喜多圭介のブログ

著作権を保持していますので、記載内容の全文を他に転用しないでください。

鋭角的表現(1)

2007-02-04 00:13:47 | 表現・描写・形象
小説の面白さは様々な角度から検討できるが純文学の場合は、表現の重要性は異論のないところであろう。文学が芸術の一分野であるかぎりは「書く」でなく「描く」という視点を抜きにはできない。俳句、短歌にしてもある情景や情緒を書いているのではなく、描いているのである。人によっては切り取るとも言っているが。

芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」、高浜虚子の「遠山に日の当たりたる枯野かな」、佐々木信綱の「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」にしても、事象を説明しているのではなく描写しているのである。

小説創作の場合は物語であるから描写だけではなく説明も必要にはなるが、説明ばかりの小説というものはない。それなら論文にすればよい。会話体を含めてやはり描写が主で説明は従の関係である。可能なかぎり説明を多用しない心構えが大切だが、HPの未熟な作品は会話体と説明だけの退屈な、とても読めないものが多い。本人はそれで満足しているのだから私が何かを言う必要もないが、愛読者はいないだろうと想像する。

描写であるが、確かに描写の大切をわかって描写している作品も散見するが、この描写が凡庸というか平凡で、まるで新鮮味のない作品が若い人のものでも多い。

非凡な表現はなかなか難しいものだが純文学の新人賞、芥川賞ともなれば非凡な表現が多い。つまり非凡な表現がなければ受賞しないとも言える。

そこで画廊の絵画を鑑賞するように作家の表現を少しピックアップした。一応各作品の最初の二、三頁から採録した。

まず柳美里から。

◆陽射がべっとりと貼りつき遠近を失った街並を眺め

◆背中がひりひりして後頭部がドライヤーの熱をまともに受けたように熱い

◆妻はいったいいつごろから怒りを冷凍しておくようになったのだろうか、男は記憶をたどってみる。ことあるごとに鮮度のない怒りを解凍してその場の雰囲気に合わせて調理しては男に差し出すのだった。男のなかで妻の記憶がどろりとした憎悪に解けて動き出し、彼女がはじめてはっきりしたキャラクターを持った女として立ち現れたように思えた。

◆大通りに出て、車道の向こう側に伸びた男の視線は〈ローソン〉で留まった。左右を見て通り沿いにある薬局と〈サブウェイ〉を記憶してから、横断歩道を渡って〈ローソン〉のドアを押した。いつもなら蛍光灯の下に立つと頭からレントゲンをあてられたような不快な気分になるのに、陽射に視神経をやられたいまはやわらかで透明感あふれた光に感じられる。【『タイル』より引用。】

◆父は私の言葉にはたかれたように顔を背けた。

◆「ガスは?」妹が目を擦りながらつっけんどんに訊いた。

◆「今日は無理だな。明日、電話してガス屋と電気屋を呼ぶよ」父の眼球がぐったりと生気を失った。ここに向かう車のなかで父は電気もガスも通っていると嘘をついていた。

◆私は椅子に深く座って足を鋏のように閉じたり開いたりしている妹に目配せして、腰をあげさせた。【『フルハウス』より引用。】

これだけ読むだけでも柳美里が凡庸な作家でないことが理解できる。