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ブニーニとP6の典礼改革

2010-12-30 | 典礼 ノブスオルド
典礼革命の設計者アンニバーレ・ブニーニ大司教
マイケル・デイヴィース
「典礼革命――パウロ六世の新しいミサ」XXIV章
 
翻訳 『フマネ・ヴィテ』研究会会員
 
もし、C・S・ルイスのザ・スクルーテープ・レターに出てくる悪魔の一人に、典礼を荒廃させる許可が与えられたとしても、これほどうまくはできなかったでしょう。    
ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント
「荒らされたぶどうの園」
 
アンニバーレ・ブニーニ大司教は、一九一二年、イタリアのチヴィテッラ・デ・レゴに生まれました。彼は一九二八年、ヴィンセンチオ宣教会員として神学の勉強を始め。一九三六年、司祭に叙階されました。十年間ローマ郊外にて教区の仕事に、一九四七年から一九五七年まで布教出版物の執筆及び編集に従事しました。また、一九四七年には典礼研究の分野にも積極的にかかわり、二十年間にわたって、イタリアで最も有名な典礼出版物の一つであるEphemerides Liturgicaeの編集長を勤めました。彼は数々の学術刊行物に投稿し、また種々の百科事典や辞書に典礼について多くの記事を執筆し、学術書、一般書両方の分野で数多くの本を出版しています。
 
一九四八年、ブニーニ神父はピオ十二世の典礼改革委員会長官に任命、一九四九年、教皇庁立プロパガンダ・フィデ大学教授、一九五五年、教皇庁立教会音楽大学教授、一九五六年、典礼聖省顧問、一九五七年、ラテラン大学典礼学教授に任命されています。
 
その後、一九六〇年、ブニーニ神父は、たとえ決定的ではなかったとしても、教会史上に重要な影響を及ぼし得る立場に置かれました。つまり第二バチカン公会議のための準備委員会の長官に任命されたのです。1委員会の教父たちが議論するため提出される「提案」に関して、彼は影響力を奮うことができました。(元司祭でバチカン内に親しい友人がいる)カルロ・ファルコーニ氏は、準備委員会で出された典礼改革草案が「ブニーニの草案」であったと言っています。2ブニーニ自身の出版物ノティツィエでも強調されているように、公会議で教父たちが結局採択してしまった典礼憲章は、準備委員会でブニーニが取り仕切ってきた「草案」とまったく同じものでした。3
 
フランス人のドミニコ会員で典礼研究者P・M・ギー神父は、公会議準備委員会のメンバーですが、彼によれば
 
ブニーニ神父はピオ十二世により設定された典礼改革委員会長官でした。これは幸いでした。彼は天性の組織者かつ偏見のない司牧的精神の持ち主でした。チコニャーニ枢機卿と共に、彼はヨハネ二十三世によって推薦された精神の自由を、議論の中に吹き込むことができたと多くの人が認めています。4
 
ブニーニ神父は、一九六二年四月一日のオッセルヴァトーレ・ロマーノに改革委員会の仕事について長い記事を書いています。
 
ブニーニの典礼改革提案は、最終的な形が整えられ、一九六二年一月十三日の準備委員会総会の投票で採択されました。しかし、この段階で、委員会議長であった八十才のガエターノ・チコニャーニ枢機卿には、いくつかの文章の中に危険が内在していることを悟るだけの先見性がありました.ギー神父は「この改革プログラムは非常に広範にわたっているので、チコニャーニ枢機卿は躊躇した」と言っています。5議長であるチコニャーニ枢機卿にこの草案にサインするよう説得できなければ、この草案は阻止されたことでしょう。大多数の委員が賛成しても、この枢機卿がサインしなければ提案は通過しないのです。そこで、ブニーニ神父は行動する必要がありました。彼は急遽、教皇ヨハネ二十三世に接近し、教皇は関与することに同意しました。教皇はアムレト・チコニャーニ枢機卿(教皇庁長官であり、かつガエターノ・チコニャーニ枢機卿の弟)を呼び、兄の所へ行き、彼がこの案に署名するまでは戻って来ないように命じ、アムレト・チコニャーニ枢機卿は従ったのです。
 
後に、典礼準備委員のある顧問は述べています「老齢のチコニャーニ枢機卿は頭上に書類を振り回し「彼らはわたしがサインするのを望んでいるが、わたしにはそれが望ましいか、望ましくないか分からない」と、涙ぐみながら言ったと伝えられます。しかし、仕方なく彼は書類をテーブルの上に置き、筆を執り、署名し、その四日後、息を引き取りました。6  

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ブニーニ草案が、結局は本質的変更なしに通過した、唯一の草案であることに注目して、ノティツィエは、一九七二年、非常な満足感をもって、当時を振り返っています。
 
ヴィルトゲン神父のコメントは以下のとおり。
 
…非常に多くの司教と顧問たちが、教皇ヨハネ二十三世によってライン川周辺諸国から典礼委員会準備委員に指名されていました 。その結果、彼らは、提案に自分たちの考えを挿入することに成功し、彼らが受け入れやすいと信じた文書が通過しました。
 
ルフェーブル大司教は、その他の草案について以下のように書いています。
 
さて公会議において何が起こったか分かるでしょう。開会から二週間後、準備されていた他の草案は一つ残らず破棄されてしまいました。すべてが否決され、、ゴミ箱に捨てられたのです。それらは一行たりとも残らず、捨て去られました。13
 
典礼憲章については、拙著Pope John's Council(教皇ヨハネ二十三世の公会議)の十六章で詳しく論じました。あの章でわたしは、多くの時限爆弾、つまり教父たちが投票の際に見破れなかった、そして自由主義者たちが悪用することのできるあいまいな文章に注意を喚起しました。ライン川周辺諸国のグループは、この憲章を解釈(説明)する権限のある公会後議委員会を設立するよう圧力をかけてきました。その理由は、「公会議の教父たちが帰国した後、教皇に近い保守派勢力が、委員会の採用した進歩的法案を阻止するかも知れないことを彼らが、恐れたからでした」。14
 
ヒーナン枢機卿は、公会議顧問たちが世界に公会議を説明する権限を与えられる危険について「そういうことが決してあってはならない」と教父たちに警告したものです。15しかし、実際に起きたのは正にそういう事態でした。「これら委員会のほとんどの委員たちが、教皇の同意により、公会議専門家たちから選ばれています。この委員会の役目は公会議諸憲章(布告)を実施することであり、また必要であれば、公会議法令、教令、宣言の説明をすることでした。
 
一九六四年三月五日、オッセルバトーレ・ロマーノは、コンシリウムとして知られるようになった典礼憲章実施委員会設立を報じました。この会の指導的メンバーは主としてこの憲章を立案した委員会の委員たちから成っています。一九六四年二月二十九日、ブニーニ神父は同委員会の長官になりました。

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ブニーニ大司教がローマ式典礼を破壊したことは簡単に証明できる歴史的事実です。フォン・ヒルデブラント博士は 地獄から来た悪魔でもこれ以上のことはできなかったと表現しています。彼がこの破壊の仕事を善意をもってしたのか、悪意をもってしたのかは、かなり興味を引くところですが、この章では、彼の行動の典礼に対する具体的意図は述べません。これは、交通事故の致命的被害者とよく似ています。警察は飲酒運転が彼を殺したと起訴するでしょう。運転者が有罪であっても、無罪であっても、被害者が死亡した事実を変えることはできません。これについて、超自由主義典礼家ジェリノー神父は「わたしたちが知っていたローマ式典礼はもう存在しない。それは破壊された」と証言しています。

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ブニーニ大司教が陰で扇動して行った典礼改革に、責任があると言えたとしても、パウロ六世が、新ミサ典書について責任をとるべきであることに変わりはありません。教皇は全ての公式変革について行政上の責任を負わねばなりません。教皇が好むか好まざるかにかかわらず、彼はそれを認可し、つまり正統と認め、それを否認したり、撤回したりしませんでした。しかし、教皇の行政上の責任に加え、彼は単に公式変革を認めただけでなく、それらに対し熱意を持っておられました。教皇はそれらを賛美し、擁護し、新ミサ典書を受け入れようとしない保守主義者にそれを受け入れるよう命令しました。幸運にも教皇は法的束縛によりトレント式ミサを捧げることを禁じるために教皇権を発動することはありませんでした。これによりパウロ六世が、新しいミサを確信よりも弱さによって受け入れた、と結論付けるのは誤りでしょう。このことは、一九六四年から一九七五年までブニーニ大司教の秘書であったために一歩一歩着実に典礼改革が実施されてきたことを見守ってきたゴッタルド・パスカレッティ神父によって確認されています。一九八〇年四月三日発行のイタリア紙イル・セッティマナーレのインタビユーで、彼は次の質問をされました。「どの程度までパウロ六世は典礼改革に関与しましたか?」彼は次のように答えました。
 
典礼改革は間違いなくパウロ六世の最も大きな仕事だとわたしは思います。 パウロ六世は枢機卿、司教そして典礼法実施のために自身で作ったコンシリウムの顧問たちを利用しました。その上、一九六七年のシノドスのときには司教たちに相談し、また聖務日祷の祈祷書についても各司教の意見を聞きました。パウロ六世は他の重要な事柄例えば聖変化したパンを拝領者の手に渡すこと等 についても同様にしました。準備段階の典礼改革提案においても、その仕事の最後の段階においてもパウロ六世自身問題点や出された答えを研究しました。公文書にはパウロ六世自身の手で書かれた彼の望み、承認を示している注釈、所見、覚え書きの反駁できない証拠が存在します。ささに彼は改革の適用を司牧的感性と理解で見守りました。パウロ六世は新しい典礼を祝福し、必要なら勇気ある歴史的決断をもって関与しました。例えば、自国語を典礼全体に広げ、新しい奉献文を是認しました。
 
このように、ブニーニ大司教をローマ式典礼を破壊した典礼改革の偉大な設計者であると書くことは正しいですが、この改革の責任は正義に基づいて、教皇パウロ六世の肩の上のも置かれなければなりません。そしてそれはこの書物のタイトル「パウロ六世の新しいミサ」を説明し、正当化します。
http://hvri.gouketu.com/24.htm

http://www.angeluspress.org/oscatalog/item/8424/pope-pauls-new-mass

http://en.wikipedia.org/wiki/Mass_of_Paul_VI