喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫35

2008-09-05 06:48:05 | 図書館の白い猫

 淋しい気持ちになったが、京都に行くしか寄る辺なき身のぼくに選択の余地はない。そして京都に行っても何も当てがないのである。
「京都の冬は冷たい」
「冷たくても圭介様といっしょなら暖こうございます」
「そうか、そう思ってくれるか……それにしても黒比目の特技に射撃があるとは驚いた。この屋敷は驚くことばかりや」
「ピストル射撃でございます。こちらに来られた頃は退屈しのぎによく的当てしておられました」
「ピストルぶっ放してたの?」
「はい、音のしないピストルで、私たちが朝の散歩に歩くフェンスのところに的を立てまして、こちらから撃っておられました」
「へぇ、二十メートル以上あるな」
「的の芯に十発十中でした」
「凄い腕前なんやな」

 これなら黒比目は十分菊池凜子に負けない活躍をしそうだ。
「やっぱり早うこの屋敷とはバイバイする」
 いのちがいくつあっても足りない。
「それがようございます」

 人間は生きることよりも死ぬことのほうが難しい。それはぼくの歳になってみればわかることだ。生きる張り合い、いったいそれがどこにあるのだ。家庭生活を営んでいた頃は家庭生活を少しでも向上させることに、あるいは子ども達をそれなりのレベルに成人させることに張り合いがあった。またぼく個人としてはその頃の文学世界に参入していくことに目標が持てた。

 家庭生活や子育てはぼくの思っていたように曲がりなりにも実現した。だれからも後ろ指指されるような生き方はしてこなかった。それでも別れた妻や娘らに言い分はあるだろうが、これは男と女の相違と処理しなければなにも切りは着かない。

 その切りも着けて前途を見渡すと〈何も見当たらない〉。文学の世界もあの頃とは大きく変わってしまった。あまり未練はない。

 それでもぼくが離婚後に何をしていたかそれを証明、だれにというわけでもないかしておきたい気持ちが募り、毎月一作長編物の原稿を某出版社に送り続けた。遺稿のつもりであるが出版社が一作でも採り上げなければ、これもまた闇の遺稿であるが、毎月努力した思いだけはぼくの胸に残っているのでこれでいいような気持ちでもある。

 運不運もひとの人生には付きまとうのだ。運が良かったこともあれば運の悪いこともある。それだけのことではないか。世間や他人を恨む筋合いはどこにもないはずだ。

 巡礼姿でタマと冬の京都を歩いて歩き廻ろう。大晦日には知恩院の除夜の鐘に耳を澄ませていよう。その鐘の響きの中にぼくはぼくの生涯の答を見付けるような気がする。


 八月半ばに黒比目の運転する車でここに来て以来、外出するのは初めてのことだった。およそ四ヶ月ここで暮らしたことになる。その場所をいまは立ち去ろうとしていた。それも自分の脚で坂道を下って。ぼくは白亜色のマンションの前の路上に立っていた。
「お婆さん、黒比目さん、長いことお世話になりました。ありがとうございました」

 ぼくは見送る二人に深々と頭を下げた。
「行ってしまうのか」

 おカネ婆さんが呟くような声を出した。
「はい。おカネさんもお元気で」
「ああ。おまはんもな……タマも行くか」
「ニャア」

 ぼくの足元にタマがいた。ぼくは黒比目がプレゼントしてくれた着心地の良いチャコールグレーのジャケットに紺のジーパンの恰好、ショルダーバッグとバス・電車に乗車したときのタマ用のバスケットを持っていた。バスケットにはキャットフードとペットボトルの水、深皿二枚が入っていた。

 片手にはタマの両肩に肩紐を通した紐が握られていた。

 犬を飼っている町の人たちが犬の首輪に付けた紐を手に握って散歩している姿は何度も見たが、猫とこんな恰好で散歩しているひとは見たことはない。
「首輪に付けるよりも肩紐に付けるほうが犬や猫は楽なんや」
 黒比目はタマに肩紐をセットし、それに手に持つ紐を通してぼくに持たせてくれた。
「おまはん、少しやけどこれ持っていけ」

 おカネ婆さんは妊婦服ドレスの大きなポケットから信用金庫の封筒を取り出すと、ぼくに突き出した。
「五十万入っとる。邪魔にはならん。おまはんも当座なにかと金が要る。その代わりな、おまはんの小説にここのことは書いたらあかん。ワシや黒比目のことも書いたらあかん。これを守ってくれたらおまはんはこの先無事に暮らせる」
「はい、わかってます。絶対に書くことはありません」
「タマはわしがずっと面倒見てきたけど、ワシよりもおまはんがようて随いていくのやから、ワシも諦めなしゃあないの。お前も元気にしよれよ」
「ニャア」

 おカネ婆さんは路上にしゃがむと何度もタマの頭を撫でた。
「ホンマに圭介さんに随いていくのやな」

 黒比目もしゃがんでタマに念を押した。
「はい、圭介様のお供をいたします」
「そうか、それほど固い決心しとるのやったらしゃあない。ここより圭介さんのほうがええのや」
「お婆さま、お姉様に可愛がっていただきましたご恩は決して忘れませんが、圭介様といっしょに参りとうございます。これだけはお許しください」
「お婆ちゃんも許してくれたことやし、うちは年明けにハリウッドに行くことになってるのでタマの面倒みられへんしな、しゃあない」
「ありがとうございます」
「そんでもタマと別れるのは涙が出るな」
「ワシかて涙出る」
「圭介さん、タマにちゃんと送ってある蒲鉾、毎日食べさせたって。ここを思い出してくれるやろ」
「わかってます。無くなったら買って食べさせます」

 ぼくの衣類、ノートパソコンなど少しの荷物はすでに京都のワンルームマンションに送った。その中にタマの一ヵ月分の鯛の蒲鉾も入っていた。
「タマ、キャットフード食べるのに慣れや」
「はい、少し食べる練習しましたので慣れてきました」
「そうか、そんならええけど。圭介さん、うちハリウッドでがんばるわ。日本で封切られたらタマと観てな」
「タマときっと観ます。黒比目さんもお元気で」
「おおきに。圭介さんの希望やから車で送らんで。ここでお別れする」
「ありがとうございます。お二人の親切を忘れないために、この坂の感触を自分の足裏に覚えさせておきます」

 ぼくとタマは両側に秋の七草、ススキ、女郎花、フジバカマが眼にはいる傾斜15度の白い坂道を下って行った。ぼくは秋の空気を胸一杯に吸い込んだ。足裏に地面の感触が心地よかった。

 少し歩くと先頭のタマが立ち止まって後ろを振り向いた。タマは見送る二人に大きな眼を向けていた。それはぼくの眼にもけなげな哀れさを伴った、今生の別れのように映った。


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