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典礼はいにしえから練り上げられてきたもの

2011-11-07 | 典礼 トリエントミサ
オルド・ロマノス・プリームス(第1ローマ典礼書)

 「オルド・ロマヌス・プリームスOrdo romanus primus(第1ローマ典礼書)」という資料は8世紀前半のローマ式ミサを表わしたもので、大枠については後のローマ式典礼に続く典礼の形式が出来上がっているが、一方取り入れてから歴史の少ない典礼部分などに定着していない、流動性のある部分も持ち合わせている。聖歌についてもおそらく今日グレゴリウス聖歌と呼ばれるもののアウトラインはこの頃完成したとされるが、残念ながらまだ音程を表わす記号(ネウマ譜)すら使用されていないので、音楽について確かな事は分からない。当時ローマでは教皇が(7つの丘の教会も含めて)30あまりの教会を、行列を組んで参詣ミサを執り行いに出かけていく慣わしがあり、そのミサの執り行いについて書かれたものらしい。これを見ながら寒い時代を抜けて整えられたミサ式典について概観してみよう。なぜならフランク王国に伝わって、ローマ式典礼として取り入れられ、各地に発信された「ローマ式典礼」は、この時期完成したローマの典礼を北に移植したものだからだ。

通常文
・通常文主要聖歌は、もともとは会衆によって唱えられていた比較的簡単な合唱だったが、この時代には組織された聖歌隊スコラ・カントルムによる合唱聖歌として姿を現わす。前に見たようにローマ末期にはすでに今日の通常文を形成するサンクトゥスが登場している。元々は司祭が唱える聖体拝領の祈りの冒頭部分である叙唱praefatioに応答する会衆の喜びの呼びかけだったものが、やがて聖体拝領中での司祭と会衆の間で朗唱される対話の一つとして、4世紀初頭から末にかけて東西教会に普及したらしい。そして飛んで700頃の「オルド・ロマヌス1ローマ式典礼1」の中にはキリエ、グロリア、アニュス・デイの姿を見る事が出来る。

キリエ
・すでに598年にグレゴリウス1世が書いた手紙に、「キリエ・エレイソンを、私達はギリシア人達のように実践したことはないし、今だって行いません。ギリシア人の間では、皆で一緒にキリエ・エレイソンと言いますが、私達はまず聖職者によって行い、それに対して会衆が応答し、それに合わせて同じ回数だけクリステ・エレイソンが付け加えられます。一方この遣り方はギリシア人達は行いません。」とある。彼はコーンスタンティノープルの慣習を安易にまねる事に異議をとなえ、シラクサの司教ヨハネス(John)に向けて書簡を送ったのである。これを見ると、6世紀初めまでには、典礼書の一部はある程度完成していたかもしれない。一方それぞれ「キリエ・エレイソン」と「クリステ・エレイソン」再度「キリエ・エレイソン」をそれぞれ3回繰り返す今日の形は、典礼学者メッスのアマラリウスによって、831あるいは 832に初めて記録されている。彼は皇帝ルイ(大帝の息子)によってローマに派遣され、そこで典礼の実践その他のことについて報告しており、その時9度キリエが繰り返されていることを発見した。逆に見れば、この時代すでにその伝統は確立していたか。

グロリア
・もともとはギリシア語の朝の賛歌であるグロリアが歌われた最初の例は、教皇レオ1世(在位440-461)による説教(sermon)の中に見いだせるらしいが、何時の間にか典礼に正式採用された。オルド・ロマノス1では、キリエが歌い終わると教皇は人々の方を向いて、「Gloria in excelsisi」と歌い始め再び東の方へ向きを変える。などと書いてあるが、聖歌隊が後を続けるのかしらん。

サンクトゥス(+ベネディクトゥス)
・ローマ時代に顔を見せた唯一の通常文であるサンクトゥス(天使の賛歌)は当時会衆の応答だったが、この時代には聖職者達の合唱に変化している。またベネディクトゥスもサンクトゥスの一部だが、もっと後には半ば独立気味に扱われだした。ベネディクトゥスの言葉は詩編117から取られ、主のイェルサレム入城の人々の歓喜の言葉Hosanna in excelsisが含まれている。近年のロックオペラ「ジーザスクライスト・スーパースター」では「ホーザンナ、ヘーザンナ」と称えているが、あれはまったくの創作で根拠が薄い。もちろん「ザナザナ、ホーザンナ」と続くわけもない。

アニュス・デイ
・主の身体が切り裂かれるとき、つまり聖体拝領の儀式で聖職者の呼びかけに対して会衆が一定の応答を繰り返す祈りから、聖職者の典礼音楽に変化したのかしらん。

ただしクレドは
・一方クレドは西方では11世紀まで採用されず、特にローマ教会では異教に汚染されないローマで信仰告白は必要なしと自負されていた節があるが、1000年代に目出度くも採用になった。
固有文

・教皇ケレスティヌス1世が432年頃に「供儀の前に、パウロの書簡と福音書を朗読するだけじゃ飽きたらぬ。我々もダビデの150もある美しい詩編唱を唱えようじゃないか。」とミサ前半に、詩編唱を導入した事を定めたとされるが、ローマ帝国末期において詩編を使用したミサ固有文はグラドゥアーレとコンムニオだけだった。しかし、オルド・ロマノス1ではすでに1年周期ごとの固有文が確立され、イントロイトゥス、グラドゥアレ、アレルヤ、オッフェルトリウム、コンムニオが所定の位置に配備されている事が分かる。

イントロイトゥス
・中央通路を教皇一行が内陣に行進する間、祭壇前の教皇お抱え聖歌隊スコラ・カントルムによって行なわれる。第1の歌い手であるカントルが唱える一遍の詩編からなり、各詩節の後であまり長くない旋律的な合唱がアンティフォーナとして聖歌隊によって歌われた。

グラドゥアーレ
・オルド・ロマノス1ではレスポンスムと呼ばれているが、聖書の使徒書簡の朗読が助祭によって行なわれ、その後でカントルが朗読壇の階段の上で一遍の詩編を唱え始めると、詩編の各詩節の後にスコラ・カントルムの合唱ではなく、会衆の呼びかけ、あるいは応唱句レスポンススが繰り返されたていたらしい。しかし100年後のフランク王国の資料ではすでに独唱者の唱えるのは詩編の1節だけで、応唱句レスポンススをスコラ・カントルムが合唱で行なう形に変化し、900年少し後に作成された非音程ネウマで記譜されたグラドゥアーレ集では独唱部分が華やかな音楽を持っている事から、このオルド・ロマノス1の時期から900年少し後へ至る間に変化を被ったか、流動的に変化していったか。

アッレルーヤ
・グラドゥアーレにアッレルーヤの詞が応唱句の部分に使われる事はもちろんあったが、グラドゥアーレと別に存在するアッレルーヤという独立した詩編唱が取り入れたのは、7世紀後半から8世紀初頭の比較的ローマと東ローマ帝国の関係が良好でローマにおいてビザンツ影響の建築や美術が見られる頃に、東方起源のアッレルーヤがビザンツの影響で取り入れられたのかもしれない。恐らく最初から完成された典礼聖歌の方法として流入して、華やかな旋律の詩編から取られた独唱句を真ん中に挟み、前後にアッレルーヤがメリスマ旋律で華麗に修飾される伝統は、西では徐々に発達したと見るよりも、初めから形を整えて採用されたようだ。カントルは階段のまま、グラドゥアーレに続いてアッレルーヤを唱えるが、贖罪の時期には代わりにトラクトゥス(詠唱)を唱えることになっていた。特にオルド・ロマノス1ではアレルヤとトラクトゥスのどちらかを選択してと書かれるだけで、時間がなければグラドゥアーレだけで構わないとあるから、逆に取り入れられたばかりだったのだろう。他にも復活祭の期間にはグラドゥアーレを省略して、代りに2つのアッレルーヤを唱えるなど今日とは異なる方法が行なわれていた。
・これよりずっと以前にアウグスティヌスなどが述べているユビルスという歌詞を持たない旋律の記述は、一昔前アッレルーヤ詩編の誕生だと勘違いされていたが、「喜びの多きほど感極まりて言葉に表わせない魂の震えが歓喜となって揺れ動く」などと書かれているものは、アレルヤではなくユビラーレという言葉の注釈して「まるでユビルスを歌うときのように」の意味で使用され、このユビルス自体は仕事歌の一種であると明確に定義されているから、寓意的に使用されているのだろうとマッキノン氏が語っている。さらに多くのアッレルーヤの記述は、もちろん会衆の応答の言葉のアッレルーヤ(「ハレル・ヤー」つまりヤハヴェを讃えよと言ったユダヤ教の神に対する掛け声がキリスト教に取り込まれたもの)について述べたものだろうと。

オッフェルトリウム
・寄進の受諾、準備や、手洗式といった一連の儀式の間に聖歌隊(スコラ)が歌い、詩篇の2,3の詩節と1つの反復句からなって、900年代の記譜版では音楽は独唱聖歌に近い華やかさを持っていたとさ。

コンムニオ
・聖職者と会衆が聖体拝領時に唱える。イントロイトゥスのように一つの詩編全体と、アンティフォナからなっていた。

典礼と聖歌のその後

・・・そのうち宗教改革運動でカトリックと新教が分離し、その危機感の中に開かれたトレント公会議(1545-63)の決定を含んだ、1570年の「ミサ典書 Missal(ラ)ミッサーレ」が教皇ピウス5世によって発行され、1614年にはパレストリーナも関わった公式聖歌本の改訂版メーディチ版「グラドゥアーレ集(ミサ聖歌集)」が登場するが、この時にはすでにカトリックの聖歌を歌わない新教大勢力が存在し、要するに西側ヨーロッパはたった一度も完全な統一典礼などなしえないまま分裂したようなものだった。(逆にそれは方言の違いであると見て、ローマ=カトリックの大枠での典礼統一と見なす事も出来るが。)さて、このメーディチ版では人文学者アネーリオやソリアーノの研究に基づきテキストが改変され、旋律も結局は当世風に改変されたが、このように自覚的に新しい事を遣ろうとしている時こそ、かつての伝統がもっとも改変を被ることになる。また、これによってセクエンツィアは4曲を除いて廃止され、トロープスは一つ残らず抹殺されてしまった。
・しかしフランスで王権神授説を説いたお騒がせなボシュエ(1627-1704)らが推進した「新ガリア主義」などの影響で、またしても修飾三昧のきらびやか聖歌がローマ教会から独立気味のフランスで沸き起こるので、「これはあかん、どないなっとんねん。」と思った良心的な一派によってまたしても正当性の復興が叫ばれ、以前のグレゴリウス聖歌見直し作業が始まった。19世紀後半からフランスのベネディクト会に属するソレーム修道院がジョゼフ・ポティエ修道士を中心として、正当性の熱意を持ってトレント公会議以前の伝統に則った現代譜をまとめ、1883年にはミサのための固有文聖歌集「リベル・グラドゥアリス」を出版。とうとう1903年になってから教皇ピウス10世によって彼らの成果が公式ヴァティカン版として正統の典礼となった。面白い事に、今日のグレゴリウス聖歌は遠過去が先に復興され、近過去であるメディチ版聖歌が蔑ろにされているので、古楽が復興して来ると、メディチ版グレゴリオ聖歌が出てくるという現象が起こる。きっとその後は19世紀版などが復興してきたら面白いが、そこまで誰が付いてくるのか疑問も残る。
・まだ続きがあった、第2次大戦戦後の第2ヴァティカン公会議(1962-65)においては、「今や正統典礼どころじゃない、お優しくないと信者が居なくなってしまうじゃないか!」の危機感から、各国言語によるミサが奨励されて、ラテン語による統一的式典を廃し各地の現代語をもってよしとしたため、「それじゃあ、ラテン語は止めようか」と、急速に自国語ミサがそこかしこに沸き立ち、ラテン語が公用語で聖歌が公用音楽であるという伝統は恐ろしく後退し、今だ正統な典礼の言葉と聖歌であるというお墨付きはもちろん貰っているものの、幾つかの修道院と大きな教会でしかラテン語聖歌は歌われなくなってしまった。教科書によると文化自体をヨーロッパに大分捨ててきたアメリカでは更に低調であるそうだ。まあマクドナルド相当なところだ。


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