喜多圭介のブログ

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文章作法(3)

2007-02-01 12:17:56 | 表現・描写・形象
書き分け

これも芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)の引用だが、案外、このこともわかっているようでいてわかっていないひとが、小説創作の初心者には多い気がする。私はこのことを最近、「書くと描く」というタイトルで書いたが、以下も参考になるのではないか。私が下手な解説をするよりもプロに登場していただこう。

村田喜代子さんは自作の一文を地の文、描写、セリフと書き換えておられるが、プロでさえかような修練を積んでいる。はたして初心者は自分の文章を書き換える能力があるのかどうか、はなはだ疑わしい気がしないでもない。

エッセイや小説は三種類の文章からできている。それは次のようなものだ。

一、地の文。
二、描写。
三、セリフ。

地の文とは、簡単にいえば説明のための文章である。評論の文章は地の文が思考的に研磨されたスタイルと思えばいい。だが小説やエッセイの場合は生活上の具体的な事柄を題材にするため、地の文と描写、セリフの三種類の文章を効果的に使い分ける必要がある。

描写文は出来事を目に見えるように再現する。説明を切り捨て、読者の視覚に訴える。セリフ文はいうまでもなく、登場人物にしゃべらせるものだ。

実際にはこれらの内の一つだけ使っても、文章はできる。それぞれの機能の特徴を端的に知るために、私のエッセイ「五十年のツクシ」(『異界飛行』所収)の一部分を書き換えてみよう。まずは地の文のみの文章。

これは一見淡々としているが、柔らかい底力がある。
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 子供の頃、不思議な歌を聞いた。中学生の従姉はキリスト教の学校へ通っていて、わたしは修道尼姿の先生が珍しく、よく運動会について行った。ダンスの演目が始まると、タタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ、という歌が流れた。冒頭の部分は、戦い終えて立ち上がるであることはわかるがその次の、ミドリノサンガ、というのが不可解だった。友達はミドリノサンというのは人の名前だろうと言う。それで、戦争が終わって緑野さんという偉い人が立ち上がったのだ、と言うのだった。けれど奇妙なことにそんな人物の名前は、社会科の教科書にも出てこない。
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 これを描写だけで書くと次のようになる。
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修道尼姿の教師が笛を吹いた。白の体操服に黒のブルーマをはいた少女達が行進してきた。また笛が鳴る。運動場一杯にスピーカーから音楽が流れ、ダンスが始まった。タタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ――。

ノッポの光子が最前列で踊っている。わたしは隣の雪子に囁いた。
「ねえ、ドリノサンガって何のこと?」
「きっと緑野さんっていう人間よ。偉い人なのよ」
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ここではとりあえず最小限の描写文にしたが、それでも地の文より印象が生き生きとなるのがわかるだろう。次はセリフのみで書いてみよう。
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「子供の頃、従姉の通っているキリスト教の学校のね、修道尼姿の教師が珍しくて、よく運動会を観に行ったものよ。そこでわたし、不思議な歌を聞いたの。女子のダンスの演目だけどタタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ、っていう歌詞だったわ。タタカイオエテは、つまり戦争が終わってという意味だってわかるけど、ミドリノサンガっていうのが不可解なのね。友達は緑野さんていう英雄みたいな人物がいるのだろうと言うけど、でもそんな名前は教科書に載っていないの」
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このように、それぞれの文章に長所短所がある。地の文だけだと目配りが利いて満遍なく書けるが、インパクトは弱い。描写で行けば視点のみを追うため臨場感はあるが、説明不足となりやすい。セリフのみだと説明もでき人間味も出るが、冗長に流れやすい。

やはり三つの文章の効果をバランスよく取り入れて書くのが一番望ましい。ではどこを地の文にして、どこを描写にするか? どこをセリフにするか?

この配分で文章全体の印象はガラリと変わる。いろいろ書き換えて効果を探してみるのもいい。