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喜多圭介のブログ

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鋭角的表現(8)

2007-02-07 19:13:00 | 表現・描写・形象
谷崎饒舌文体をものにできなかった私は進むべき人生に確信の持てない、情緒不安に苛まれていたといってよい。志賀文体に戻って模倣をしたものの、どうもこの文体も奥が深くて難しそうだ。それに当初抱いた短文の積み重ねが私の気質に合わないという不満があった。そこで当時既に若手のホープ、大江健三郎の文体に注目することになった。『死者の奢り』冒頭から。

死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗に躰をすりつけあっている。彼らの躰は殆ど認めることができないほどかすかに浮腫を持ち、それが彼らの瞼を硬く閉じた顔を豊かにしている。揮発性の臭気が激しく立ちのぼり、閉ざされた部屋の空気を濃密にする。あらゆる音の響きは、粘つく空気にまといつかれて、重おもしくなり、量感に充ちる。

死者たちは、厚ぼったく重い声で囁きつづけ、それらの数かずの声は交りあって聞きとりにくい。時どき、ひっそりして、彼らの全てが黙りこみ、それからただちに、ざわめきが回復する。ざわめきは苛立たしい緩慢さで盛上り、低まり、また急にひっそりする。死者たちの一人が、ゆっくり躰を回転させ、肩から液の深みへ沈みこんで行く。硬直した腕だけが暫く液の表面から差出されてい、それから再び彼は静かに浮かびあがって来る。

僕と女子学生は、死体処理室の管理人と医学部の大講堂の地下へ暗い階段を下りて行った。階段の磨滅した金属枠に濡れた靴底が滑り、そのたびに女子学生は短かい声をたてた。階段を降りきるとコンクリートの廊下が低い天井の下を幾たびも折れて続き、その突きあたりのドアに死体処理室と書きこんだ黒い木札がつりさげてあった。ドアの鍵穴に大きい鍵を差しこんだまま、管理人は振りかえって僕と女子学生を検討するように見つめた。広いマスクをつけ、ゴムびきの黒い作業衣を着こんだ管理人は小柄でずんぐりしてい、骨格が逞しかった。聞きとりにくい声で管理人が何かいったが、僕は頭を振り、管理人のゴム長靴をはいた頑丈な両脚を見おろした。僕も長靴を履くべきだったのかもしれない。午後からは忘れないで履いて来よう。女子学生は事務室で借りた大きすぎるゴム長靴を履いて歩きにくそうだったが、額にたれた髪とマスクの間で鳥のように力強い光のある眼をしていた。

なんと魅力的な文体ではないか、単細胞の私は即座にこれに飛びつき、原稿用紙に筆写を開始。ひたすら書き写した。これまでの作家と異なり、ひどく高尚な文体に思えてくる。私までが東大卒の秀才になったかのように酔いしれたが、筆写を離れて自分の文章を書き始めるとどうも大江文体にならない。大江の文体は句点の多い谷崎饒舌文体に類似しているのだが、谷崎、太宰、野坂とも異なるのは、それでいて饒舌ではないということである。どこか志賀文体の堅調にも通じている。

大江文体を修得できないのは、大江との知性の差異ではないかと絶望的結論に達してしまった。大江にはとてもかなわないぞ、という諦めが早めにやってきた。

またも迷路をさまようことになった。あと二年もすれば三十代になるというのに人生行路が定まらなかった。

こうした不安定時期に、私はある事情で一年間英国に滞在することになった。語学の頼りない私であったが、まぁあとは野となれ山となれ、の心境で日本を脱出した。

英国の暮らしは買い物一つ、乗り物一つ英語である。それでもたどたどしい英会話一つで英国はスコットランドの果てからイングランドの果て、ドーバー海峡を渡り、フランス、スイス、スペイン、ここから飛行機でアフリカ大陸に降り立ち、モロッコ、カサブランカと放浪し、また英国に戻ってきた。自分の体内から自然と日本語の情緒が干涸らびていった。

帰国すると私は肉体面のことではなく、丁度涙が涸れてしまったかのように、精神的に重い女性不感症に陥った。妙なことになったものだと気づいたが、この症状は四十代初期まで継続した。そして不思議なことだがこの時期に私は小説を多作することになった。帰国第一作、『秋止符』は「文学界」同人誌評で評論家の松本道介氏に注目され、1700ほどの作品の中でベスト5に入った。このとき私は初めて自分の文体を自覚するようになった。しかしまだ不安があったので即座に大阪文学学校の昼間部生となった。H賞受賞詩人、井上俊夫氏が講師として担当された。自作『逃げるのだ』は学生誌に掲載され、五木寛之の早稲田露文当時からの親友、作家の川崎彰彦氏の講座で20名ほどの学生によって討論材料にされた。20名のうち12名は女子大生とも思える若い女性であった。

『逃げるのだ』はサラリーマン暮らしにやり切れなくなった男が出張帰りに夜の海岸通で女性を襲うのだが失敗するという内容で、女性陣からコテンパにされるだろうなと思っていたが、女性たちに好評であったのは意外だった。

次に創作したのは『観音島』で、これは朝日新聞の同人誌評で作家の北川荘平氏によってかなりの行数を使って評価して貰った。特異な文体と書かれてあった。

女性不感症の時期に多作できたということは宦官(中国清の時代にペニスを切り取られた官吏、官吏として優秀であった)の心境にでもなっていたのだろうか。

四十代初期までに書き上げた作品群は私の財産になっていて、いまでも推敲、改稿を継続している。

鋭角的表現(7)

2007-02-07 13:15:48 | 表現・描写・形象
志賀直哉と谷崎潤一郎と野坂昭如

私の時代の「文章の神様」は志賀直哉ということになっていた。が、私には短文を並べていく志賀文体が物足りなく思えた。読みやすく、理解しやすいのだが、この読みやすく、理解しやすい文体が食い足りなかった。磨き抜かれた志賀文体の秀逸が見えていなかったのである。以下は著名な『城崎にて』の書き出しから三段落目である。

一人きりで誰も話相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前の椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮していた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集っている。そして尚よく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然としているのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事はやはり沈んだ事が多かった。淋しい考だった。然しそれには静かないい気持がある。自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互に散歩で暮していた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集っている。そして尚よく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然としているのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事はやはり沈んだ事が多かった。淋しい考だった。然しそれには静かないい気持がある。自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。【後略】

その頃私は谷崎潤一郎の文体に魅力を感じ、それを原稿用紙に筆写していた。なんとか谷崎文体を模倣したいと考えた。以下は『痴人の愛』からの書き出し冒頭から二段落まで。



私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。殊にこの頃のように日本もだんだん国際的に顔が広くなって来て、内地人と外国人とが盛んに交際する、いろんな主義やら思想やらが這入って来る、男は勿論女もどしどしハイカラになる、と云うような時勢になって来ると、今まではあまり類例のなかった私たちの如き夫婦関係も、追い追い諸方に生じるだろうと思われますから。

考えて見ると、私たち夫婦は既にその成り立ちから変っていました。私が始めて現在の私の妻に会ったのは、ちょうど足かけ八年前のことになります。尤も何月の何日だったか、委しいことは覚えていませんが、とにかくその時分、彼女は浅草の雷門の近くにあるカフエエ・ダイヤモンドと云う店の、給仕女をしていたのです。彼女の歳はやっと数え歳の十五でした。だから私が知った時はまだそのカフエエへ奉公に来たばかりの、ほんの新米だったので、一人前の女給ではなく、それの見習い、――まあ云って見れば、ウエイトレスの卵に過ぎなかったのです。

そんな子供をもうその時は二十八にもなっていた私が何で眼をつけたかと云うと、それは自分でもハッキリとは分りませんが、多分最初は、その児の名前が気に入ったからなのでしょう。彼女はみんなから「直ちゃん」と呼ばれていましたけれど、或るとき私が聞いて見ると、本名は奈緒美と云うのでした。この「奈緒美」という名前が、大変私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMI と書くとまるで西洋人のようだ、と、そう思ったのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。不思議なもので名前がハイカラだとなると、顔だちなども何処か西洋人臭く、そうして大そう悧巧そうに見え、「こんな所の女給にして置くのは惜しいもんだ」と考えるようになったのです。

志賀は常体、谷崎は敬体と比べるには少し拙い面のある文体だが、おおよそ二人の違いは読みとれるのではないか。志賀の堅調文体に比べると谷崎は饒舌文体と表現してよく、太宰の饒舌文体にも類似し、私には魅力があった。饒舌文体の特徴は句点(、)で、文章を次々と繋いで一段落が長いこと。したがって志賀文体を「静」とすると谷崎文体は「動」で、現役作家、野坂昭如はむかしから饒舌文体を駆使しているが、彼の場合は「動」を超えて「騒々しい」。そこが魅力でもある。野坂作品『火垂るの墓』書き出し。

省線三宮駅構内浜側の、化粧タイル剥げ落ちコンクリートむき出しの柱に、背中まるめてもたれかかり、床に尻をつき、両脚まっすぐ投げ出して、さんざ陽に灼かれ、一月近く体を洗わぬのに、清太の痩せこけた頬の色は、ただ青白く沈んでいて、夜になれば昂ぶる心のおごりか、山賊の如くかがり火焚き声高にののしる男のシルエットをながめ、朝には何事もなかったように学校へ向かうカーキ色に白い風呂敷包みは神戸一中ランドセル背負ったは市立中学、県一親和松蔭山手ともんぺ姿ながら上はセーラー服のその襟の形を見分け、そしてひっきりなしにかたわら通り過ぎる脚の群れの、気づかねばよしふと異臭に眼をおとした者は、あわててとび跳ね清太をさける、清太には眼と鼻の便所へ這いずる力も、すでになかった。

三尺四方の太い柱をまるで母とたのむように、その一柱ずつに浮浪児がすわりこんでいて、彼等が駅へ集まるのは、入ることを許される只一つの場所だからか、常に人込みのあるなつかしさからか、水が飲めるからか気まぐれなおもらいを期待してのことか、九月に入るとすぐに、まず焼けた砂糖水にとかしてドラム缶に入れ、コップいっぱい五十銭にはじまった三宮ガード下の闇市、たちまち蒸し芋芋の粉団子握り飯大福焼飯ぜんざい饅頭うどん天どんライスカレーから、ケーキ米麦砂糖てんぷら牛肉ミルク缶詰魚焼酎ウイスキー梨夏みかん、ゴム長自転車チューブマッチ煙草地下足袋おしめカバー軍隊毛布軍靴軍服半長靴、今朝女房につめさせた麦シャリアルマイトの弁当箱ごとさし出して「ええ十円、ええ十円」かと思えば、はいている短靴くたびれたのを、片手の指にひっかけてささげ持ち「二十円どや、二十円」ひたすら食物の臭いにひかれてあてもなく迷いこんだ清太、防空壕の中で水につかり色の流れあせた母の遺身の長じゅばん帯半襟腰ひもを、ゴザ一枚ひろげただけの古着商に売りなんとか半月食いつなぎ、つづいてスフの中学制服ゲートル靴が失せ、さすがズボンまではとためらううち、いつしか構内で夜を過ごす習慣となり、疎開から引き揚げて来たらしくまだ頭巾をきちんとたたんでズックの袋にかけ、背負ったリュックサックには飯ごうやかん鉄かぶと満艦飾【後略】

しかしこうした饒舌文体に私は惹かれ、筆写の努力をしてまで模倣しようとしたが、これがものにならない。どう努力しても私には饒舌文体が書けなかった。無口なせいかとも思うが、案外、無口人間は頭脳では饒舌ということもあるので、無口が原因とも思えない。酒でも呑みながら書けばこんな風になるのかと想像したが、アル中になるのは嫌だから、執筆中は呑まないことにしている。筆写するよりも浄瑠璃語りを幼少の頃から聴いておれば、饒舌文体のリズムが血肉になるのではないかと思ったりもしたが、二十歳を過ぎていては今更浄瑠璃語りを聴いても効果薄と思え実行しなかった。

息が続かないというか、流麗な表現が次々と迸(ほとばし)り出ないのだからどうしようもなかった。

鋭角的表現(6)

2007-02-06 21:57:03 | 表現・描写・形象
車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を読んだ。さて慶應義塾独文科卒の車谷は、どのような書き出しでこの小説の序幕を切って落とすのだろうか。

数年前、地下鉄神楽坂駅の伝言板に、白墨の字で「平川君は浅田君といっしょに、吉田拓郎の愛の讃歌をうたったので、部活は中止です。平川君は死んだ。」と書いてあった。

十数年前のある夜、阪神電車西元町駅の伝言板に、「暁子は九時半まで、あなたを待ちました。むごい。」と書いてあった。

いずれも私には関係のない出来事であるが、併しこれらの白墨の文字霊は、ある生々しい思い出として私の記憶に残っている。書かずにはいられない、呪いにも似た悲しみに、じかに触れたということだったのだろうか。

私は二十代の終りに東京で身を持ち崩し、無一物になった。以後九年問、その日暮らしの、流失の生活に日を経た。行く所も帰る所も失い、すさんだ気持で深夜の西元町駅のベンチに坐っていたのも、その九年の問のことである。正月過ぎの冷たい風が凍った晩だった。そういう駅のベンチ以外には、も早居場所を失った身のすさびが、当時の私には、あるいは一つの救いだったのかも知れない。会社勤めを辞めても独り立ちして生きて行ける女もあれば、そうではない男もいる。私もそういう愚図の一人だった。

併し昭和五十八年夏、私はふたたび無一物で東京へ帰り、会社勤めをするようになった。親切な人のはからいでそうなったのである。追い詰められて窮乏のドン突きにあった私は、それをありがたいと思った。が、会社員(サラリーマン)くずれの自分が、また会社勤めをするようになったこと、そのことには私(ひそ)かに失望を覚えた。

その年の夏は酷暑だった。小石川指ケ谷町の奥に、がらんとしたアパー-を借りたものの、部屋の隅に下着その他を包んだ風呂敷荷物が一つあるだけで、さて明日からは会社へ出なければならないのであるが、それに必要な背広・靴を調(ととの)える金はなかった。九年問、世を失い、下駄履きで生きていたのだ。私にとっては十一年ぶりの会社勤めであった。すでに私は三十八歳になっていた。それまで女に思いを寄せたことはあっても、妻子(つまこ)を得る喜びを、あるいは恐ろしさを味わったことはなく、されぱそういう孤独の身であったればこそ、世を捨てて生きることも出来たのであるが、併し野垂死することもならず、ふたたび東京へ戻って来たのである。金に詰まれぱ、会社勤めであろうと何であろうと、なりふり構わずするのである。

とくに鋭角的な表現が顕著ではないが、書き出しで主人公の境涯をポンと投げ出して、読者を惹き付ける、なかなかの技巧と思うが、どうもこれは当時の作者自身の姿であったようで、この作品は自伝的要素が強い。こういう境涯を経たからこその文学であると啖呵を切っているようで、面白い。

鋭角的表現(5)

2007-02-06 21:55:41 | 表現・描写・形象
1969年『雪洞にて』で「文学界新人賞」、1970年『蟹の町』で芥川賞候補となった内海隆一郎の『蟹の町』の書き出し。白い道の続く野原の描写が印象的。短編の書き出しとして主人公のつぶやきから始まる書き出しは一つの手法であるが、このように書き出すと重苦しさがなくてよい。このように主人公の思いと情景を重ねて描いていく描写力がなければ、文学賞はほど遠い。

一日目

ズボンのポケットヘ手をさし入れて、汗にふやけた紙片を抜きだした。ひろげると、けばだった紙面に、町の略図が浮いて見えた。

妻の母親が描いてくれたものだった。たどたどしい線がふるえていた。年老いた義母の気持ちの高ぶりを、そのまま伝えているようだった。

――鉛筆をなめながら、おれの顔をうかがっていたっけ。

私は、数時間前に会った義母のようすを思い浮かべた。

――まるで、責めるような目つきだったな。

天蓋のない、プラットホームとは名ばかりの盛りあげた土が、両側から角ばった石材で支えられていた。改札口を出ると、すぐ目の前に小さな広場があった。その先に、広々とした野原を二つに分けて、まぶしい光のなかを、臼い道が長くまっすぐのびていた。それが遠いところで、いきなり空へ向けてとぎれていた。

そこは、ちょうど道が丘陵を越えているところらしい。

――ずいぶん長い丘だな。

私は、目を細めた。野原全体が遠くで盛りあがり、丘に連なっていた。

丘の向こうから、波の音がかすかに聞こえてきた。丘の連なりの右はしに、緑におおわれた獣のうずくまっているような山が突起していて、その先への視界をさえぎっていた。山のほうから波の音とは別に、ときおり低く底ごもりする音が渡ってきた。

――なんの音だろう?

私は、いぶかりながら広場を通って道へ入っていった。

広場にも道にも人影のないのは、午後の日照りのはげしさのせいだろうか。広場のはずれに、赤地に〔氷〕と臼く染め抜いた旗が、長い竿に吊してあった。風がないので微動もしない。そばのガラス戸は、内側から臼布ではりめぐらされていた。臼布は、赤茶けた染みで汚れていた。

線路を背にしたこの店をはさんで、黒っぽい駅舎が並んでいるばかりで、人の住むけはいは感じられなかった。駅舎のほとんどは倉庫で、木造の朽ちかけた建物だった。

――いやに静かだ。

あたりをうかがっていると、いきなり跳びあがるような警笛が鳴り、それにつづいて重い車輪の響きが地面をふるわせた。乗ってきた列車が、思いだしたように動きはじめたのだ。


鋭角的表現(4)

2007-02-05 16:20:59 | 表現・描写・形象
医師でも南木佳士(なぎ けいじ)になると表現が地味で鋭角的表現はみられないが、実に形象(イメージ)がしっかりしており、創作の修練に苦労の跡がうかがえる。たとえば私の作品の書き出しと以下の書き出しを比較したとき、私の書き出しは見劣りがする。少し長めに引用しておく。

なだらかな山の中腹にある阿弥陀堂の前庭からは六川集落の全景が見渡せた。幅三メートルばかりの六川の向こう岸に十戸、こちら側に十二戸。朽ちかけた欄干の根に雑草のはえる古い木橋で結ばれた、合わせて二十二戸のこぢんまりとした山あいの集落である。

谷中村は七つの集落からなっている。上流で六つの沢が合流して六川と名づけられた渓流が作られ、これに沿って七つの集落が上から下へ並んでいるのである。 

六川が町の本流に注ぐまでには七つの急な瀬があり、各々の集落はそれを境にしたわずかな平地を中心に形成されている。国道から分かれた村道は車一台分の幅員のみで、すれ違いは力ーブのふくらみか橋でしかできない。最も高いところにある六川集落を過ぎて登るといつしかアスファルト舗装も切れ、車の通れぬ林道になってしまう。
「こんなところたったか」

阿弥陀堂の庭にしゃがみ込んだ上田孝夫は大きく上体を反らせてため息をついた。 これまでに何度も帰郷していたのだが、後半生の定住の地と決めてあらためて見渡してみると、いかにも狭く、貧相な集落であった。瓦屋根の家は一軒もなく、すべての家のトタン屋根は例外なく赤錆に侵蝕されていた。薄茶色に乾ききった土壁の崩れた廃屋が向こう岸に三軒、こちらに二軒。

昨日、妻と二人で集落全戸にあいさつ回りをしてきたのだが、老人の独り暮らしの家が九軒。老夫婦だけが五軒。老夫婦と嫁の来ない長男のいる家が三軒。一軒だけ、向こう岸の神山さんの家は老夫婦と長男夫婦、それに町の高校と中学に通う娘がいて、まるで無形文化財のように一昔前の村の一般家庭の様子が保存されていた。
「ここで暮らすのね」

孝夫の横にスカートの上から膝を抱えて腰を沈めた妻の美智子が、白髪の混じり始めた前髪をかき上げながらしみじみと口にした。

彼女の白髪は病を得た頃から目に見えてその数を増していた。髪ばかりでなく、ふくよかだった頬のあたりも脂肪の厚みをうしない、うるおった目が放つ艶やかな光も消えて久しかった。それでも、ここで暮らすのね、ともらした口調の中には、なにかがふっきれたあとの枯れた諦念が込められているように思えて、孝夫は久しぶりに心なごんだ。

周囲を山に囲まれた六川集落であるが、春の訪れを知らせる風は川から山の斜面に沿ってゆるやかに吹き上がっていた。木々の葉は緑の気配を見せ始めたばかりの三月末で、名の知れた花はまだ咲いていない。風が春の先ぶれだと知れるのは、ぬくもった腐葉土の香りを含んでいるからである。南に向いた斜面に建つ阿弥陀堂の庭の端にはフキノトウが枯れた雑草の下から鮮やかな若草色の芽をのぞかせていた。【『阿弥陀堂だより』より引用】

クラッシックな地味な表現ではあるが、無駄がない。

以下は自作『秋止符』の書き出し。

興津(おきつ)高志は茫洋と広がる黒みがかった伊予灘の、ある一点に視線をやっていた。巨大な金の延べ棒が海面近くに沈んでいるかのように、眩く金色(こんじき)に輝いて炎上している。車窓の先に突き出た岬の黒い影が見え始めた。

列車は岬の基部にさしかかると二十年前と変わらずに車体を傾け、ゆっくりと弧を描いて走った。岬を廻りきるとさらにスピードを緩め、そのまま滑るように人気のない豊崎駅のプラットフォームに入り込み、しゃくり上げ、灰色の木造駅舎の前に停車した。

十一月中旬。高志が母親の邦子と豊崎駅に降り立ったときには、松林の山裾にも海がわの粗末な板張りの倉庫にも、夕闇の濃いベールが貼り付いていた。高志は素早く辺りの閑散とした様子を眼に納めた。町の内部は変貌しているのかもしれないが、駅前周辺の佇まいはそんなに変わっている風でもなかった。観光客の訪れる町でないだけに変わりようがないのかもしれない。変わったのはぼくという人間だ、と胸に呟いた。

コート姿の邦子と肩を並べて駅舎の外に出た。豊崎の町は海に向かって、身を屈(かが)めるように煤けた家並を広げていたが、高志はその町の構えに、二人が町中(まちなか)に入ることを拒絶されているような気がした。

潮の匂いを肌寒い風が運んできた。沿線の私立高校にでも通学しているのか、先に出札口を出た三人のセーラー服の女子高生が、肩でじゃれあい、灰色のふくらはぎをスカートの下で踊らせ、笑い声を残すと家並の通りに消えて行った。駅舎の横手にタクシーの溜り場と思われる空地があったが、車も人影もなかった。
「どこかで御飯を食べていこうよ。西村に行っても夕食の用意はしてないだろうし」

邦子は、高志の重たい気分とは裏腹に、大阪の繁華街をぶらついている口調で言った。
「うん……」

高志はしだいに沈み込んでいく気持を隠そうともしないで生返事をした。
「疲れたの?」
「いや」
「何も変わってないね」


鋭角的表現(3)

2007-02-05 08:30:40 | 表現・描写・形象
作家で医師である加賀乙彦はどのような表現を持っているのか。一般的に医師は職業柄理知的なタイプの人が多く、文章表現において整理と分析に長けた特徴がある。患者の病因を診察結果から推理し適切な治療を施さねばならないから、当然すぎる特性である。ただ理知が勝ちすぎると小説としては面白くない作品になりやすい。文学としての情緒が醸し出されていないと興ざめたレポートを読まされていることになる。

眠れない。脳の細胞を雲のように包んでいた睡気がどこかに飛んで行ってしまい、キーンと張り詰めた青空のような意識がひろがっている。

悦夫はイビキをかいていた。咽喉の奥底からマグマのように噴きあげてくる息が鼻を共鳴させて、濁った空気を散らす。そのたびにアルコールの臭気が、ことさらな生ぐささで迫ってきた。アルコールだけではない。反吐の臭いが混っている。寝室の空気がすっかり汚染されてしまった。奈々子は悪臭をすこしでものがそうと窓を開けた。

ビルの谷間に夜は黒い水となって溜っていた。遠くの高層ビルの赤い点滅灯が心臓のように生々しく鼓動している。枕元のスタソドを"弱"につけると悦夫の体が水底から浮きあがった土左衛門さながら盛りあがった。【『ヴィーナスのえくぼ』より引用】

書き出しの三段落であるが見事な表現ではないか。

鋭角的表現(2)

2007-02-05 08:23:22 | 表現・描写・形象
私の好きな宮本輝のデビュー作からも少し引っ張り出してみる。やはり凡庸でない表現が散見する。宮本文学の魅力の一つである。

夏には殆どの釣人が昭和橋に集まった。昭和僑には大きなアーチ状の欄干が施されていて、それが橋の上に頃合の日陰を落とすからであった。よく晴れた暑い日など、釣り人や、通りすがりに竿の先を覗き込んでいつまでも立ち去らぬ人や、さらには川面にたちこめた虚ろな金色の陽炎を裂いて、ポンポン船が咳込むように進んでいくのをただぼんやり見つめている人が、騒然たる昭和橋の一角の、濃い日陰の中で佇んでいた。その昭和橋から土佐堀川を臨んでちょうど対岸にあたる端建蔵橋のたもとに、やなぎ食堂はあった。【『泥の河』より引用】


昭和三十七年三月の末である。

西の空がかすかに赤かったが、それは街並に落ちるまでには至らなかった。光は、暗澹と横たわる人気を射抜く力も失せ、逆にすべての光沢を覆うかのように忍び降りては死んでいく。時折、狂ったような閃光が錯綜することはあっても、それはただ甍(いらか)の雪や市電のレールをぎらつかせるだけで終ってしまう。

一年を終えると、あたかも冬こそすべてであったように思われる。土が残雪であり、水が残雪であり、草が残雪であり、さらには光までが残雪の霧だった。春があっても、夏があっても、そこには絶えず冬の胞子がひそんでいて、この裏日本特有の香気を年中重く澱ませていた。【『螢川』より引用】


鋭角的表現(1)

2007-02-04 00:13:47 | 表現・描写・形象
小説の面白さは様々な角度から検討できるが純文学の場合は、表現の重要性は異論のないところであろう。文学が芸術の一分野であるかぎりは「書く」でなく「描く」という視点を抜きにはできない。俳句、短歌にしてもある情景や情緒を書いているのではなく、描いているのである。人によっては切り取るとも言っているが。

芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」、高浜虚子の「遠山に日の当たりたる枯野かな」、佐々木信綱の「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」にしても、事象を説明しているのではなく描写しているのである。

小説創作の場合は物語であるから描写だけではなく説明も必要にはなるが、説明ばかりの小説というものはない。それなら論文にすればよい。会話体を含めてやはり描写が主で説明は従の関係である。可能なかぎり説明を多用しない心構えが大切だが、HPの未熟な作品は会話体と説明だけの退屈な、とても読めないものが多い。本人はそれで満足しているのだから私が何かを言う必要もないが、愛読者はいないだろうと想像する。

描写であるが、確かに描写の大切をわかって描写している作品も散見するが、この描写が凡庸というか平凡で、まるで新鮮味のない作品が若い人のものでも多い。

非凡な表現はなかなか難しいものだが純文学の新人賞、芥川賞ともなれば非凡な表現が多い。つまり非凡な表現がなければ受賞しないとも言える。

そこで画廊の絵画を鑑賞するように作家の表現を少しピックアップした。一応各作品の最初の二、三頁から採録した。

まず柳美里から。

◆陽射がべっとりと貼りつき遠近を失った街並を眺め

◆背中がひりひりして後頭部がドライヤーの熱をまともに受けたように熱い

◆妻はいったいいつごろから怒りを冷凍しておくようになったのだろうか、男は記憶をたどってみる。ことあるごとに鮮度のない怒りを解凍してその場の雰囲気に合わせて調理しては男に差し出すのだった。男のなかで妻の記憶がどろりとした憎悪に解けて動き出し、彼女がはじめてはっきりしたキャラクターを持った女として立ち現れたように思えた。

◆大通りに出て、車道の向こう側に伸びた男の視線は〈ローソン〉で留まった。左右を見て通り沿いにある薬局と〈サブウェイ〉を記憶してから、横断歩道を渡って〈ローソン〉のドアを押した。いつもなら蛍光灯の下に立つと頭からレントゲンをあてられたような不快な気分になるのに、陽射に視神経をやられたいまはやわらかで透明感あふれた光に感じられる。【『タイル』より引用。】

◆父は私の言葉にはたかれたように顔を背けた。

◆「ガスは?」妹が目を擦りながらつっけんどんに訊いた。

◆「今日は無理だな。明日、電話してガス屋と電気屋を呼ぶよ」父の眼球がぐったりと生気を失った。ここに向かう車のなかで父は電気もガスも通っていると嘘をついていた。

◆私は椅子に深く座って足を鋏のように閉じたり開いたりしている妹に目配せして、腰をあげさせた。【『フルハウス』より引用。】

これだけ読むだけでも柳美里が凡庸な作家でないことが理解できる。

文章作法(4)

2007-02-01 12:27:55 | 表現・描写・形象
良い文章

以下のことも芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)のなかに書かれていることだが、文章を書く人(小説やエッセー)にとっても肝要な事柄なので掲載しておく。『高校生のための文章読本』(筑摩書房)の付録に、作文の書き方について説明した「手帖」がついている。この付録に以下のようなことが書かれている。

良い文章とは、
1 自分にしか書けないことを
2 だれが読んでもわかるように書く

という二つの条件を満たしたもののことだ。だれが読んでもわかるようにということは、言葉の意味がわかるということも含んでいるが、それだけではない。自分にしか書けないこと、自分だけの発見や経験をできるだけ正確に言葉に表現するということを指している。

これによると反対に、よくない文章がどんなものかも見えてくるのである。

よくない文章とは、
1 だれでも書けることを
2 自分だけにしかわからないように書く

ということになるだろう。

また村田喜代子さんはインパクトのある文章ということで、以下のことを書いておられる。

一、誰もが心に思っている事柄を、再認識させ共感させる。
二、誰もが知りながら心で見過ごしている事柄を、あらためて再認識し実感させる。
三、人に知られていない事柄を書き表して、そこに意味を発見し光を当てる。

こういうことを常に念頭に置いて文章を書いている人のものは金を払っても読む値打ちがあるが、案外、だれでも書けることを、新規な発想もなく書いている人が多いのではないだろうか。私の創作にしても自戒しなければならない。

私の文学態度を決定づけた詩人、小野十三郎の『詩論』(昭和22年8月 真善美社刊)の中に「詩とは偏向する勁(つよ)さのことだ」といういい表現がある。当時人生をさまよっていたぼくにとっての大きな啓示、天啓であった。この言葉で人生を歩む姿勢をまがりなりにでも保持することができるようになった。

偏向した視点を持たないことには、読者にインパクトを与える小説も評論もエッセーも書けない。偏向と偏狭とは異なる。

文章作法(3)

2007-02-01 12:17:56 | 表現・描写・形象
書き分け

これも芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)の引用だが、案外、このこともわかっているようでいてわかっていないひとが、小説創作の初心者には多い気がする。私はこのことを最近、「書くと描く」というタイトルで書いたが、以下も参考になるのではないか。私が下手な解説をするよりもプロに登場していただこう。

村田喜代子さんは自作の一文を地の文、描写、セリフと書き換えておられるが、プロでさえかような修練を積んでいる。はたして初心者は自分の文章を書き換える能力があるのかどうか、はなはだ疑わしい気がしないでもない。

エッセイや小説は三種類の文章からできている。それは次のようなものだ。

一、地の文。
二、描写。
三、セリフ。

地の文とは、簡単にいえば説明のための文章である。評論の文章は地の文が思考的に研磨されたスタイルと思えばいい。だが小説やエッセイの場合は生活上の具体的な事柄を題材にするため、地の文と描写、セリフの三種類の文章を効果的に使い分ける必要がある。

描写文は出来事を目に見えるように再現する。説明を切り捨て、読者の視覚に訴える。セリフ文はいうまでもなく、登場人物にしゃべらせるものだ。

実際にはこれらの内の一つだけ使っても、文章はできる。それぞれの機能の特徴を端的に知るために、私のエッセイ「五十年のツクシ」(『異界飛行』所収)の一部分を書き換えてみよう。まずは地の文のみの文章。

これは一見淡々としているが、柔らかい底力がある。
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 子供の頃、不思議な歌を聞いた。中学生の従姉はキリスト教の学校へ通っていて、わたしは修道尼姿の先生が珍しく、よく運動会について行った。ダンスの演目が始まると、タタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ、という歌が流れた。冒頭の部分は、戦い終えて立ち上がるであることはわかるがその次の、ミドリノサンガ、というのが不可解だった。友達はミドリノサンというのは人の名前だろうと言う。それで、戦争が終わって緑野さんという偉い人が立ち上がったのだ、と言うのだった。けれど奇妙なことにそんな人物の名前は、社会科の教科書にも出てこない。
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 これを描写だけで書くと次のようになる。
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修道尼姿の教師が笛を吹いた。白の体操服に黒のブルーマをはいた少女達が行進してきた。また笛が鳴る。運動場一杯にスピーカーから音楽が流れ、ダンスが始まった。タタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ――。

ノッポの光子が最前列で踊っている。わたしは隣の雪子に囁いた。
「ねえ、ドリノサンガって何のこと?」
「きっと緑野さんっていう人間よ。偉い人なのよ」
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ここではとりあえず最小限の描写文にしたが、それでも地の文より印象が生き生きとなるのがわかるだろう。次はセリフのみで書いてみよう。
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「子供の頃、従姉の通っているキリスト教の学校のね、修道尼姿の教師が珍しくて、よく運動会を観に行ったものよ。そこでわたし、不思議な歌を聞いたの。女子のダンスの演目だけどタタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ、っていう歌詞だったわ。タタカイオエテは、つまり戦争が終わってという意味だってわかるけど、ミドリノサンガっていうのが不可解なのね。友達は緑野さんていう英雄みたいな人物がいるのだろうと言うけど、でもそんな名前は教科書に載っていないの」
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このように、それぞれの文章に長所短所がある。地の文だけだと目配りが利いて満遍なく書けるが、インパクトは弱い。描写で行けば視点のみを追うため臨場感はあるが、説明不足となりやすい。セリフのみだと説明もでき人間味も出るが、冗長に流れやすい。

やはり三つの文章の効果をバランスよく取り入れて書くのが一番望ましい。ではどこを地の文にして、どこを描写にするか? どこをセリフにするか?

この配分で文章全体の印象はガラリと変わる。いろいろ書き換えて効果を探してみるのもいい。