タラントンとムナ
旅立つに際して主人は、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」。つまり一人に1ムナの金を渡し、それを用いて商売をせよと命じたのです。この主人の命令に僕たちがどう応えたかがこのたとえ話の中心となるわけですが、これと同じような設定のたとえ話があることを私たちはすぐに思い起こします。マタイによる福音書の第25章にある、いわゆる「タラントンのたとえ」です。あのたとえ話も、主人が旅に出るに際して僕たちにお金を預け、主人の留守中に僕たちがそのお金をどう用いたか、という内容となっています。このタラントンのたとえと本日の箇所のムナのたとえは兄弟のような関係にあります。しかしそこには明確な違いもいくつかあります。まず、僕たちに預けられた金額が全く違います。タラントンのたとえに用いられているタラントンという単位は、ムナという単位の60倍の価値があります。つまり1タラントンは60ムナなのです。そして聖書に出てくるもう一つのお金の単位であるデナリオンと比べるなら、1ムナは100デナリオンとなります。この1デナリオンが、一人の人の一日分の賃金ですので、100デナリオンである1ムナは100日分の賃金です。年間300日働くと考えると、年収の三分の一ということになります。このたとえで主人は十人の僕たち一人一人にそういうお金を渡したのです。タラントンのたとえでは、三人の僕に、一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンが渡されています。一番少ない人に渡された1タラントンでも、60ムナですから、6000日分の賃金ということになります。年間300日働くというさっきの計算で言えば、20年分の賃金です。タラントンのたとえとムナのたとえでは与えられているお金の桁が違うことが分かります。
もう一つの違いは、今申しましたようにタラントンのたとえでは人によって与えられている金額が違うということです。そこには「それぞれの力に応じて」という言葉があって、この金額の違いは神様からそれぞれの人に与えられている能力、タレントの違いを表しています。能力、才能を意味するタレントという言葉はこのタラントンから生まれたのです。それに対して、このムナのたとえにおいては、十人の人それぞれに1ムナが渡されています。皆同じものを与えられているのです。ですからこのムナは、能力、才能を意味してはいません。皆に同じように与えられているもの、そしてタラントンに比べればかなり少額なもの、が見つめられているのです。
またタラントンのたとえにおいては、5タラントン預けられた者は5タラントンを、2タラントン預けられた者は2タラントンを儲けました。元手が違えば生じる実りも違うわけです。そして主人はその二人を全く同じ言葉で褒めています。大事なのは実りの多少ではなくて、神様から与えられているタレントを生かして用いたかどうかなのです。しかしこのムナのたとえでは、同じ1ムナから、ある者は10ムナを、ある者は5ムナを儲けました。この場合は元手が同じですから、儲けの違いは用いた者の力の違いということになります。そして主人は、10ムナ儲けた者には10の町の、5ムナ儲けた者には5つの町の支配権を与えています。同じ1ムナを用いてあげた成果の違いがこの酬いの違いにもなっているのです。つまりムナのたとえにおいては、私たち信仰者に神様から皆同じものが与えられているけれども、人によってそれをどう生かし、どれだけの実りを生むかが違っている、ということが見つめられているのです。その、私たち一人一人に平等に与えられている1ムナとは何を意味しているのでしょうか。
信仰という1ムナ
先ほど申しましたようにこれは私たちそれぞれの能力や才能ではありません。人によって様々に違っているものではないのです。主の僕として生きる信仰者の一人一人に、皆同じく与えられているもの、それは「信仰」です。それ以外の点では様々に違っている私たち一人一人に、等しく与えられているのは、主イエスを信じる信仰なのです。その信仰をもう少し内容的に言えば、主イエスこそ救い主であられ、まことの王として私たちを、そしてこの世界を支配なさる方である、と信じることです。その主イエスの王としてのご支配は今、この世界に、誰の目にも明らかな仕方では確立していないけれども、しかし主イエスは確かにまことの王として戻って来られ、その主イエスの再臨によってこの世は終わり、神の国が完成するのです。そのことを信じて、再び来られる主イエスを待ちつつ、主の僕として、主のみ心を行なっていく、それが私たち一人一人に与えられている信仰であり、信仰に基づく生活なのです。主イエス・キリストを信じる信仰者は、誰もが皆、この信仰を与えられています。主イエスがまことの王として再び来て下さることによって神の国が現れるという将来の救いの完成を信じる信仰、それが私たち一人一人に預けられている1ムナなのです。
信仰の価値
主イエスの不在の時であるこの世において、この1ムナをどう用いていくか、が私たちに問われています。この1ムナの、つまり信仰の価値を認めて、それを真剣に受け止め、そこに示されている神様の約束を信じて生きるなら、そこには豊かな実りが与えられます。それが10ムナを儲けた人の姿が示していることです。しかし与えられている信仰の価値に疑いを抱き、神様による救いの約束を中途半端にしか信じることができず、ということは半分は神様を信じながらも後の半分は自分の力に依り頼みながら生きるならば、実りも半分にしかなりません。それが5ムナ儲けた人の姿であると言えるでしょう。つまりこの二人の違いは、力量や努力の差と言うよりも、与えられている信仰の価値をどう見ているかの違いなのです。このたとえにおけるムナが、もう一つのたとえ話におけるタラントンの六十分の一であることの意味がそこにあります。タラントンに比べてこれはかなりの小額です。しかし年収の三分の一である1ムナは決してはした金ではありません。それを元手に商売をするという場合にその価値をどう見るかは、その人の受け止め方次第です。そういう微妙な金額がこのたとえ話においては用いられているのです。それは私たちに、あなたは主イエス・キリストを信じる信仰の価値を、また主イエスがまことの王としてもう一度来られるという約束をどう受け止めるのか、と問うための金額であると言えるでしょう。
三人目の僕
そしてこの話には、三人目の僕が登場します。彼は、主人から預けられた1ムナを布に包んでしまっておいたのです。つまりそれを全く用いることなく、主人が帰ってきた時そのまま返したのです。その僕は主人から厳しく叱られ、持っている1ムナも取り上げられてしまいます。あのタラントンのたとえにも、同じ三人目の僕が出てきます。1タラントンを預けられたその僕は、やはりそれを用いることなく、土を掘って隠しておいたのです。21節のこの僕の言葉は、タラントンのたとえにおける三人目の僕とほぼ同じです。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。この三人目の僕の姿は何を示しているのでしょうか。タラントンのたとえにおいては、神様から与えられているタレント、能力、才能を生かすことなく、用いなかったということになります。そしてそれが三人の内で最も少ない額を預けられた人だったところに、この人が他の人に与えられているものと自分に与えられているものとを見比べてひがんでしまった、ということが意識されていると思われます。しかしこのムナのたとえにおいてはそれとは全く違うことが見つめられています。彼に預けられていた1ムナは先ほど申しましたように主イエスを信じる信仰です。主イエスが王となって戻って来るという約束です。この人はその1ムナを全く用いなかった、つまり信じなかったのです。主イエスを信じる信仰に価値を見出さず、主イエスがまことの王としてやがてもう一度来られるという約束を信じなかったのです。それを信じないというのは、実はそれを望んでいない、ということです。そうなったらいいと思っていないのです。主イエスがまことの王となって私たちを、またこの世界を支配して下さることを好ましいこと、願わしいことと思っていないのです。なぜそう思わないか、それは彼が、主人に対して良い思いを持っていないからです。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」という言葉はそれを表しています。この僕は主人が厳しい、恐ろしい人だと思っているのです。だからそんな人に王になってもらいたくないのです。ですからこの三人目の僕は、この話の14節に出てくる、「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」という人たちと重なります。それゆえにこの話の最後においても、三人目の僕が持っているものまでも取り上げられてしまうことに続いて27節で、「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」と語られているのです。なんだか随分物騒な、恐ろしいことが語られていると思います。しかし主イエスのことを厳しい恐ろしい方と思い、主イエスが王となることを好まないというのは、愛によって独り子主イエスを遣わして下さった神様のみ心を無にすることですから、このような神様の怒りを招くことは当然なのです。
旅立つに際して主人は、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」。つまり一人に1ムナの金を渡し、それを用いて商売をせよと命じたのです。この主人の命令に僕たちがどう応えたかがこのたとえ話の中心となるわけですが、これと同じような設定のたとえ話があることを私たちはすぐに思い起こします。マタイによる福音書の第25章にある、いわゆる「タラントンのたとえ」です。あのたとえ話も、主人が旅に出るに際して僕たちにお金を預け、主人の留守中に僕たちがそのお金をどう用いたか、という内容となっています。このタラントンのたとえと本日の箇所のムナのたとえは兄弟のような関係にあります。しかしそこには明確な違いもいくつかあります。まず、僕たちに預けられた金額が全く違います。タラントンのたとえに用いられているタラントンという単位は、ムナという単位の60倍の価値があります。つまり1タラントンは60ムナなのです。そして聖書に出てくるもう一つのお金の単位であるデナリオンと比べるなら、1ムナは100デナリオンとなります。この1デナリオンが、一人の人の一日分の賃金ですので、100デナリオンである1ムナは100日分の賃金です。年間300日働くと考えると、年収の三分の一ということになります。このたとえで主人は十人の僕たち一人一人にそういうお金を渡したのです。タラントンのたとえでは、三人の僕に、一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンが渡されています。一番少ない人に渡された1タラントンでも、60ムナですから、6000日分の賃金ということになります。年間300日働くというさっきの計算で言えば、20年分の賃金です。タラントンのたとえとムナのたとえでは与えられているお金の桁が違うことが分かります。
もう一つの違いは、今申しましたようにタラントンのたとえでは人によって与えられている金額が違うということです。そこには「それぞれの力に応じて」という言葉があって、この金額の違いは神様からそれぞれの人に与えられている能力、タレントの違いを表しています。能力、才能を意味するタレントという言葉はこのタラントンから生まれたのです。それに対して、このムナのたとえにおいては、十人の人それぞれに1ムナが渡されています。皆同じものを与えられているのです。ですからこのムナは、能力、才能を意味してはいません。皆に同じように与えられているもの、そしてタラントンに比べればかなり少額なもの、が見つめられているのです。
またタラントンのたとえにおいては、5タラントン預けられた者は5タラントンを、2タラントン預けられた者は2タラントンを儲けました。元手が違えば生じる実りも違うわけです。そして主人はその二人を全く同じ言葉で褒めています。大事なのは実りの多少ではなくて、神様から与えられているタレントを生かして用いたかどうかなのです。しかしこのムナのたとえでは、同じ1ムナから、ある者は10ムナを、ある者は5ムナを儲けました。この場合は元手が同じですから、儲けの違いは用いた者の力の違いということになります。そして主人は、10ムナ儲けた者には10の町の、5ムナ儲けた者には5つの町の支配権を与えています。同じ1ムナを用いてあげた成果の違いがこの酬いの違いにもなっているのです。つまりムナのたとえにおいては、私たち信仰者に神様から皆同じものが与えられているけれども、人によってそれをどう生かし、どれだけの実りを生むかが違っている、ということが見つめられているのです。その、私たち一人一人に平等に与えられている1ムナとは何を意味しているのでしょうか。
信仰という1ムナ
先ほど申しましたようにこれは私たちそれぞれの能力や才能ではありません。人によって様々に違っているものではないのです。主の僕として生きる信仰者の一人一人に、皆同じく与えられているもの、それは「信仰」です。それ以外の点では様々に違っている私たち一人一人に、等しく与えられているのは、主イエスを信じる信仰なのです。その信仰をもう少し内容的に言えば、主イエスこそ救い主であられ、まことの王として私たちを、そしてこの世界を支配なさる方である、と信じることです。その主イエスの王としてのご支配は今、この世界に、誰の目にも明らかな仕方では確立していないけれども、しかし主イエスは確かにまことの王として戻って来られ、その主イエスの再臨によってこの世は終わり、神の国が完成するのです。そのことを信じて、再び来られる主イエスを待ちつつ、主の僕として、主のみ心を行なっていく、それが私たち一人一人に与えられている信仰であり、信仰に基づく生活なのです。主イエス・キリストを信じる信仰者は、誰もが皆、この信仰を与えられています。主イエスがまことの王として再び来て下さることによって神の国が現れるという将来の救いの完成を信じる信仰、それが私たち一人一人に預けられている1ムナなのです。
信仰の価値
主イエスの不在の時であるこの世において、この1ムナをどう用いていくか、が私たちに問われています。この1ムナの、つまり信仰の価値を認めて、それを真剣に受け止め、そこに示されている神様の約束を信じて生きるなら、そこには豊かな実りが与えられます。それが10ムナを儲けた人の姿が示していることです。しかし与えられている信仰の価値に疑いを抱き、神様による救いの約束を中途半端にしか信じることができず、ということは半分は神様を信じながらも後の半分は自分の力に依り頼みながら生きるならば、実りも半分にしかなりません。それが5ムナ儲けた人の姿であると言えるでしょう。つまりこの二人の違いは、力量や努力の差と言うよりも、与えられている信仰の価値をどう見ているかの違いなのです。このたとえにおけるムナが、もう一つのたとえ話におけるタラントンの六十分の一であることの意味がそこにあります。タラントンに比べてこれはかなりの小額です。しかし年収の三分の一である1ムナは決してはした金ではありません。それを元手に商売をするという場合にその価値をどう見るかは、その人の受け止め方次第です。そういう微妙な金額がこのたとえ話においては用いられているのです。それは私たちに、あなたは主イエス・キリストを信じる信仰の価値を、また主イエスがまことの王としてもう一度来られるという約束をどう受け止めるのか、と問うための金額であると言えるでしょう。
三人目の僕
そしてこの話には、三人目の僕が登場します。彼は、主人から預けられた1ムナを布に包んでしまっておいたのです。つまりそれを全く用いることなく、主人が帰ってきた時そのまま返したのです。その僕は主人から厳しく叱られ、持っている1ムナも取り上げられてしまいます。あのタラントンのたとえにも、同じ三人目の僕が出てきます。1タラントンを預けられたその僕は、やはりそれを用いることなく、土を掘って隠しておいたのです。21節のこの僕の言葉は、タラントンのたとえにおける三人目の僕とほぼ同じです。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。この三人目の僕の姿は何を示しているのでしょうか。タラントンのたとえにおいては、神様から与えられているタレント、能力、才能を生かすことなく、用いなかったということになります。そしてそれが三人の内で最も少ない額を預けられた人だったところに、この人が他の人に与えられているものと自分に与えられているものとを見比べてひがんでしまった、ということが意識されていると思われます。しかしこのムナのたとえにおいてはそれとは全く違うことが見つめられています。彼に預けられていた1ムナは先ほど申しましたように主イエスを信じる信仰です。主イエスが王となって戻って来るという約束です。この人はその1ムナを全く用いなかった、つまり信じなかったのです。主イエスを信じる信仰に価値を見出さず、主イエスがまことの王としてやがてもう一度来られるという約束を信じなかったのです。それを信じないというのは、実はそれを望んでいない、ということです。そうなったらいいと思っていないのです。主イエスがまことの王となって私たちを、またこの世界を支配して下さることを好ましいこと、願わしいことと思っていないのです。なぜそう思わないか、それは彼が、主人に対して良い思いを持っていないからです。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」という言葉はそれを表しています。この僕は主人が厳しい、恐ろしい人だと思っているのです。だからそんな人に王になってもらいたくないのです。ですからこの三人目の僕は、この話の14節に出てくる、「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」という人たちと重なります。それゆえにこの話の最後においても、三人目の僕が持っているものまでも取り上げられてしまうことに続いて27節で、「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」と語られているのです。なんだか随分物騒な、恐ろしいことが語られていると思います。しかし主イエスのことを厳しい恐ろしい方と思い、主イエスが王となることを好まないというのは、愛によって独り子主イエスを遣わして下さった神様のみ心を無にすることですから、このような神様の怒りを招くことは当然なのです。