アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

炎の男、火麻呂 能登国風土記 Ⅵ

2016-12-11 21:21:06 | 物語
 六
 能登国は十年前の西暦七百十八年、羽咋、能登、鳳至、珠洲の四郡を越前国
から割いて新設された。その後も七百四十一年に越中に併呑され、七百五十七
年に再配置された。越前、能登、越中、能登、短い間に四度も名前を変えたこ
の地方では、古くから三つの豪族が鎬を削って来た。
能登郡、珠洲郡に勢力を張る能登臣、羽咋郡の羽咋君、やや越前に籠もってし
まった感があるが、鳳至郡に勢力を残し、羽咋郡の北部にも楔をいれている道
君、この三古豪である。
 能登国新設や併合の影には、藤原氏と対立する勢力との綱引きが見え隠れし
ている。
 そんな難しい所に、決して政にふさわしい器量の持ち主とは思えぬ、大伴氏
の葛麻呂が赴任して行くのだから、嵐の予感が多くの人の心を過った。

 一行が羽咋郡に差し掛かってすぐ、はやくも嵐の予兆が現れた。
 その報告は、北陸道まで出迎えていた羽咋君比古麻呂によってもたらされ
た。
 能登の内海に浮かぶ香島に四隻の新羅船が訪れ、交易を願い出たのだ。
 羽咋郡衙で急遽開かれる評議。とは言っても、緊急の場合なので、羽咋君比
古麻呂、その長子千賀、熊来鹿人だけが参加した。
「能登ではこのような事が度々起こるのか?」
「能登だけでは無く、出雲から越後までの国々で新羅船が訪れては交易を迫り
ます」
 葛麻呂に答える比古麻呂、千賀も鹿人も場を弁えて発言を控えている。
「特に近年新羅は凶作が続いていると聞き及びます。その為か頻繁に現れては
穀物との交易を求めて来ます」
「交易を認めて来たのですか?」
「はい、たいていは」
「なぜ毅然とした態度を取らなかったのです」
「無益な争いを避ける為で御座います」
「そんな事では侮られ、付け上がるだけです。追い払いなさい、この大伴葛麻
呂が能登国守の間はこの国に近づいては成らぬ、再び能登の近海を航行すれば
必ず海の藻屑にしてくれると伝えよ」
 無造作に言い放つ葛麻呂。
 この場の三人の顔が暗く沈んでいった。

 八田郷にある国衙に葛麻呂の言葉を伝える急使が走った。
 翌早朝、国衙に到着した葛麻呂を待っていたのは驚愕の事実だった。
 葛麻呂の暴言に激怒した四隻の新羅船が海賊に豹変して香島を襲ったという
のだ。東と西の大半は占領され、中央北部の高田に香島衆が終結して僅かに抵
抗しているだけだという。
 即刻香島奪還を命じる葛麻呂。
 踏ん反り返って命じただけで自身は何もしなかった。
 その為、能登臣龍麻呂が指揮を取った。
 龍麻呂は香島津を海上から封鎖してもらう為に、まず越中国衙に急使を送っ
た。
 次に八田郷、下日郷、熊来郷の水軍を香島西湾と南湾に集結させ、珠洲郡水
軍に香島北湾を固めさせた。
 準備が整った段階でようやく、羽咋郡衙と鳳至郡衙に早馬を送って報告だけ
をした。香島津に新羅船が四隻もいきなり出現したこと事態不可解な出来事
だ、羽咋君か道君が後ろで糸を引いているか、手引きをしなければ不可能だ。
あるいは珠洲郡に内報者がいるのかも知れない。

 鹿人は三年振りに熊来の館に帰還した。
「お帰りなさいませ」
 美しい娘が三つ指をついて出迎えた。
 小首を傾げて娘を見る鹿人。こんな娘いたかな? どうも見覚えが無かっ
た。
 侍女たちに足をすすがせた鹿人は大またで奥に向かった。
「聞いているとはおもいますが、戦に成ります。湯漬けをお願いします」
 娘が小走りで鹿人に追いすがって息を弾ませた。
「はい、畏まりました」
 立ち止まって娘を見る鹿人、古参の侍女に命じた積もりだったのだ。
「今では、奥向きのことは私が宰領しております」
 大きな瞳を輝かせながら娘が悪戯っぽく微笑んだ。
「オッ! これは」
 頬に出来た笑窪でようやく気付く鹿人。
「とんだ粗相を、姫か? 紗誉璃殿か?」
「はい、お帰りなさいませ、鹿人様」
 こう言った娘は、三年前の昔に帰って、鹿人に飛びつき、抱きついた。
 鹿人もまた、かってそうしたように、紗誉璃の身体を両手で高く掲げた。
 娘は、身女児のように無邪気に笑った。

 ころころと笑っていた紗誉璃がすまし顔で鹿人の給仕をしている。
 湯漬けを掻きこみながら、鹿人はこれから始まる香島での戦闘の難しさを思
った。
 交易に応じることで保たれてきた和平が脆くも崩れてしまった。香島を奪還
する事自体はそれほど難しくは無いだろう。問題はその後だ。海賊と称しては
いるが、海賊の実態は新羅の正規軍なのだ。戦闘の後の政治的な解決の方が余
程難しい。軽薄を絵に描いたような国守葛麻呂に解決出来るとは到底思えなか
った。
 鹿人の空になった器を取りあげる紗誉璃、飯を盛り、さよりの干物をほぐし
てまぶし、香の物を乗せて湯を注ぎ、鹿人の手にその器を戻した。が、鹿人の
思考がまだ続いていた。
 ここは果敢に攻めて、鮮やかな勝利をあげなければならない。鮮やかに勝つ
事で、その後の交渉が有利に運ぶ。海賊を殲滅するのではなく、出来るだけ捕
虜にしなければと思った。能登で神隠しにあい、新羅に拉致されている者達と
交換する事も出来るのだ。
「鹿人様」
 紗誉璃の声が鹿人の思考を遮った。
「せっかくの湯漬けが冷めてしまいます」
「これは・・・・」
 湯漬けを掻き込む鹿人。
「旨い!」
「まあ」
 鈴を転がすように笑う紗誉璃。
「京師には美味しい物など沢山あったでしように」
 鹿人はすっかり女らしく輝いてきた紗誉璃を見ながら、「これは、出来るだ
け早く紗誉璃姫を妻に迎えねば」と思った。鹿人と紗誉璃の婚姻は、雅への想
いを断ち切るためにも、熊来郷の改革を進めるためにも必要な事だと思った。

 甲冑に身を固めた鹿人が紗誉璃と共に、館の庭園から熊来川に続く桟橋に現
れた時、既に熊来の兵団が勢ぞろいしていた。十数隻の軍船には煌煌と篝火が
焚かれ、出撃態勢が整っていた。
 軍勢の他に熊来の長老たちも集まっていた。
 鹿人の姿を認めた長老たちが一斉に地に触れ付し匍匐礼をした。
 地に頭を擦り付けるようにして鹿人に礼を尽くす長老たちの姿に困惑する鹿
人、傍らの紗誉璃に、
「顔を上げて立つように言ってあげて下さい。私は血の通った人間で、神など
では有りません」
「お館様が困っておられます。顔を上げなさい」
 熊来の巫女でもある紗誉璃の言葉でようやく顔を上げる長老たち、それでも
跪いて大地に両手をついた姿勢を崩さなかった。
「この者たちは、鹿人様にお願いが有るのです」
「私に出来る事なら聞かぬでも有りませんが、とにかく立ち上がって下さい」
 互いの顔を見合わせて様子を窺っている長老たち。
 鹿人が先頭の長老に跪き、両手で肩を抱くようにして立ち上がらせた。
「跪礼、匍匐礼が禁じられてからもう随分たちます。熊来では今後難波朝庭立
礼をもって礼と成します。どうかこの令を守って下さい」
 ようやく立ち上がる長老たち。
 この場に居る者全てに聞こえるように声を高めて宣言する鹿人。
「この熊来では、生を受けた者は皆平等です。例え、であっても、等しく
この郷で生きる権利が有るのです。夫々の役割が違うだけと心得て下さい。立
礼というのは、立ったまま向き合い」
 目の前の長老に軽く頭を下げて立礼を示す鹿人。
「軽く頭を下げます」
 立礼された長老が戸惑いながら頭を深く下げた。
「それで? 用件というのは?」
 口ごもる長老に代わって紗誉璃が答えた。
「彼の島の鹿が異様に増えて困っています。鹿たちが若木の樹皮までも食べつ
くし、神々の森が滅びてしまうと心を痛め、お館様に薬猟をとお願いに上がっ
たのです」
「そんなに増えてしまったのですか?」
「はい、彼の島に暮らす人々に負けぬくらいに」
「分かりました。新羅の海賊を退治して彼の島を奪還したらすぐ、香島衆と合
同の薬猟を行い、鹿の群れの数をととのえましょう」
 鹿人の言葉で安堵した長老たちが深々と頭を下げて感謝を表した。
 数人の兵士を従えて独木舟に乗り込む鹿人。
「それでは、姫、少し汗を流して参ります」
「御武運をお祈り致しております」
「熊来の巫女神が祈る程の事は有りますまい。さよりの湯漬けの御礼に鮮やか
な勝利をお約束いたします」
「紗誉璃は勝利など祈りませぬ。彼の島の、その西の島など熊来郷に還らなく
ても構いません。私が祈るのは貴方様のご無事だけです」
 爽やかに微笑んだ鹿人が手で合図すると、独木舟が沖合いの軍船に向けて動
き出した。
 どんよりとこもった空は夕暮れを迎えて益々暗く沈み、軍船の篝火がまるで
冬の星座のように煌めいている。

 日が暮れ、闇となった高田浜に珠洲の兵士が忍んできた。
 龍麻呂の使者は香島末麻呂に何やら報告して、また海中に消えた。
 海賊は高田には攻めてくる気配を見せず、奪った食料を四隻の船に積み込ん
でいる、おそらく明朝引き上げる積もりなのだ。

 羽咋君が報告を受けた時は既に深夜になっていた。
 長子千賀と荒木郷の兵士を香島に急行させる羽咋君。新羅海賊を殲滅させた
ら、本格的な戦争にまで発展するかもしれない事を知っていたのだ。
 荒木郷から峠一つ越えれば熊来郷で、熊来川を一気に下れば香島西湾に出ら
れる、羽咋からの最短距離を羽咋軍団が夜を徹して走った。千賀と軍団の使命
は唯一つ、ある高貴な人物を死なせない事だけだった。
 峠を騎馬で一気に駆け抜けた羽咋軍団が熊来河口に集合した。

 庭園に続く社殿で祈る、巫女となった紗誉璃の元に家人が走りこんだ。
「羽咋の千賀様の御使者が参り、鹿人様に与力の騎兵を彼の島に運ぶ軍船をお
貸し願いたいと申しておりますが、いかがいたしましょうか?」
「まあ、海を廻らず、峠を駆けてきたのですね。熊来にはろくな舟が残ってい
ないと思いますが、出来るだけの便宜を図ってあげて下さい」
「かしこまりました」
 慌ただしく社殿を出て行く家人を見送りながら顔を曇らせる紗誉璃、「羽咋
の千賀様まで!
海賊はそんなに大勢いるのかしら」、不安を抱えながら祖霊に祈りを捧げた。

 その頃、高田の浜辺に次々と島人が現れ、柴を堆く積み上げて行った。
 柴に油を注いで松明を投げさせる末麻呂。
 紅蓮の炎を上げて火柱が夜空に翻った。
 その火柱を目標として、香島津に水軍が溢れ、香島目指して殺到した。
 いち早く辿り着いたのは、鹿人に率いられた熊来衆だった。
 西湾から半浦に上陸した熊来衆は浜辺で遭遇した海賊などにはわき目も振ら
ずに、須曾の頂を目指した。祖先の祖霊を祀った墳墓を奪回するためだ。
 一気に須曾山に駆け上る熊来衆、あっけないほどの速さで二個の横穴式石室
を持つ方墳を奪い返した。
 大地にうつ伏せになって祖霊に陳謝し、天帝に感謝を捧げる鹿人と熊来衆。
 すっくと立ち上がる鹿人。
「天帝は我らが願いをお聞き届けになった! 二度と墳墓を奪われては成ら
ぬ! 次の目標はあの火柱じゃ! 命の限りに駆け抜けよ、熊来衆ここにあ
り! 我と共に戦うものに神のご加護は必ずある」
「ウオーッ!」
 津波のような雄叫びが熊来衆の間に拡がった。
「フィーヨー! フィーヨー! フイーン!」
 周囲の森から鹿の群れの雄叫びが聞こえてきた。
「ボボボボッ!」
 群れの王、鹿王の雄々しい鳴き声が轟いた。
「聞いたか! 者ども、鹿王とその軍勢までも我等に助成してくれるという
ぞ。目指すは高田じゃ、海賊ばらをひとり残さず生け捕りにせよ」
「ウオーッ!」、雄叫びを上げながら足を踏み鳴らし、盾や伽和羅を叩く熊来
の兵士たち、須曾山を駆け下りる鹿人の後を我先にと追い駆けた。
 ドドドドドドーッ!
 地響きを立てて、鹿王とその軍勢もまた鹿人と共に駆けた。

 戦闘が始まってすぐ高田一体は制圧され、能登軍団は一時程の間に西側を完
全に奪い返した。
東端の野崎にだけ海賊が残っていた。
 高田浜に集結した能登臣龍麻呂と三人の息子、珠洲郡司能登臣壱智麻呂、熊
来の養子鹿人、香島性を継いだ末子末麻呂が野崎に向かって進軍した。
 野崎に着いた時、そこでも戦闘は終わっていた。
 沖では新羅船が炎上していた。
 海賊は目と鼻の先にある松島に逃げ込んだという。
 ようやく千賀と荒木衆が戦場に到着した。
 松島から海賊たちの泣き叫ぶ声が聞こえている。
 松島に小舟をつけて上陸する龍麻呂軍。
 三十人程の海賊が、胸や頭をかきむしりながら転げまわって大袈裟に泣き叫
んでいた。
 その中心に一人の若武者が座り、天に向かって祈りを捧げていた。
 若武者の姿を確認してホッと胸を撫で下ろす千賀。
 懐から小さな壷を取り出す若武者、天を仰いでその壷を唇に当てた。
 素早く駆け寄った千賀が耳元で囁いた。
「私は羽咋君千賀と言う者、貴女様を必ずお救い致します」
 怯む若武者から毒の入った壷を取り上げる千賀。
 千賀を見詰める若武者の美しい顔を月光が照らし、
「私は構いません、覚悟は出来ております。この者たちの命を助けてあげて下
さい」
 と、壱岐で火麻呂が助けた、男装の麗人金正姫が達者な日本語で言った。
 戦闘が完全に終わった事を確認した鹿人が兜をようやく脱いだ、その時。
「ボボボボッ! フィーヨー! フィーヨー! フイーン!」
 鹿王とその軍勢の祝福の声が聞こえてきた。
 鹿人と能登の兵士が声の方角を見ると、野崎の浜の向こうの丘に鹿王の一族
が勢ぞろいしていた。
 東の空が白み、宝達の山嶺から朝日が顔を出し、空と海を虹色に染めた。
 朝日を体全体に浴びながら、鹿人は心の中で鹿王に語りかけた。
「鹿王よ鹿王、鹿の中の王の中の王、鹿王よ、次は汝と我との戦いである。今
となっては心に染まぬ戦では有るが、これも宿命、いずれ狩場で遭おうぞ」
 鹿人の挑戦に応え、鹿王が奇跡を起こした。
 丘の向こうから東に向かって一直線、泡立つ白波が一本の道を創り、その上
を鹿王が一族を引き連れて渡って行くではないか。
 丘に残った群れの一部が悲しげに鳴いて鹿王との別れを嘆いた。
 香島末麻呂が感動の余り声を震わせ、鹿人に話しかけた。
「鹿王は矢張り海を渡る鹿だったのですね。でも、私には分かりません、何故
あんなにたくさんの鹿を引き連れて海を渡るのか? この島にまた帰って来る
のでしょうか?」
「帰っては来ぬかも知れない。鹿王は真に賢い王の中の王である。この島で鹿
と人とが共に生きるために、新しい王国を求めて海を渡っていくのではないだ
ろうか? お末、これ以後は決してむやみに鹿を殺めてはならぬぞ、よいか」
「はい、誓って薬猟を愉しませたりはさせません」
 白く泡立つ海の道は、朝日を受けてきらきらと光っている。
 島に残した配下の鹿たちに別れを告げるためだろうか? 鹿人との別離を惜
しんだのだろうか? 鹿王が立ち止まって振り返った。
 鹿王の宝冠が朝日に煌めいて虹色に輝いた。
 鹿人にも、この島に住む全ての人々にも、それが鹿王との永遠の別れになっ
た。
 能登の内海に浮かぶこの小さな島を、古の人々は彼の島と呼んだ。やがて加
島と呼ぶ者が現れ、香島とも鹿島とも呼ばれるようになった。いつしかこれら
の名は忘れられ、今ではただ能登島とだけ呼ばれている。
  2016年12月11日   Gorou   

炎の男、火麻呂 能登国風土記 Ⅴ

2016-12-11 06:23:26 | 物語
 五
 その頃、火麻呂は生駒仙坊の丘陵で迷っていた。次々ともたらされる情報を
吟味しながら、襲うかどうか迷っていた。襲えば破滅と分かっていながら、激
しい衝動を抑えることが出来なかった。
 襲い掛かったとき、たった一人になっているかも知れない。十分すぎるほど
の報酬を約束していたが、そんな財宝はもう手元に残っていなかった。実物を
見ずに手を貸す玉など手下にはいない。逃げればまだよし、鬼の三兄弟など、
背後から襲い掛かり、火麻呂の首で葛麻呂から報酬を強請りかねない。
 一団の僧侶が僧房から現れ、行基と見られる老僧を中心にして歩いてきた。
「願い奉る御詠歌を」
 鈴を鳴らしながら賛嘆を歌う僧侶たち。
「百石に、八十石そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
 通り過ぎる僧侶たちをみやりながら賛嘆を口ずさむ火麻呂。
 そんな火麻呂をチラッと見上げる行基、仙坊の入り口の草原で立ち止まり、
傍らの一人の僧侶戒融になにやら囁いた。
 火麻呂の元にやってくる僧侶。
「行基禅師がお呼びです」
 筑紫の観世音寺で知り合った戒融の言葉に少しむっとする火麻呂。
 それでもおとなしく戒融についていく火麻呂。日頃から行基に興味を持って
いたのだ。火麻呂の頭では、あんな年老いた僧侶のどこに何万もの難民を救う
力が有るのか理解できなかった。道を造り、橋を造り、堤防を造り、貯水池を
造り、不毛の地を開墾する、行基の社会事業の仕組みが分からなかった。だが
本心ではとてつもなく偉い坊主だと感心していたのだ。
 草原の石に腰をかけて火麻呂を待っている行基。
「座りなさい」
 前の石を見ながら穏やかな口調で言う行基。
 おとなしく座る火麻呂。
 残っていた二人の僧侶と共に戒融が草の上に座禅を組んだ。
「ここにいる三人の僧侶を知っていますか?」
「一人だけ知っている」
「だったら良く覚えておきなさい」
 若い方の僧侶を見る火麻呂、その二十歳を幾つか過ぎたばかりの僧侶は、火
麻呂が眼光鋭く睨めば、倍の迫力で睨み返してきた。触れれば忽ち切れてしま
いそうな刃物のような僧侶だ。武智麻呂の次男仲麻呂と雰囲気が驚くほど似て
いる、と火麻呂は思った。
 もう一人の三十位の僧侶に目を移す火麻呂。穏やかな顔で火麻呂の鋭い視線
を包み込んで微笑んでいる。
 最後に戒融を見た。ニコニコと笑顔で火麻呂に応えるその顔は少し精悍さを
増していた。
「知っているかも知れぬが、俺は」と、名乗ろうとする火麻呂を制して行基が
言った。
「名などどうでも良い、良く顔を見て、どんな顔をしているのか良く覚えてお
きなさい。この三人は、二十年もすれば、この日本を動かす僧侶の一人とな
る、その有り難い顔を拝んで良く覚えておきなさい」
「偉そうな事を言う前に、お坊は俺の事を知っているのか?」
「汝が火麻呂であろう」
「ふん、名前ではない、俺が何を考えているのか、何をしようとしているのか
だ」
「知らいでか。良いか火麻呂、この布施屋では働かぬ者の居場所はないぞ」
「何を言いやがる」、糞坊主とまでは口に出さぬ火麻呂。口ほどにも無いと思
ったのは確かだ。
 火麻呂も手下も普段は開墾や畑仕事などに精を出していた。特に火麻呂の働
きぶりは布施屋でも一二を争っていた。
 戒融に目をやる行基。
 ゆっくりと頷く戒融。
「ほほう、働いておったか。だが、汝の器量ならもっと働けるぞ、己の力を尽
くさねば、働いたうちにははいらぬぞ」
「今、俺は忙しいのだ。野良仕事など出来ぬ」
「忙しいのではなく、悩んでいるのであろう」
「この吉志火麻呂に悩み事などあるものか」
「悪逆非道の漢じゃそうだな、火麻呂、そんなに焦ってどこに行こうとしてい
るのだ?」
「地獄に向かって一直線、わき目も振らずにまっしぐらに駆けている」
「気の毒だが火麻呂、地獄などどこにも無いぞ」
「本当に無いのか?」
 これほどの偉い僧侶が言うのだから無いのかも知れないと思う火麻呂。
「無い」と、断言する行基。
「地獄というほどのものは、この世にもあの世にも無い」
 がっくりと肩を落とす火麻呂。
「地獄が無ければ、死んだものはどこに行けば良いのだ」
「死ねば、焼かれて灰になるか、土に帰るだけだ」
 火麻呂はこんな恐ろしい事を言う僧侶に初めて出会った。
「極楽に行くのがそれほど怖いのか?」
 上目使いに行基を窺う火麻呂。
「怖いものか」
「安心しろ火麻呂、極楽もまたあの世には無い」
「極楽も無いのか?」
 無ければ母真刀自の魂は救われぬではないか、それでは実の子に殺されかけ
た真刀自が余りにも可哀想だ。火麻呂の目に涙が溢れた。
「火麻呂、人は生きている間に救われねば成らぬ。この世に極楽を創らねばな
らぬのだ。その為に学び、施し、導かねばならぬのじゃ」
 この世に極楽を創る! 何という恐ろしい事を言う坊主だ。火麻呂の頭では
到底理解出来なかった。が、わけも分からず感動した。
「火麻呂、ここに呼んだのは他でもない」
 今度は優しく微笑みながら言う行基。
「貴方が先ほど覚えたいと思った歌を教える為です」
 驚く火麻呂、矢張りこの僧侶は人の心が読めるのだ。
 鈴を鳴らし、静かに歌いだす行基。
「百石に、八十石そえて」
 ともに歌う二人の僧侶。
 戒融だけが、火麻呂の耳元で囁くように歌った。
「給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
 繰り返す行基。
 今度は火麻呂も歌った。
「百石に、八十石そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
 歌い終わると、静かに立ち上がる行基。三人の僧侶を従えて街道を京師に向
けて歩き出した。
 見送りながら思考を巡らす火麻呂、何事かを決意して立ち上がった。
「有ろうと無かろうと、俺は地獄に向かってまっしぐらに駆け続けて見せる」
 と、呟き、通り過ぎてしまった葛麻呂一行の先回りをする為に、生駒山に向
かって走り出した。

 走る火麻呂の方に振り返る行基。
「悪に強ければ善にも強い。あの男の魂を救えば、計り知れない力を手に入れ
る事が出来ます」
 従う三人もまた火麻呂に振り返り、夫々に頷いた。
 地獄に向かって駆け抜ける火麻呂を見送る四人の僧侶。
 菩薩と謳われた行基。
 若き日の快僧弓削道鏡。
 薬師寺義淵僧正最大の後継者、東大寺初代別当良弁。
 そして三十年もの間唐土を行脚することとなる宇佐の僧侶戒融である。
 道鏡と良弁は行基の知識を継承し、一番凡庸な戒融が夢を継いだ。

 平城(良奈)と摂津(阪大)を結ぶ最古の官道の一つ、暗越街道は行基布施
屋のある生駒の山裾を右に見ながら暗峠へと上っている。
 街道が山道になると、急に道幅が狭まり、牛車がようやく通れる程の幅しか
無かった。左右を守っていた騎兵も前後に分かれた。
 平城を出る頃、異様に張り切って騎乗の人となっていた葛麻呂だったが、早
くも疲れて牛車に逃げ込んできた。
 馬鹿面で眠り呆ける葛麻呂を見やる雅、火麻呂の最大の標的が毛虫の傍にい
る事が不安でならなかった。外を窺うと、伊勢参りの帰りと思われる巡礼たち
が岩壁に這い蹲るようにして牛車の通り過ぎるのを待っている。
 そんな巡礼まで疑いの目で見てしまう雅。こんな所で襲われてしまったら大
混乱を起こしてしまう。雅の不安が増した。しかし、期待しているのかも知れ
ない。
 いつの間にか暗峠を越えていた。攝津に入ってすぐ、竹薮と崖から出来た、
墓道のような切通が前方に見えて来た。
 雅も鹿人も、襲ってくるならここだ、と直感した。
 半数の兵士を先行させ、切通の警護を固める鹿人、騎兵に前後を守られた牛
車を真っ先に通した。
 切通の中は真っ暗で当に地獄に続く隧道のようだった。
 切通を過ぎると左側に草原が広がり、大勢の農夫が開墾に精を出していた。
 右側には切り立つ崖が聳え、崖の上で二人の樵が丸太を積み上げていた。
 草原の端の二股道路の手前で後続を待つ雅の牛車。
 眠りこける葛麻呂も、雅も、まさかこの草原の斜面で神隠しにあった郡司小
幡猪足が土になっているとは、夢にも思わなかった。
 後続が続々と到着し、殿を務めた鹿人も切通から姿を現した。
 崖を見上げる鹿人。
 集積作業を続けている二人の樵、長身と巨漢、蛇火裟麻呂と槌麻呂かも知れ
ない。
 戦慄を覚える鹿人、あの丸太を頭上から降らされたらどうなっていたか分か
らない。
 草原では相変わらず農夫が開墾作業を続けている、積み上げられた草や土砂
の陰に武具が隠されているに違いない。ここまで準備を整えていながらなぜ襲
ってこなかったのだろう? 鹿人の疑問はすぐ解けた。難波からの街道を百人
ほどの武装した佐伯軍団が上ってきたのだ。

 鹿人と十人の騎兵だけを残して、葛麻呂一行は近江へと続く右側の街道を降
りていった。
「鹿人殿、矢張り能登に帰るのですか?」
 岐路に立つ鹿人の元に騎馬の将官が駆けつけ、笑みを浮かべながら話しかけ
て来た。
「おお、佐伯の、大角殿。お別れが言えず心を痛めていました」
「平城が寂しくなってしまいますなあ」と言いながら、いかにも残念そうに軍
馬の皮鎧を叩く佐伯直大角。
 皮鎧を珍しそうに見詰める鹿人。
「鹿人殿はこの皮鎧を見るのは初めてですか?」
「いいえ、出羽で恐ろしい思いを致しました」
「そうでしたな。皮の裏に鋼が仕込んで有りす。これを鹿人殿が使えば当に天
下無双となりましょう。そうだ、別れの土産にこの皮鎧を馳走致します。能登
の御許に届けさせましょう」
「これは有り難い。何よりも嬉しい土産で御座います」
 佐伯宿禰は大伴氏から分かれたという伝承を持ち、宮城南面東の佐伯門を守
る門号氏族である。ただし、大角の佐伯直は宿禰の佐伯氏に属してはいるが、
捕虜となった蝦夷を祖先としていた可能性が大きい。軍馬の皮鎧は高句麗系の
民族が使うことで知られ、高句麗の傭兵だった靺鞨、すなわち蝦夷の幾つかの
部族がこの皮鎧を用いた。

 ザツザツザッザッ! 軍靴を轟かせて佐伯軍団が岐路を右折し、駆け足で京
師へと向かった。
 その中に、佐伯の傭兵に成り下がった泥麻呂と蟷螂が混じっていた。
「泥麻呂様、あいつ等この草原全部を掘り返すつもりじゃないでしょうね」
「掘り返したところで、猪も人も土になれば分かるものか」
 囁きあいながら切通に消える二人。

「それでは御免!」
 馬を駆けさせて軍団を追う大角。
 見送った鹿人が近江のほうを振り返って、葛麻呂一行が十分に遠ざかったこ
とを確認した。
「草原に向かって突撃態勢!」
 鹿人の号令で横隊を組んで草原に向かって態勢を整える騎兵、一斉に槍を突
き出した。
 その一人から槍を受け取った鹿人、一騎で草原の中に悠然と馬を乗り入れ
た。
 何事も無かったのように働き続けていた開墾の農夫たちに緊張が走り、働く
手を止めて鹿人と騎兵の方を窺って身構えた。
 うずたかく積み上げられた草の端を槍の柄でほじくる鹿人。
 草の中から姿を現す数々の武具。
 槍を草原に突き立てた鹿人が崖の方に振り返った。
「ウオーッ!」
 二匹の鬼が斧を振りかざして吼えている。鹿人を威嚇し、侮蔑し、挑発して
いるのだ。
 弓に矢を番える鹿人。
 慌てて丸太の陰に身を潜める蛇火裟麻呂と槌麻呂。
 崖に向かって矢を放つ鹿人、その行方も見届けず、再び槍を取って草原の奥
へと馬を歩ませた。

 丸太に突き刺さる矢。
 丸太の陰から恐る恐る顔を出した二匹の鬼が、鹿人が弓を肩に駆けているの
を見届けて丸太の上で仁王立ちになった。
 蛇火裟麻呂が草原の南火血麻呂に首を振って、やってしまえとばかりに合図
を送った。

「やるか? キツネ」
「はやまるなナカチ、やるときは一人でも生かしては破滅だ」
「ハハハ、皆殺しにしてくれようぞ」
「五人がかりで一人をやる。馬を狙って引き摺り下ろせばなんとかなる」
 囁きあう南火血麻呂と狐麻呂。
 般若党の面々が、そろりそろりと武具の方に歩み寄って行く。

 草原の中ほどで馬を留める鹿人、大の字になって寝転んでいる火麻呂に言葉
を投げた。
「汝が火麻呂か?」
 悠然と寝転んだまま空を眺めている火麻呂。
 火麻呂の腹に槍を突きつける鹿人。
「義賊とかほざいているが哀れなものじゃのう、防人と役夫の成れの果てが般
若党であろうが」
 ゆっくりと半身を起こす火麻呂。
 鹿人の槍が火麻呂の腹から胸、そして首筋えと上がって行く。
「火麻呂、我が顔を忘れるで無いぞ。この鹿人が守る能登国衙は難攻不落であ
る。能登に一歩でも足を踏み入れたなら、その首必ずや我が太刀の餌食にして
くれようぞ。大それた企みなど忘れてしまえ」
「面白い! 今からやってみるか? 気の毒だが勝ち目は無いぞ。なぜ軍団が
いる間に挑んでこなかった」
「ハハハ! 盗賊の退治など、この鹿人一人で十分じゃ! 慈悲をもってこの
度だけは見逃してやる。だが、あの三匹の鬼だけは許すことは出来ぬ、必ず鬼
退治にこの熊来鹿人が戻って参る」
 火麻呂の首から槍先をはずして清々しく微笑む鹿人。
「鬼の首を三つ、それまで汝に預けておこうぞ、火麻呂! さらばじゃ!」
 鐙を蹴る鹿人、慌てて武具を取る般若党の面々を槍で振り払って草原から街
道に踊り出、近江に向かって駆け抜けた。
 慌てて鹿人を追う十人の騎兵。
    2016年12月11日   Gorou

虐殺のメロディ

2016-12-11 02:25:10 | 反戦
パサジェルカ [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店

 どんなに虐げられようと決して屈しない女囚と、彼女を支配しようとする女性看守。
大戦中のアウシュヴィッツを背景とした密度の濃い心理ドラマの傑作。

アメリカで結婚したリザ(シュロンスカ)は、豪華客船に乗って、戦争が終わってから初めて故国ドイツへと向かっていた。最後の寄港地イギリスの港で、1人の女性がタラップを上がってきた。そのとき、リザにいまわしい過去の記憶が甦り、突然取り乱してしまう。心配に思った夫にリザは一度は葬ったつもりのアウシュヴィッツでの過去を語り始める……。

撮影を終える前に交通事故死したムンクの作品を、友人たちが残されたフィルムで編集し完成させた。
 アマゾンホームページより

 大量虐殺、嫌な言葉で、不愉快な響きで満ちていますね。
 貴女は誰が一番虐殺したか知っていますすか? きっとヒトラーと答えるし、そう思い込んで居ますよね。残念ですが違います。ヒトラーは第三位(千七百万人)に過ぎません。二位がスターリン(二千三百万人)で一位が毛沢東(七千八百万人)だそうです。ヒトラーのユダヤ人虐殺はおぞましき歴史ですね。残虐性は言葉では語り尽くす事など出来るでしょうか? 皆さんはアンネの日記とかシンドラーのリストで良くご存じと思いますが、ナチの捕虜収容所を扱った映画では、私は未完のアンジェイ・ムンクの【パサジェルカ】を断然お勧めします。中々再販されず、かなりのプレミアム価格になっていますが。それだけの価値のある作品です。
 いったんナチから離れましょう。毛沢東とスターリン、彼等はヒトラーと違って同一民族の虐殺ですから罪がより深いとも考えられます。罪と罰、罪は必ず罰せられるとは限りません。ヒトラーは自殺、ナチは裁かれましたが、毛沢東とスターリンは英雄です。昔から良く言われていますよね、沢山殺せば殺すほど英雄になれる。こんなのは精々十九世紀までの格言です。
 裁かれなかった虐殺、一杯有りますよね。
 四面楚歌と虞姫で有名な楚 の覇王項羽は秦の捕虜二十万人を新安で謀に寄って生き埋めにしました。項羽軍は十万人で、武器が無いとは言え二十万人の秦軍を怖れた為です。項羽には同国人を虐殺したと言う自覚は全く有りませんでした。しかし、ある意味でこれが命取りになり、漢の劉邦に滅ぼされてしまいます。一応は罪を償った事になるのかも、いいえこれは因果応報と言うべきかも知れません。紀元前の話です。
 いちいち取り上げていては切りが有りませんので、後二つだけお付き合い下さい。
 千九百四十一年、ポーランドのカティンの森で二万二千のポーランド将兵が虐殺されました。当然ナチスドイツの仕業とされていましたが、戦後次第に真実が明らかになって行きます。
 ドイツがポーランドに戦線布告すると、ソ連もポーランドに侵攻しました、
 ポーランドは南北から挟み撃ちにあったのです。戦うと言うより逃げるようにしてポーランド軍は右往左往するばかり。そんな中、三万もの高級士官を含む将兵がソ連の捕虜に成りました。
 カティンの森の虐殺事件はソ連説、ナチ説とに分かれていました。当然お互いを非難していましたが、ナチの敗戦でソ連の主張のみが残りました。
 戦後、西側諸国も調査に乗り出し、少しづつ真相が明かされて行きますが、ソ連が真実を認めたの1990年4月13日です、ソビエト国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した。しかし、スターリンの犯罪の一言でかたづけられ、誰も罰せられず、罪を問われる事も無かったのです。
 私たちの身近で遙かに痛ましい事件が有りましたよね。原爆投下です。あれは誰がなんと言おうと虐殺そのものでしか有りません。誰も責任を取らず、罰も受けず、非難すら遠慮がちです。
 そんな日本が原子力の平和利用と称して原子力発電に励むのは理解できません。
 この話は考えるだけで吐き気がして遣り切れません。
2016年12月11日    HGorou