喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫26

2008-09-01 19:52:22 | 図書館の白い猫
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「どんな?」
「売れるような。売れなしょうもないやろ」
「経験とか体験がないとな、書くにも書けんやろ。そないいろんなこと経験、体験してないやろ」
「バーテーンダーしてた頃面白い話聞いてる」
「聞いただけではな」
「ヤクザ小説って売れるのやろ。お父さんに頼んで組員の話書こか。経験豊富な組員に材料書かせて、それをうちが小説風にする。うちでのうてもええ。圭介さんにして貰ってやな、うちのペンネイムで本にする。うちのお父ちゃんが口利きするとどこの出版社も出すやろ。今夜お婆ちゃんに言うてみる」

 これではぼくはそのうち黒比目のヤクザ小説のゴーストライターになる羽目に陥りそうだ。おカネ婆さんは黒比目のためになら何でもやりそうだ。孫のTに頼んでヤクザ話を掻き集めて、それを元にしてぼくが執筆した原稿を、風俗小説専門の出版社に口利きすれば黒比目は一躍風俗ヤクザ小説作家。

 タマがぼくの脚に頭を擦りつけてきた。可愛がってくれという意味でなく、ぼくに警告しているサインのようだ。

 猫たちの余りのすき焼きご飯を茶碗で食べながら、ぼくもいよいよ決心する時期が近付いているのを感じた。昼はほとんど猫たちのお余りを食べていた。


「おまはん、ええ話やないけ」
 おカネ婆さんが焼酎を呑みながら機嫌良さそうに言った。
「何がですか」
「黒比目が小説書いて作家になるちゅう話や」
「黒比目さんもうそんな話をしたんですか」
「迎えの車でな。あれも何かせなあかん。暇なホテルのバーでは物足りんのや。世間に名前出るようなことでないとな。作家やったら名前が出るやろ。本が出たら副市長しとるのに言うて、この町で市長主催の出版パーテーしたらええ。黒比目が望むのやったらおまはんとの結婚発表、その場でしたらええ」
「黒比目さんがそんな話までしたのですか」

 ぼくは唖然とした。この二人は文学・文藝の何一つもわかっていない。
「そうや。ワシも黒比目を見直した。あれも堅実なことを考えとる」

 満足そうに眼を細め、ステーキ肉を口でもぐもぐしていた。
「黒比目さんがそう簡単には作家になれんのです。この道もいろいろと努力せんと」
「先だって歯医者で週刊誌見とったら漫才師でも小説書いて売れとるやないか」
「どんな小説です?」
「ホームレスなんとかやった」

 二百万部以上のヒットとなった山本裕の『ホームレス中学生』のことだと思った。
「ああいう風に巧く行くこともあるのですが、彼はコントか漫才やっていて若者に名前が売れてましたし、中身も中高生には面白かったと思いますし定価も安かったですから」
「そんなら最初は五百円で売ってもええやないか」
「五百円の小説ですか」
「そうや。最初の儲けは考えんでええ。黒比目の名前が世間に出ればええのや。黒比目の父親の名前は世間に何遍も出たけど、刑務所に入る話ばかりでワシは面白なかった」
「……」

 内庭にエンマコオロギがいるのか、弱々しく哀れな鳴き声を上げている。
「おまはんは心配せんかてええのや。ヤクザの話はワシが段取りして集めたるさかい、おまはんはそれを小説にするだけや。切ったはったの苦労はせんでええ」
「……」

 なんとぼくをバカにした話だろう。おカネ婆さんも黒比目もすっかりぼくをヤクザ小説のゴーストライターにしてしまっている。
 ぼくも口の中でステーキをもぐもぐさせていたが、今夜の肉はとろっと溶ける感触がなく、かみ切れない。食道に下りていってくれない。
「思い出したわー、昔組長しとった男が組解散してな、それから小説書いたら評判になって映画にもなった。それも主役やで。なんちゅう男やったか、近頃物忘れするようになった」
「そんな作家がいたのですか」
「そうや。小説やことだれにも書けるのやろ?」
「学歴とか職業は無関係です。本人の筆力、つまり書く力だけです」
「そうやろ。黒比目は美大出とるし申し分あれへん」
「そうはいっても作家の道はなかなか……」

 ぼくはあとの言葉〈厳しい〉が口に出なかった。昨今の小説世界は厳しいのかどうか判断の着かない有様だった。売れればなんでもいいという風潮があった。その状況にあきれ果てたのか高齢化したこともあり、ぼくが若い頃によく読んだ文藝評論家が執筆しなくなってもいる。評論家だけでなく愛読していた作家も次々と亡くなり、ぼくには文学・文藝の世界その物が物寂しい物になっていた。

 こんな文学状況に留まる必要があるのだろうか。

 考えてみるとこの屋敷で文学・文藝のことがわかる人間は一人もいないのだ、いや一人、そうでなく一匹いた。タマだった。タマは猫の楽園の食餌場で夕食を食べていた。

 タマの紫式部の光源氏批判は鋭い指摘だった。タマが書庫の書架から『源氏物語』を引っ張り出して読んでいる姿は想像できなかったが、想像できなくてもあれだけの指摘をするのだから読んでいるはずなのだ。

 ここ数日朝方にかけて集中的に雨が降った。昼から降ったりもした。コース外れの台風の余波である。夜が明けてもいっときは重たく垂れ込めた雲に空は閉ざされていた。そのためタマとの散歩はしなかった。

 猫の楽園の猫たちは雨降りのときは猫用集合マンションの棚に蹲っている。なかには気晴らしに小雨の戸外を走り回ってマンションに戻って行くのもある。また風雨に大揺れに枝葉を揺らせている二本の椎の木のあいだは、激しい雨の中でも、地面に湿り気がある程度びっしょりとは濡れていないので、数匹はいつもここに蹲って空を見上げている。

 おカネ婆さんは雨が降っても黒比目の車で町に下りて行き、帰りは五時前後と予定の行動であった。そして黒比目は午前中はベッドにいてクラビア雑誌、ファッション雑誌を眺めていて、昼前に下に降りていくと猫たちの食事の支度に取り掛かった。それからあとはホテルに出掛けるまでのあいだ、リビングルームで音楽を聴いたりTVを観たりしてくつろいでいるだけだった。

 ぼくは自室でパソコンに向かっている。

 ウェブニュースを読む程度のことはするが、ぼくの存在で世の中が変わっていくとは思えないので、熱心に読んでいるわけでもなかった。そういえば図書館に通っていた頃、毎日新聞だけを読みに来る六十代、七十代の男たちがいた。一紙でなく新聞五社とローカル紙、スポーツ紙を静かに交互に読んでいる。なかにはあと聖教新聞とアカハタを読んでいるのもいる。ぼくはこうした人たちをちらっと眺めながら、いったいこの人たちはなんのために日々新聞を読みに来ているのだろうと思ってしまう。毎日の新聞紙面がそれほど楽しいのだろうか。

 することがなければデジカメ片手に近くの野山を散策しているほうが、得るところも多いように思えるのだが。

 いや日々読んで世の中の変化を掴んでいないことには不安なのだろうか。日々世の中が不安になるほど変わることはないと思えるし、それほど不安なら家のTVを胸に抱きしめていたらと思うのだが、別な目的が六十代、七十代にあるのだろうか。よくわからない。長年連れ添った妻にも冷視され、家に居り場所がないから図書館で新聞に眼を通しているという社会現象的〈濡れ落ち葉〉高齢者もいるとは聞くが。

 国民の手で世の中が変わると思えた若い時代、ぼくも新聞を熱心に読む一人だったが、昨今は新聞に見向きしなくなった。だいたい今日が何月何日何曜日かも気にならず、気にしないでその一日を過ごすと何月何日何曜日は、逆もあるが、右から来て左に去る電車の通過のように消えていくのである。二三日記憶に残る事件があってもすぐに消えていく。こうなると新聞を読む意味がなくなるから読まないでいる。