇団で夢を追う女(常盤貴子)の切ないラブストーリーである。トレンディなファッションも、イカした会話もこのドラマにはない。そもそも会話は手話と唇の動きを読むだけだ。
しかも、ただ単に障害を持つ男と純粋な心を持った女の恋の話ではないのだ。いろんな社会問題やご時世ネタの細かい描写が、さりげなく入れている北川悦吏子さんの脚本がいい上に、常盤貴子と豊川悦司の演技がいい。さらにそこにドリカムの「LOVE LOVE LOVE」が重なって・・・。
「めちゃくちゃ面白いぞ」「続きを早く見たい(早く来週にならないかな)」って思ったドラマは久々だ。いや、その前に見過ごしてた1,2話を見なくては。
勧めてくれたお客様に頼んで、録画したビデオを貸してもらって見た。(もちろん爪は折ってあった)
バブルは終わったとか言いながらもまだまだ世間では有給取ってグアム旅行だ、ベイエリアでメッシー君とデートだって言ってた頃だ。映画「バブルでGO!」でも描かれてたが、TAXIなんて「一万円札持って手をあげてなきゃ止まってくれない」と言われた時代。
この「愛してると言ってくれ」でも常盤貴子が、豊川悦司の代わりに絵を画廊まで届けようとする際にタクシーを拾おうとするのだが、停まってくれないってシーンがある。常盤貴子の身なりが普通の安っぽい服だからだし、この頃のタクシーは「近距離はお断りだぃ」って殿様商売だったからな。
このドラマはそんなバブルの末期と胡散臭さ(画廊のブローカーとか)も描いているのだが、すごいのは、ハンデを持った人たちのことを正面から向き合って描いたドラマなのだ。
このドラマがきっかけで手話を習う人が増えたと思う。いやそれは、その前の酒井法子主演の「星の金貨」からかもしれない。
そしてその後の野島伸司脚本「未成年」で自閉症が描かれた。演じたのは当時まだジャニオタ以外では無名に近かった香取慎吾。その前の「沙粧妙子の事件簿」での演技と、この「未成年」での映画「レインマン」のダスティン・ホフマンを彷彿させるような素晴らしい演技に驚いた。
翌年には和久井映見が「ピュア」で知的障害者(サヴァン症候群)を演じた。
これらのドラマや阪神大震災の影響で、ボランティア・慈善行為は裕福な人がするものではなく、普通の一般人がしてもいいんだって変わっていった。ハンデを背負った人や障害者に対する偏見の問題も含め、困った時には手を差し伸べる事に躊躇しなくて良くなった。「偽善者」と罵られる事もなくなった。(いや、今でも「売名行為」とかケチつける奴はいるけどな)
今では信じられないかもしれないけど、当時はそれほどまで偏見あったのよ。
ハンデがある人を見ると見て見ぬ振りするか、蔑んだ目、哀れんだ目でみるか。
ドラマの中で豊川悦司が「僕はかわいそうじゃない」「助けて欲しいと思っていない」と、常盤貴子を突き放すシーンがある。蔑みや哀れみならごめんだと。そんな人は今まで何人もいたと。
俺はガキの頃から親に「困ってる人を見たら助けてあげなさい、それが人として当たり前のことです」と言われて育ったので、道で困ってる人を見たら声かけたり、車椅子を押すの手伝ったりするよ。重い荷物持って階段登ってるばあさんの荷物持ってあげたりは平気で昔からする。普段はこのブログでも「じじぃ」とか「ババア」とか罵ってるが、困ってる人は別だ。
まぁ声をかけても、当時ヤンキーの身なりの俺(今は上下黒ずくめにサングラス)の姿に戸惑い、「いいです いいです」(なぜか二度言う)って断られたりするんだけどね。
ツレには「何してんの?」と不思議がられたり、「らしくない」とか「いいカッコしい」とか言われるが構いはしないのだ。照れ隠しに「遺産家かもしれんやろ?」とか「偽善行為やから」とか言って照れ隠しするけどね。
でも俺は当時の慈善活動してる人が苦手だった。俺は困ってる人、ハンデのある人を「可哀想」扱いにしたりする奴が嫌いだ。「上から目線」丸出しで「私たち健常者が、障害者を助けてあげなくては」などという奴が大嫌いだったのだ。
「障害を持って生まれたのにこんなに頑張ってます」とか「ハンデを乗り越えてなんちゃら」ってなのも嫌い。24時間テレビも嫌いだし、障害者は心が綺麗なんですって過剰演出された番組なんかも嫌い。
困ってる人を手伝いはするけれど、そこに感情はあまりない。哀れんだりするのは嫌だし、ましてや「大変ねぇ」「頑張ってね」とか言う気もない。
だから以前、佐村河内とかいうアーティストが、耳が聞こえないのは嘘で実は聞こえてたって騒がれた事件も「こいつら何騒いでんだ?」ってバカにしてた。どうせ騒いでる人は、上から目線で「耳が聞こえないのにこんな曲作れるなんて」って思ってた人たちだろう。だからゴーストライターが書いてたなんて「騙されたあああ」って。
フィギュアスケートの高橋大輔が、この事件発覚後に慌てて使用曲(HIROSHIMAだったかな?)を外した時は、なんじゃこいつって嘲笑してしまったよ。曲が良いと思ってたから使用曲にしたんじゃなかったのねってね。
考えてもみろよ。いい曲に健常者作曲とか障害者作曲って関係ないだろ。
レイ・チャールズやスティービー・ワンダーの曲は、彼らが盲目だからすごいのか?もし実は目が見えてたら「騙されたって」騒ぐのか。彼らがハンデ持った人だからいい曲だと思ってるのか?
そりゃ「べートヴェンは耳が聞こえなくなってからも変わらずすごい交響曲を書いてた」とはちょっと違うかもしれないが、辻井伸行が目が見えなかろうが耳が聞こえなかろうがいい曲はいい曲で、そうでもない曲はそうでもないだろ。ただそれだけだ。「目が見えないのに」ではない。
こういうこと言うと「ハンデがある人は健常者よりも何倍もの努力や修練が必要なんだ」と言う人がいる。そりゃそうだ。それは並大抵ではないだろう。
だから手伝えるところは手伝う。でも、求めてないのに手を差し伸べることはしない。そんな余裕もないし驕りたくもない。「素晴らしいメロディ」とか「いい絵だ」にハンデは関係ないだろ?それこそ目に見えてるものに惑わされてるだけだろ。
「愛していると言ってくれ」でも、常盤貴子がまだ豊川悦司が耳が聞こえないとか口がきけないって知る前に書いてる絵を「いい絵ね」と褒めたから絵をあげたんだ。
デビューしたての矢田亜希子が豊川悦司の血が繋がらない妹役で出てるのだが、彼女が「興味本位で兄に近づくな」と常盤貴子に言うシーンがる。「今までそんな人に」とか「そんな人のせいで兄はボロボロになった」とか。セリフは棒読みに近いが、なかなか考えさせられる言葉である。
父親役の橋爪功さんも「お前がこうなってなかったら、かあさんは出て行かなかったかも」と複雑な心境を吐露する。
いろいろなところに、それぞれハンデを持った人への心情が余すことなく描かれている。ハンデを背負った人に手を差し伸べましょうねなんて綺麗事をこのドラマは描かない。耳が聞こえない、口がきけないけど心は純粋なのだって主人公を美化して描くこともなく、世の中は障害者に対して理不尽だと責めるように描かれてるわけでもない。
そこにあるのは「葛藤」。
どう接したらいいのか、どうするべきなのか、どう考えるべきなのか。
まだまだ、腫れ物を触るみたいに接したり、透明人間のように見えないふりしたり気づかないふりしたりしてた時代に、よくもまぁこんな素晴らしいドラマを作ったもんだ。
常盤貴子はその後、北川悦吏子さん脚本の「ビューティフルライフ」では、難病によって車椅子での生活をする女を見事に演じた。美容師を演じた木村拓哉さんのおかげで翌年から美容学校の入学希望者がめちゃ増えたこの大ヒットドラマで見せた、常盤貴子のハンデを背負った演技はかなり素晴らしい。(ちなみに常盤貴子は「みにくいアヒルの子」では美容師役だ)
このドラマの頃(2000年)は、もうボランティアとか手助けは一般的になってきてたが、まだまだバリアーフリーってのは進んでなかった。段差や階段が多いのよね日本て。
それから20年経った今、最近はようやくバリアフリーが浸透して、道路や建物なんかでも段差がなくなってきたけど、それでもまだ郊外に行くと整備されてなかったり、不便だったりする。議員さんや役所の人は何ヶ月に一回は車椅子で1日過ごしてみたらいいのにねって思うよ。
ただ、昨年11月に池袋の西武百貨店でワインを試飲した人が、二杯目を飲もうとしたら店員に断られたことが騒ぎになった事件はちょっと考えさせられる。
この男はカナダの自称料理研究家だそうだが、損害賠償で西武百貨店を訴えた。西武百貨店側は2016年にワインを試飲した車椅子利用者が他の客の足を引く事件があり、以降車椅子利用者には酒類提供をしない方針にしてたそうだ。
このカナダ人は「酔って他の客に迷惑かけてないと抗議」(でも酔っ払いもそう言うんだ)し、店側も現在は事故の可能性など説明後に酒類提供しているそうだが、170万円の賠償請求をしたそうだ。ワインが飲めなかったくらいでなんで170万円もの損害を被ったと言えるのかわからんが、もっと根本的なことを忘れてる。それとも知らないのか。
車椅子は「車両」である。
自転車でも酒飲んで運転したら飲酒運転になるように、車椅子でも飲酒運転になる。
はっきり言ってこんな奴が一番迷惑である。こんな人のおかげでまだまだ偏見が続く。「障害者だからってわがまま言うな」って。おとなしくしてろと。
健常者と同じように接してくれ、偏見の目では見ないでくれ、蔑み哀れみはごめんだ。
もちろんそれはわかる。
俺はこのブログでも何度か書いてるが、男女平等!ってことさら騒ぐ奴が嫌いだし、LGBTに権利をと騒ぐ奴も嫌いだ。偏見や差別はしないが、特別視することも意味なく優先する気もない。
よく「海外では」と、海外ではいかに優れてるかを唱える人がいるが(出羽守って呼ぶのね)、アメリカという国は障害者やハンデを持った人に対しての互助精神、慈善活動などが成り立っている。
テーマパークでもハンデキャッパーは優先入場だし、それを咎めたり羨む人もいない。大型スーパーマーケットなどの駐車場でも入り口近くは全て障害者専用だ。路面に車椅子マークなど書いてなくともだ。
俺はL.A.で知らずに「ここ空いてるやん」って車停めたら、同乗者に「店から出てくるときに包帯巻いてなきゃいけないよ」って言われたことがある。それが「ここに停めるなら『健常者のくせに停めた』って言われないために怪我人のふりしなきゃダメだよ」ってジョークのように諭されたとわかった時は赤顏の思いだった。
バスでも、老人やハンデキャッパーが降りる時は乗客みんなが手伝うし、ドアも開けてあげたりする。たとえそれがラジカセを肩に担いだTATOOバリバリのラッパーみたいな奴でも普通に手助けしてる。
ベトナム戦争で傷痍軍人が増えたという背景があったり、貧富の差が激しいとかもあるんだろうけど、社会全体でボランティアが当たり前のように存在してる。
不思議なことにこんな慈善活動、奉仕精神が浸透している国で、未だに黒人差別で悲しい事件が起こるのが不思議だ。日本人にはまだまだ理解できない根強い奴隷制時代からの有色人種差別が残ってるのかもしれないが、それについては今後また書こう。
とにかく愛していると言ってくれ。続きをぜひ見なくっちゃ。
エンディング(結末)はわかってるのにね。
普段は一度見たドラマを再度見たり、同じ映画を繰り返し見たりなんてしないのだが、このドラマだけはぜひ見なくっちゃ。
麻生祐未が登場してきて、余裕の手話をみせる回はまだか。
楽しみだ。
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