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生かすも殺すも公会議 フランス革命前からうごめいていた「カトリック啓蒙主義」なるものは公会議V1と反近代主義によって一旦は撲滅したのに公会議V2によって復活してしまった

2020-08-14 | 左派(リベラル)

こういった観点から、著者は、教会のあり方に批判的な人物としてこれまでネガティブに評価されてきた啓蒙主義思想家を自由と人権の擁護者として彼らの思想が近代化に果たした役割を評価し、カトリック思想史における彼らの位置づけを肯定的なものに正すべきだと考えているようである。

究極的に、カトリシズムは近代世俗社会と折り合いをつけることができるかどうか。カトリック啓蒙主義者たちは、教会の位階制度の権威に反対したかもしれないが、それはカトリック信仰を否定したのではなかった。しかし、教会当局者は、すでに旧態化している制度を変革し、自由な弾力をもって近代の精神的動向に敏感に反応し、それを取り入れることよりも、教会の既得権益護持にエネルギーを費やしてきた、と著者は考えているようである。

聡明な教皇ベネディクト14世(在位年1740〜1758)は、教会内の改革による信徒の思想の自由を推進しようとしたが、それは妥協の産物であった。カトリック国の植民地における奴隷や従に僕たちの地位の向上に尽力した「啓蒙的」先駆者や修道者、また国内でも女性の地位向上を働きかけた先進的な修道女もいたが、その実現は遅々としていた。

結局のところ、自由、他宗教・他教派の人々の人権尊重は体制護持の風潮によって阻まれ、改革は思うように進んでいなかったというのが実情であったといいうる。著者によれば、それは、フランス革命の性格が過激化し、その状況に対して恐怖を抱いた穏健な教会当局者と彼らを支持した信徒の思想家たちが啓蒙主義に反対し始めたからであった。

強固な反啓蒙主義の防波堤が教会の周りに張りめぐらされた結果、啓蒙主義は教会の敵に仕立てあげられてしまった、と著者は考える。この状況がはっきりと姿を現し、教会制度に「受肉」してしまった結果、「カトリック啓蒙主義」は終焉し、啓蒙主義はカトリシズムと相容れないということになってしまった。こうしてカトリック教会内の啓蒙主義に対する評価や受容は頓挫したというのである。

著者は、こうした変化が起こるのは、18世紀末から19世紀にかけての全ヨーロッパに広まったロマン主義的復古の時代風潮によってであると断定している。その新しい時代精神のもとに、カトリシズムは「教皇中心的カトリシズム」へと変貌し、その頂点といえる第1バチカン公会議の教皇の不可謬性の教義理宣言に至る。その結末として、20世紀前半にはモデルニスムス(近代主義)の排斥とこの思想に対する神経質な探索という事態がひき起こされたこうした状況の改善は、第2バチカン公会議による教会の方向転換によってようやく始まったのである。

第2バチカン公会議後の教会は、カトリック啓蒙主義がトリエント公会議(1545〜1563年)による改革をさらに推し進めて近代精神とカトリックの教義との間を調停し、カトリック教会と近代精神の相互受容を始めた。この姿勢を復興させる必要があるということを著者は、強く示唆しているといってよい。

http://webmagazin-amor.jp/2017/12/04/%e3%82%a6%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%bb%ef%bd%8c%e3%83%bb%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%8a%e3%83%bc%e3%80%8e%e3%82%ab%e3%83%88%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%af%e5%95%93%e8%92%99%e4%b8%bb/


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