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森一弘『これからの教会のありようを考える』 救霊の基準をゆるめると信仰は瓦解する

2016-04-02 | 本 有害指定図書

豊島教会のある信徒の方から森一弘元司教(正確には名誉司教?)の著書「これからの教会のありようを考える」を先日プレゼントされました。その本の最後のほうでセクハラ問題に触れています。「そもそも罪を隠蔽することは、教会の本質ではないはずである」、「その根本的な理由の根は深く、それは、カトリック教会の聖職者たちの、・・・・・すべての権限を委ねられているという自己理解にあるように思われる」と述べていますが、元司教の言う”自己理解”とは”傲慢”に他ならないということでしょう。それでも元司教自ら一般論として公にセクハラ問題に触れているのにはちょっとびっくりもさせられたものです。
ついでにあとで詳しく触れたいと考えていますが、この著書の内容のなかには大きな誤りと思われる箇所が何箇所かあるような気がします。 森氏にとって教会とは、プロテスタント教会であれ、カトリック教会であれどちらでもよいということなのでしょうか。考え方の発想がカトリック的というよりプロテスタント的に思えることです。たまたま自分は縁があってカトリック教会に籍を置いているということでしょうか。この著作本を読む限り、著者がカトリック教会に籍を置いている理由はなにも見当たらないし、その必要はないと思われます。余計なことですが、ある神父にこの森氏の著書を送り、感想を求めたら、この本は一つもカトリック信仰の役に立たない、と一蹴されました。
森氏の大きな誤りと思われる一つは「わたしが強調したいことは、それがたとえ、教皇から提示されたものであったとしても、うのみすることをせず、自分の良心に誠実に真剣に問いかけるべきだということである」としていることです。
教皇、ローマを批判することはカトリック聖職者として如何なものでしょうか。また別の著書で、バチカンの財宝を売り払って貧しい人々に分かち合えばとの、プロテスタントがよくバチカンを攻撃する、揶揄的な考え方をカトリックの元司教である森氏が述べていることについても、とても異和感を感じるものです。 そのような単純な発想も、文化遺産や世界遺産など、歴史的文化の意義、価値、影響を理解しない森氏独特の価値観、偏見でしょう。歴史から学ぶことの必要性がないということのようですが、如何なものでしょうか。これも余計なことですが森氏がカトリック聖職者になったのは何かの間違いだったような気がします。

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