文章の基本点
以下も芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)のなかで指摘されていることだが、小説や随筆・エッセーを書いておられる方が参考にしなければならないことだろう。案外、こういう基本も身に付けないで独りよがりの文章を書いている人が多い。
この三点を押さえておくだけでもいい文章は書ける。ただし最初からいい文章はプロでもなかなか書けない。初稿を推敲、改稿するときの心構えとして、この三点に留意したらいい。
以下は推敲についてである。ここも『名文を書かない文章講座』から引っ張り出しておく。
以下も芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)のなかで指摘されていることだが、小説や随筆・エッセーを書いておられる方が参考にしなければならないことだろう。案外、こういう基本も身に付けないで独りよがりの文章を書いている人が多い。
この三点を押さえておくだけでもいい文章は書ける。ただし最初からいい文章はプロでもなかなか書けない。初稿を推敲、改稿するときの心構えとして、この三点に留意したらいい。
ほとんどのエッセイや小説の中で、もっとも分量の多いのが地の文である。そこで地の文を書く上での注意事項を箇条書きにして説明しよう。
一、観念語、哲学用語など生硬な言葉を文中に使わないこと。
エッセイや小説は論文ではないので、できるだけ普通の言葉を使用する。普通の言葉の力をどれだけ出せるかが鍵である。たとえばこんな文章はどうだろう。
「私の心の空間に虚無の風が流れ込んだ」
作者は大真面目に書いても、読む者にはほとんど劇画調だ。おおげさな言葉は文章力の欠如を物語る。空間や虚無などという言葉は不要である。
「私の心の中にさびしい風が流れ込んだ」と、これでいい。
「女は空虚な目で私を見た」
「それは父の魂の叫びだった」
「私の存在の欠落感を周囲の人々は認知することもなく、あるいは目をそらし、あるいは嘲笑して、電車の外の大都会の空虚な雑踏の中へ散って行くのであった」
こんな実質のない文章を誰が読むだろう。文章は私たちが日常使っている普通の言葉に近いもので書かねばならない。普通の言葉では書くことができないような濃密な内容を、あえて普通の言葉で書く作業とでもいおうか。そこに作者の力量がうかがえる。たとえば「空虚」という言葉を外して、普通の言葉で表現するとすれば、
「女は力のない、ぼんやりした投げやりな目で、私を見た」
というようになる。「空虚」なら二文字ですむところを、平易な言葉を使えばこれだけ書き込まねばならない。まさに書く行為は、細心と、辛抱である。生硬な難しい言葉を使うと、一見、重い内容であるような感じを与えるが、じつは既製の二文字で片づけた、粗雑な、これこそ「空虚」な文章だといえる。
二、同じ言葉を使わない。
これは誰もが承知していて、意外にミスが多い。
「私の故郷は西瓜の産地で、歩くと青い西瓜畑がやたら目につく。私の父は西瓜が好きで、夏ともなれば西瓜がなくては一日も過ごせなかった。西瓜には利尿作用があると言って、わが家の食卓に置いた西瓜の皮を叩いて講釈した。西瓜を食べると緑色の皮は漬物にした。今も私は店頭に並んだ緑色に光る西瓜を見ると、故郷の西瓜畑と、父と、わが家の食卓の西瓜を思い出す」
こんなエッセイを書いた人はいないだろうか? 文中に、西瓜は十回、緑色は二回、故郷、食卓も二回出ている。
三、形容詞を多用しない。
これは描写の文章にも関わってくるが、形容詞はものを説明するときに威力を発揮する。「赤い椿が咲いている」と書くのと、「目に沁みるような赤い椿が咲いている」と書くのとでは、後者の印象のほうが大である。形容詞は文章の最大武器。しかし効果の高いものは多用注意だ。
「目に沁みるような赤い血のような、どす黒くさえ見える色をした大きな椿が、人の首のように重そうにうなだれて、寂しげに立っている」
こんな文章は形容詞過多で、肝心の椿がぼやけてしまう。沢山の色を塗りすぎて、かえって不鮮明になった油絵のようだ。
言葉にはふしぎな性質があって、説明すればするほど、焦点がぼやけてくる。本体が見えにくくなる。よく見ようと近づき過ぎて、ピントがずれる人間の目と似ている。
「赤い椿が咲いている」
と、すべての形容詞を取り払った後に残る、たったこれだけの文章の簡潔さと強さも忘れてはならない。
以下は推敲についてである。ここも『名文を書かない文章講座』から引っ張り出しておく。
言葉の重複は、書いているときには意外と気づかないものだ。
「その日」は風のない穏やかな「初冬の日」だった。
右の例などは単純ミスで直しやすい。だが次のようだと少々面倒になる。
まだ近所に「空き地」が目立っていた頃、「我が家」の猫が「よく」「空き地」から「よく」バッタを捕ってきて遊んでいた。そのうち「家」が立て込んでくると、「我が家」の庭からヤモリを捕って帰り、「家」の中に持ち込んだ。
これは朝日カルチャi教室の生徒さんの作品だが、さて、この文章の中に幾つの重複語が入っているだろう。まずいやでも目につくのが、「空き地」「我が家」「家」「よく」などで各二回あて出てくる。また「捕ってきて」と「捕って帰り」も重複である。
まだ近所に空き地が目立っていた頃、我が家の猫がよくそこからバッタを捕ってきて遊んでいた。そのうち周囲が立て込んで空き地もなくなると、今度は家の庭からヤモリを見つけて座敷にくわえてきた。
というように直してみるのがいいだろう。訂正したところで舌にのせて音読してみる。なめらかに声に出して読めるよう何度か直していくといい。
作家の中にも自分の書いた小説を全編声に出してチェックしている人たちがいる。
次に、助詞の「が」の重複について、述べてみよう。
いつのまにか老眼が進んでいくようだった。そのうちに、針に糸を通すのが確率が悪くなってきた。三度に一度はうまくいっていたのが、ある日とうとう、針の穴自体がどっちを向いているのかさえ見えなくなった。
「が」を多出する文章は話し言葉の調子で書いているとき生じやすい。この文章では「が」のほかに、「に」と「の」も重複している。これは次のように直す。
そのうち、針に糸を通すときの確率が悪くなってきた。三度に一度はうまくいっていたのに、ある日とうとう針の穴自体がどっちを向いているかさえ見えなくなった。
ここで気になるのは「確率」という語の座りの悪さである。そもそもこの確率という語を使おうとしたときから、文章がおかしくなったのだろう。本当は思いきって捨てるほうがいいのだ。
また、次のような「が」の場合もある。
昔、母や祖母が、どうして針の穴が小さいというのか不思議だった。
これは「針の穴が」を、「針の穴を」に直せばいい。
字面で見ると難しくて面倒そうだが、音読して自分の耳で聞き舌の上に転がしてみるとしぜんに修正文が出てくる。耳と舌が助けてくれるものだ。