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無血でカトリックになった唯一の国アイルランドと、ユダヤイスラム流血粛清でカトリック国になったスペイン ←スペインは日本と真逆

2019-10-21 | 歴史

聖パトリックは、ヨーロッパのなかで唯一ローマの支配を受けず、ローマ的な風習に染まらなかったアイルランドで、彼らがもつ異教的信仰・風習を一方的に破壊するのではなく(大陸ではこの手法が主流だったという)、異教と共生・共存しながら、その中身をキリスト教的なものに改変していったといわれ、それがアイルランドにおけるキリスト教が大陸のそれ(ローマン・カソリック)とは違って、嘗てのケルト的色彩を強く残すケルティク・カトリックと呼ばれる一因だという。

 この聖パトリックの布教に対して、後世の宗教史家は、
  「アイルランドは、唯一、キリスト教が一滴の血を流すことなく導入されたユニークな国であり、アイルランドは一人の殉教者も出さなかった」
と評価しているという(ただアイルランドは、16世紀以降、プロテスタント教義を掲げて侵入してきた英国国教会との抗争に際しては多くの殉教者を出している)

http://www.y-tohara.com/ail-kirisutokyou.html

同年3月31日、イザベル女王は国内の全ユダヤ教徒に対して“キリスト教への改宗か国外退去”を迫り、「ユダヤ教を信奉する者は7月31日までに国外に退去せよ」との勅令に署名したという。
 この時のこととして、次のような話が伝わっている。
  ユダヤ人追放計画が進んでいることを知ったマラーノで王国の財務大臣だったアブラヴァネルが、追放令を取り消すならば巨額の黄金を贈ろうとカトリック両王に申し入れたところ、それを盗み聞いたトルケマダが、その場に乗り込んで、十字架を掲げて「かの邪悪なるユダが金貨30枚で売った救い主を見よ。それを良しとするなら、主を高く売れ」と叫んだ。それを聞いた両王はすっかり怯えて署名に踏み切った、と。

 この勅令によって国外に亡命したユダヤ人は約16万人以上で、カトリックへ改宗して国内に残った数は約5万人程だったという。
 この時の国外退去者の大半は隣国ポルトガルへの道をたどったというが、そのポルトガルも1496年末にスペイン同様の措置をとったため、ポルトガルを追われたユダヤ教徒たちは、何処へ行くという当てもなくヨーロッパ各地へと散っていったという。

 このユダヤ教徒に下された弾圧は、そのままイスラム教徒へも圧力として降りかかっていったといわれ、カスティーリヤ王国の特別な臣民としてグラナダに残ったイスラム教徒は、彼らに加わる有形無形の抑圧を不満として反乱を起こし、それを契機としてカトリック両王はイスラム教徒に対してもユダヤ教徒同様の措置をとったという(1501)
 この勅令によって、多くのイスラム教徒たちが国外に去っていったというが、彼らは、祖先が辿ってきた道を逆にアフリカへ退去できただけ、ユダヤ教徒に比べて幸いだったとはいえる。

 16世紀以降のスペインは、表面的にはカトリック国として統一されたかにみえるが、その裏では、依然として異端審判所はその機能・役割を強めていったともいう。

 目にみえる迫害の嵐が過ぎ去った後、新キリスト教徒として社会のなかに潜んだマラーノたちの多くは、生来の勤勉さと知力によってそれなりの地位に就くようになり、王室を含む貴族との縁組みとか、司法・行政・軍隊・大学・教会などで、従来宗教的理由から閉め出されていた分野への進出などによって、高い社会的地位を獲得していったといわれ、それがまた、そのような地位を望めない民衆の不満と妬みを招く要因となり、隣人の隠れた行動に目を光らせる密告者の横行へと連なっていったという。
 そこでは、宴会で豚を食べなかったとか、祈りの前に手を洗ったとか、週末にシーツを取り替えたといった些細な行為がマラーノの証拠として、知人や隣人からマラーノとして審判所に密告されるといった風潮が増えていったというが、密告された方はそれに対抗する手段もなく、密告即有罪として財産は没収され、国外追放はまだしも生命すら奪われるという悲劇が続出したという。
 ユダヤ人という出自をもつ中流以上の新キリスト教徒は、突然、些細なあるいは陳腐な咎によって告発され、一朝にして財産は没収され、わが身は殺され一家は没落していったという。

 このようなユダヤ人に対する民衆の反感を示すものとして、ある異端審判所の次のような記録があるという。
  「上流階級であるカサーリャ博士・エレスエス学士の二人が処刑されるリストに入っているとの噂が流れた。これは下流の庶民にとっては、極めて魅力的な話で、5月20日夜から21日朝にかけて、2000人が良い場所をとろうとしてマヨール広場に集まり、広場に面したバルコニーあるいは窓辺の席をとろうとして、一人につき10レアルから20レアルを支払った。午前1時にミサが始まり、夜明け前に審判が始まった。
 彼らの目には、全能の異端審判所は名士たちを処罰する制度であり、庶民の手に届かない人々が卑しめられ、名誉を奪われ、庶民よりも低い地位におとしめられるのを目の当たりにする娯楽の場でもあった」
 当時の職人の日当は一日2レアルだったいわれ、彼らは5日分から10日分の日当を支払ってまで処刑を見にいったようで、毎日の生活に追われて楽しみのなかった庶民にとって、公開された異端審判所は格好のショーであり、鬱憤晴らしの場だったという。

 この異端審判所は1821年に廃止されている。この340年間に、どれだけの犠牲者があったかはわからないが、ある資料は31,912人というが、この数字が多いか少ないかは、これが犠牲者の全てなのかを判断することはできない。

http://www.y-tohara.com/spain-yudaya.html


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