アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

ユダヤ人のリスト

2016-12-19 18:50:47 | 映画
 シンドラーのリスト、杉原千畝のリスト。
 ユダヤ人を助けたリストです。
杉原千畝はリストニア領事の時、二千人以上のユダヤ人にビザを書いて救い、現在その子孫は四万を超えているそうです。
 その杉原千畝が映画になりました。戸惑うほど退屈な映画でした。やまばもなく葛藤もなく、ただ淡々と、というよりはダラダラと進んで行きます。
 杉原千畝を主人公にしてここうまでつまらない映画が作れる事は、ある意味驚異です,少し寂しいですね。ここまで日本映画は駄目になったのか! 脚本と演出が特に良く有りませんでした。大体この監督、当時の日本がちゃなと分かっていたのか疑問です。
 杉原千畝には妻と子がいました。夫人との出会いがたんたんとあっさりと描かれています。千畝がなぜビザを書いたのかは夫人の存在が大きな鍵を握っていた筈なので、大きな演出上のミスです。
 ある舞踏会で、千畝と夫人が踊る映像に、戦争の経過が挿入されて、時間を節約していますが、間違いでしょう、誰でも知っているのだからと省略するのは違いますよね、ドラマチックに仕上げる演出の見せ所なのです。
 何故ビザを書いたのか? ビザで救われたユダヤ人達がどのようにして、ヨーロッパからシベリア鉄道で満州・朝鮮に行き、日本に入国にしてそれぞれの目的地に行ったのか、殆ど描かれていません。
 史実を元にしたフィクションという立ち位置の認識が実に甘いのです。
    2016年12月19日   Gorou

丘の上のマリア Ⅰ 事件

2016-12-19 17:37:29 | 物語
事件
 一
1999年4月6日〔火〕、この年の春は早く既に陽春を迎え、桜の満開は峠をすぎて五分位になっていた。
 その日の朝、渋谷円山町神仙駅の近くの寿荘一階Ⅰ0Ⅰ号室でОLと思しき死体が発見された。第一発見者は、道玄坂でネパール料理店店長で寿荘管理を任されていたロボという男で、店に行く前に空き部屋となっていた101号室を見回ったとき、街路に面した窓が開いており、そこから女性の死体を発見した。ロボによると、前夜見回った時にその窓は閉まっていたという。

 小早川真(こばやがわまこと)は先輩の石井と共に現場に急行した。
小早川と石井は渋谷署捜査1課の刑事で、二人の年は約一回り違う。小早川はこの先輩を尊敬する事篤く、コンビを組んで八年程経っていた。
「コバ、このヤマにはいやな予感する」
 小太りの石井が小早川に囁いた。
 185センチの背丈としなやかな肉体を持っていた小早川の横では175センチ程の石井がひどく小柄に見えた。
「ええ、確かに、変ですよね」
 女の死体はダークスーツに包まれ、両手を胸の前でキチンと組まれており、ショートカットと言うよりもオカッパといった方がより近い頭、その下の首からネックレスのチェーンが覗いていた。死体の周辺に萎れた桜の花弁が散らばっている。
「石井さん、どう見ても、彼女が強姦されて殺されたようには見えない」
 検視官が少し前から現場に現れて、キビキビと的確に働き、現場検証がほぼ終わっていた。
 争そった後はなく、右頬に軽い打撲の後があったが、死因は絞殺とされた。
「コバ、見ろよあの眼鏡」
 小早川は死体の眠るが如く穏やかな顔の、まるで牛乳瓶の底のような黒淵の眼鏡を凝視した。
「彼女の左目にはコンタクトが残っていたそうだ」
 右頬を殴られた時に右のコンタクトが外れて飛んだらしい。殺されようとしている時にコンタクトの上に眼鏡を掛ける者がいるだろうか。
 小早川は玄関にきちんと揃えられている茶色のローファーから目を外して石井を見た。
 二人(小早川と石井)は顔を見合わせて小声で言った。
「理由は?」と小早川。
「理由が分からない」と石井。
「ええ、彼女はこの姿で死体にならなくてはいけなかったのでしょうか?」
「だろうね」
 どうやら二人の見解は大筋では一致していた。

 被害者の遺留品と思われるハンドバック、そして中身の財布や定期入れが現場に残されていたので、身元が直ぐに判明した。財布には二万五千円程の現金が残されていた。
 加藤紗智子37才、日本有数の電力会社T電力総務部副部長というから、OLというよりは立派な管理職である。
 彼女は十日前から無断欠勤しており、会社と神戸に住む母親とが協議して五日前に捜索願が提出されていた。

 被害者の直ぐ脇に佇む小早川、石井も続き、彼女を見下ろして言った。
「無断欠勤など入社以来一度も無かったというから、おそらく殺されたのは一週間以上前だろう」
「可哀想に」
 二人は死体に向かって瞑想しながら手を合わせた。

 警視庁一課捜査員が被害者加藤紗智子の母親、加藤友恵を現場に連れてきて死体の身元確認が行われた。
 彼女、加藤友恵は元華族の令嬢だっただけに、娘の変わり果てた様子にも少しも取り乱すことも無く、冷静さを保って遺体の確認を行った。

小早川と石井は、現場から五分と離れていない紗智子の松濤の加藤邸に向かった。
「石井さん、あの母親は元タラジェンヌらしいですね」
「ああ、華やかで美しい、あんな歳にはとても思えない」
「害者は父親に似たのでしょうか」
「どうだろう? 俺は母親似だと思う。少しでも化粧をすれば十分過ぎるくらい美人さ」
 そんな会話を交わしている内に加藤邸に付いた。

 広大な加藤邸は門柱から玄関までかなり距離が有り、和洋折衷の二階建てのたたずまいは、いかにも元華族の邸宅という雰囲気を醸し出していた。が、広大な庭園は荒れ放題になっていた。芝生は伸び放題で雑草が混じり、邸宅に続く小道には落ち葉に桜の残骸が入り混じって積もっていた。殺された加藤紗智子はこの不気味なほど荒れ果てた邸宅に、五年前からたった一人で暮らしていたという。邸宅の奥の林の中に平屋建ての家屋が見えた。恐らく従業員用の建物だとおもわれた。
 本館の南面が眩しいほど陽光でキラキラ輝いていた。一面ソーラパネルで覆われていたのだ。
 腕を翳して光を遮る小早川、そのに硫黄の臭いが漂って来た。臭いの方を見ると、大きなプールが目にとまった。温泉プールだ。
 テニスコートの向こうには、三基の風車が回っていた。
「どうして? 電力会社の管理職の被害者が省エネに積極的だったのだろう?」
 二人この疑問を胸にしまい込んだ。事件と直接関係無いと踏んだからだ。

 玄関前に立ち止まった小早川がベルを鳴らすと、若い女性の優しい声が聞こえてきた。
「どちら様でしょうか?」
「警察の者です」
 相手の気持ちを考慮して少し間を置く小早川。
「紗智子さんのお部屋を見せていただきたいのですが」
「もちろん捜査令状を持っています」と、石井が言葉をつないだ。
「どうぞお入りになって」
 カチッという音とともに門柱が開いた。
 加藤邸に二人が入ると間もなく、エプロン掛けの若い女性の姿が玄関に現れた。
 何気なく背後を見る小早川、どう考えても、こんな閑静な高級住宅街が、あんな猥雑な神泉駅界隈と円山町の目先に在る事が信じられなかったからだ。それにしてもなんと広大な庭園なのだろう。

「こんな時に心苦しいのですが」
 石井が玄関先に佇む若い娘に会釈しながら声をかけた。
「石井と申します」と、警察手帳を娘に見せる。
「私、妹の由美で御座います」
 優しい声音に娘を見詰める小早川。
「これは同僚の小早川」
 軽く会釈する小早川に丁寧過ぎる程の辞儀を返す娘、その優しい微笑の影に無限に拡がる悲しみを湛えていた
 開かれた玄関を示しながら、「どうぞ」憂いを秘めた微かな声で言う由美。
 石井に続いて玄関に入る小早川の眼にきちんと揃えられている黒のパンプスが飛び込んできた。
 思わず顔を見合わせる石井と小早川、あの犯行現場の玄関にもこんな具合に害者紗智子のローファも揃えられていたのだ。
 二足のスリッバを揃える由美。
「どうぞ」
「下駄箱、よろしいでしょうか?」
「はい」
 由美の返事を待たずに、石井が下足入れの開き戸を開けた。
 上段に黒や濃紺のローファが五足並び、中段から下段にかけて色とりどり (とはいっても殆どが赤系)のハイヒールがずらりと並んでいた。
 リビングに向かいながら、廊下の掃除機を見やって石井が由美子に言った。
「大掃除ですか?」
「はい、少しは綺麗にしておかないと恥ずかしいですわ。姉はわりあいその辺はだらしがなかったのです」
 だらしのない、という言葉に反応して,小早川は思わず土間の由美の物と思われる土間の隅に整然と揃えられているパンプスを見詰め、現場玄関のローファを脳裏に甦らせた。
 由美と石井を追い越してリビングを覗き込む小早川、大きく重厚な三つの書棚にビッシリ 並んだ書籍がずっしりと存在感を示し、豪華なソファーや調度品をも圧倒していた。
「そのままにしておかなければいけなかったのでしょうか?」
「ええ」、石井が少し顔を顰めて言った。
「すいませんでした。でも、姉の部屋はそのままにしてありますわ」
「それはありがたい」
「姉の部屋は二階にありますの」
由美は二人の刑事を案内するようにリビングの横にある階段を上っていった。

二階に上がると、すぐウオークインクローゼットがあり扉が開かれていた。
 石井はチラッと中を除き、小早川は立ち止まってその部屋を確認した。
手前に五六着の黒や濃紺、そしてグレーのスーツが並んでいた。今時のOLが、T電力ではこんな制服を着ているのだろうか? まるで就活の女子大生のようだ。その奥に派手な原色のドレスやコートが並んでいた。
「ここが姉の部屋です」
 その声で由美の方を見る小早川。
 ドアを開ける由美に石井が聞いた。
「紗智子さん、貴女のお姉さんは派手な色、特に赤が好きだったのですか?」
「いいえ、地味な色が好みで派手好きな母をいつも貶していましたわ。・・・でも、五年前に母と私が芦屋に移ってから嗜好が変わったのかも知れません」
 紗智子の部屋にも、二つの大きな書棚が入ってすぐ左側の壁に聳えていた。十二畳位の広さで、長方形の一片、壁際に大型テレビとスピーカーやアンプ等のAVシステム、その前に豪華なレザー張のリクライニングシートとガラステーブル、その上には幾つものリモコンが雑然と置かれていた。書棚の向かいの窓際に主を亡くしたセミダブルのベッドが寂しげに控えていた。
 石井は部屋に入ると真っ先にディスク(AVの対向面)の上を物色し始めた。
 亡父の遺影らしき写真前の日記帳を手に取り、ペラペラとめくりながら石井が呟いた。
「ドナウ、ドナウ、ドナウ」
 小早川が石井の肩越しに日記帳を見下ろした。
「ドナウ、ドナウ、ドナウ、ドナウ。・・・毎日のようにこの店に行っている」
「ええ」
「コバ、この日は二回行っている。次の日には三回だ」
 目を凝らして手帳を見詰める小早川、八時ドナウ、4、小林、等と細かい文字で書きこまれており、その下に電話番号らしき数字が書かれていたりする。
「スナックかレストラン、一体何の店なのでしょう? 石井さん」
「由美さん」
 石井の呼びかけに、姉の部屋に入るのをためらっていた由美がおずおずと二人の傍に佇んだ。
「ドナウ、何かの店だと思うのですが、心当たりは有りませんか?」
「ドナウ? 存じませんわ」
 由美は首を傾げながら壁のポスターに視線を移した。
 由美の視線の先のボスターを見る石井と小早川、それはクラシックの指揮者の物だった。
「関係はないと思いますけれど」と、呟くように言う由美。書棚から1枚のレザーディスクを取り出し、プレイヤーにセットしてリモコンを操作した。
 モニターに映り、響き渡る華麗なワルツ。
 アンプの音量を絞った由美が二人に振り返った。
「カルロス・クライバー、ポスターの指揮者と同じ人ですわ。姉が大好きな指揮者で、世界一優雅と湛えられているカリスマ指揮者です。この曲も姉のお気に入りでしたわ」
「これ有名な曲ですね、何て言ったかなあ?」
 考えながら、小早川はモニターとポスターの指揮者、そして亡父の初老の男の遺影を交互に見詰めた。どこか雰囲気が似ていると思ったからだ。
「何というタイトルですか?」
 石井の問に、由美はゆっくりと、一音一音はっきりと発音して答えた。
「う・つ・く・し・く、あ・お・き、ド・ナ・ウ」


 翌四月七日夜、小早川はラブホテルドナウの前にいた。この薄汚れたラブホテルが加藤紗智子にとって美しく青きドナウだったとはとても信じられなかった。

 紗智子の日記には、去年の八月末から今年の三月二十八日までの事が詳しく記されていた。そして、三月二十九日七時ドナウ渡辺。四月七日七時ドナウ渡辺。と、予定らしきものが記されていた。紗智子の財布から発見された何枚かの名刺から渡辺の身元が確認出来、小早川がこうやって張り込んでいるので有る。

 中年のサラリーマンがドナウの方に歩いてくる。石井が数メートル後から続いていた。渡辺に違いない。紗智子が殺害されたと思われる二十九日の客だった男だ。現れた事は犯人ではない。と、小早川は見当をつけた。
 男がドナウに入ろうとするところ、遮るようにして立ちはだかる小早川、石井を始め数人の刑事が男の周りを固めた。
「渡辺さんですね」
 小早川が警察手帳を見せながら言うと、戸惑うように顔を顰めて立ち止まり、小さく頷いた。
「待ち合わせていた女性は現れませんよ」
 背後から呼びかける石井の声に振り返る渡辺、刑事たちに囲まれていると悟り、顔が疑惑と恐怖で凍り付いていた。
「な、なにか事件に巻き込まれたのですか」
「その通りです」
 石井と小早川が両脇から挟んで腕を取った。
「署まで同行願います。いいですね」
 何事かを覚悟した渡辺が青ざめた顔で小早川に頷いた。

 取調室では渡辺の正面に小早川が座り、石井は壁際で腕を組んで立っていた。
 小早川が加藤紗智子の写真を渡辺の前に置いた。
「この女性、ご存じですよね」
 写真を見詰める渡辺、小早川と石井を交互に伺い、首を振った。
「もっとよく、ちゃんと見て!」
 声を荒げる小早川にビクつく渡辺、身を乗り出すようにして写真を覗き込む。
「手にとっても良いですよ」
 柔らかな石井の言葉に、渡辺は写真を手に取ってしばらく見つめていた。
「あっ、も、もしかしたら」と、石井をの方にチラッと視線を走らせた。
「そうです、新聞やテレビで嫌というほど出ている女性ですよ」
 小早川が机を両手で叩いて中腰になった。
 怯えて小早川を見る渡辺。
「あんた、この殺された女性を知っている筈だ!」
 渡辺は青ざめた苦痛の顔で首を振った。
「本当に知らないのです」
「嘘をつけ! あんたが今夜待ち合わせていた女なんだよ!」
 興奮して今にも渡辺に掴みかかろうとする小早川の肩を掴んで落ち着かせる石井、渡辺の手から紗智子の写真を取り上げて机に置き、懐からある女性の似顔絵(円山町のマリア)を取り出してその横に置いた。
 小早川が気を静めてゆっくりと椅子に身を沈め、渡辺を見下ろしながら石井が言い放った。
「分かりませんか? 二人は同一人物です」
「エエーッ!」と、絶句した渡辺は、写真と似顔絵を交互に見詰めた。

 死体発見の昨日の午前中から今日の夕方まで、渋谷署と本庁の捜査員を大動員して円山町界隈の聞き取り調査をしたが、加藤紗智子の目撃談は一つも取れなかった。代わりに円山町のマリアと呼ばれる娼婦の目撃証言が山ほど出てきた。決め手になった目撃談は、東南アジア系と思われる三十位の男と、殺害当日夜十一頃寿荘101号室に入っていったというものだった。

 この時点、渡辺の事情聴取の時には、石井も小早川も渡辺が犯人だとは露とも思ってはいなかったが、マリアとの関わりを話させる必要が有った。特に、どこでどんな具合に知り合っていたか? マリアを加藤紗智子と少しでも認識していたかは、今後の捜査の展開に重要だったと思っていた。小早川が必要以上に威圧的になった理由はそこにあった。

 小早川の横に座った石井が穏やかな声で言った。
「三月二十九日、渡辺さんが退社してから自宅に帰るまでの事を話しては貰えませんか?」
「三月、二十九日?」と、考え込む渡辺、目が虚ろで落ち着きがなかった。
「先週の月曜日です」
「よく覚えていないのですが、たしか、たしか、新宿の居酒屋で飲んでいました」
「何という店です?」、問いただす小早川。
「初めての店で覚えていません」
「茶番はもうたくさんだ。あの日、あんたは七時にドナウで」と、マリアの似顔絵を示す小早川。
「このマリアと呼ばれる女性と待ち合わせていた」
 観念したように眼を瞑る渡辺、大きく深呼吸して目を開き、小早川の顔を見てしゃべりはじめた。

 八時半頃ドナウの前でマリアと別れた渡辺は、文化村の前からセンター街に向かい、和田屋という居酒屋で一時間位過ごした後、山手線で新宿、小田急線で町田、町田から徒歩十分程の自宅マンションに帰ったと言う。浮気の後、酒を飲むというのは渡辺の儀式のようなものらしい。アルコールの匂いが浮気の痕跡を消してくれると思い込んでいるようだ。エントランスで管理人と挨拶を交わし、自宅のドア前で隣の前田という老人とすれ違ったとも供述した。
 この供述の全てが警察当局によって確認が取られた事は言うまでもない。

 その後、渡辺は紗智子、いやマリアとの出会いを供述した。
 初めて会ったのは六本木の【ルージュ】というナイトクラブだった。ジャズ系のバンドと女性ボーカルの入った上品なクラブだったと言う。大手商事会社の部長だった渡辺はプライベートでも接待でもこのルージュをよく使っていた。
 去年の二月頃だったというからもう一年以上前になる。初見で渡辺は華やかな容姿を持ったマリアに惹かれた。ハーフではないかと思った。イタリア語でもフランス語でも理解しているようだったから外国人の接待にルージュを使い、マリアを指名した。二か月程ですっかり馴染みになり、同伴したりしているうちに肉体関係になったという。
 初めての情事の後、渡辺は財布を手にして万札を三枚数えて、まあこの位でいいかなと思っていると、マリアが美しい目を輝かせて見詰めていた。そして、微かに首を傾げて見せた。
 渡辺が万札を一枚追加すると、マリアは嬉しそうに微笑んでそれを受け取った。
「私は四万円の女、それ以下でも以上でもないの、そう、私は四万円の女なの」

渡辺の事情聴取の後、小早川は石井の車に同乗させて貰った。
「どうだ、久し振りに家で一杯、実はもう陽子には電話してある」
「いや、今夜は遠慮します」
「そうか、疲れているしな、それにしても最近やけに付き合いが悪くなったな。誰か待っているのかね」
「いいえ、ちょっと疲れているだけです」
「そうか、だが忘れるなよ、明日朝十時、合同捜査会議」
 石井は渋谷駅の前まで小早川を送ってれた。
 降り際に石井が声をかけてきた。
「場所は署じゃなくて本庁だとよ」
「エッ! 急に、ですか…」
「ああ、何かが動き出したのさ、明日はまた本庁の連中と大喧嘩! 今夜は良く寝ておけよ」

 駅に向かいながら、小早川はタバコをくわえたまま、火も付けずにしばらく思考に耽った。
 一体何が動きだしたというのだ!? 前にも何度か経験が有った。こんな時は必ず政治的な圧力が掛かっていた。T電力に大物を動かせる政治力があるのだろうか? そんな圧力が掛かってくるような大事件とはとても思えなかった。
 それとも・・・? スキャンダルと言えば加藤家が遥かにダメージが強い筈だ。明日は加藤家の背景をしらべ無くては。と思った。が、・・・
 小早川はその足で元同僚で現在本庁でキャリア組として出世街道を上っている吉溝健一を訪ねた。
 あらかじめ電話をしていたので、ベルを鳴らすと直ぐ吉溝が出てきた。

「まあ座れよ」
 吉溝の言葉で、小早川はソファーに軽く腰掛けた、もう深夜だし、長居をするつもりは更々無かったからだ。
「うちのはもう寝てるのでろくな物がないが、一杯やるか?」
「いや、すぐ帰るからいい。ちょっと気になる事があってね、お前なら少し知ってるかと思ってね」
「俺が?」
「俺はいまТ電力の女性が殺害された事件の担当をしているんだが」
「そうらしいな」
「その合同捜査会議が突然本庁に変わった」
「知ってるさ」
 顔を上げて吉溝を直視する小早川。
「あの事件は俺が指揮を執る」
「そうか」
 小早川は失望感に囚われた。吉溝本人が指揮を執る以上、背景にどんな圧力が掛かったかなど聴き出せる訳が無い。
 絶望を取り払おうと大きく深呼吸をする小早川に吉溝が声を描けた。
「悪いが力にはなれない」
「ああ、良くわかった。・・・だが、一つだけ、もし知っていたら教えて欲しい」
「話せる事なら構わん」
「殺された女性の加藤家というのはどういう家系なんだ?」
 少し考えてから吉溝は加藤家について話し始めた。

 加藤家というのは鎌足を始祖とする藤原一門で、幕末にはいち早く勤皇活動を始め、その功で権威を獲得したと云う。その後、軍部に取り入って巨大な軍需産業を築いた。
「紗智子の曽祖父に当たる加藤友也(ともや)というのが凄い男でね、日露戦争から昭和三十年代にかけて死の商人加藤財閥の全盛期を迎えたんだ。随分あくどい事をしたらしい、加藤財閥は朝鮮人と満州人の生血を絞りつくして肥え太ったのさ。加藤友也の凄いのは巨大産業の創始者としてじゃなくて、その後だな」
「後・・・?」
「ああ、真珠湾攻撃で日本中が浮かれあがっている時、突然全ての事業を人手に譲って帰国した。友也には見えていたんだよ、日本の敗戦がね」

 それからの友也は、日本が敗戦を迎えた時にも生き残れる政治家を全力で支援した。その甲斐があって終戦後は更なる権力を握った。
 友也の野望は一族から政治家、出来れば総理大臣を出す事だったが、一人息子の友一郎(ゆういちろう)には男子が出来なかった。そこで、長女の友恵に婿を迎える事にした。選ばれたのが東大を首席で卒業し、Т電力のホープと期待され出世街道を進んでいた御母衣幸太である。二人にも男子が出来ず、長女紗智子、次女由美子と生まれ、加藤家は完全に女系家族になった。
「殺された紗智子女史の母親友恵というのはね」と、横溝は説明を続けた。
「元タカラジェンヌだったのだけれど、加藤家の権威をもってしても主役を演じるスターにはなれなかった。容姿は申し分無かったが、・・・」
 小早川は現場で見た友恵の華やかな容姿を頭に蘇らせた。
「致命的な欠陥が有った。音痴だったのだよ。まあ、話せるのはこんな所までだな、どうせ調べれば分かる事だけどね」
「悪かったな、こんな夜分に押し掛けてしまって」
「構わんさ、時が時だからね」
「そろそろ帰る、本当に悪かった」
「そうだな、明日も忙しいぞ」
 立ち上がる小早川を見上げて吉溝が言った。
「真、お前に残された時間はせいぜい二三日しか無い」
「どういう意味だ?」
「それは言えん。直ぐに分かるさ」



 合同捜査会議では次の事が報告確認された。

○ 紗智子の死因は頸部圧迫による窒息。顔の打撲は生前に負った物。
○ 死亡推定時間は当日二十三時五十分ら前後三十分。
○ 容疑者は当日二十三時頃、寿荘に入るのが目撃された東南アジア系の男。容疑は強盗、強姦、殺害、死体遺棄。
○ 現場で採取された精液と陰毛のDNAは一致しており、容疑者のもので有れば事件は解決。

小早川も石井も言いたいことが山ほどあったが、あえて沈黙を通した。

会議の後、小さな会議室を借りて二人は今後の方針を話し合った。
「DNAは、他にも見付かっている筈ですよね。石井さん、なぜ隠そうとするんでしょう?」
「都合が悪いのだろう、何が何でも寿荘にマリアと入っていった男を犯人にするつもりなのさ」
「なぜでしょう? 俺には真犯人、それも意外な人物がいるような気がします」
「刑事の直感だな。俺もそう思うが、今は現容疑者を探し出すのが先決だ」
「ええ、本庁の鼻を明かしてやりましょう!」

 二人は、署の総力を挙げて容疑者を捜索した。
 意外な程の速さで容疑者を特定出来た。ネパール人のネスタという男で、寿荘と一分も離れていないアパートでネパール人三人と同居していたが、事件が報道されると直ぐに全員姿を眩ました。
 潜伏先が見付かったので、石井と小早川は捜査会議の翌日の夜現場に急行した。

 石井が着替えの為に家に帰ると、妻の陽子が起きてきた。
「雅子は?」
「寝てるに決まってるじゃない」
「そうだな。今夜は徹夜で張り込みになる」
 眠気眼を擦りながら陽子が言った。
「小早川さんも一緒?」
 着替えながら石井が答えた。
「ああ」
「離れる事ないのね。いつも一緒」
「相棒だから仕方が無い。奴は俺が一人前の刑事に仕込んだ」
「なんだか少しうらやましいわ」と、意味ありげな微笑を浮かべて陽子は石井の着替えを手伝う事なく、台所の方に消えた。

 着替えを終えた石井が玄関で靴を履いていると、陽子が出てきた。
「急だったから、たいしたものが作れなかったけど」と、レジ袋に入った夜食を石井に渡した。
「わるいな。有難う」

 ネパール人の潜伏先は所沢郊外の寂れた二階建て木造アパート一階の角にあった。
 石井はその部屋が良く見える所で車を停めた。
 張りこんでいた刑事が直ぐ寄ってきて、車窓を開けた石井に報告した。
「いま三人はいますが、肝心のネスタがまだ現れません」
「仕方が無い。待とう。俺たちは車で待機しているから交代で見張るように」
 一時間ほど待ってもネスタは現れなかった。小早川が腕時計を確認すると、もうすぐ十二時になろうとしている。
「腹が減ったな、腹ごしらえでもするか」
「ええ」
 袋の中から大きな弁当箱を取り出して開ける石井。中には大きめのお握りが四つと玉子焼きが入っていた。
 石井は小早川にお茶のペットボトルを渡すとお握りを頬張った。
「いただきます」と、小早川もお握りを一つ手に取った。それは海苔の代わりにとろろ昆布でまいた三角握りで、一口食べると、直ぐに鰹節の香が口中に広がった。懐かしい味だった。
 小早川の脳裏に、丁度四年前の春、同じお握りを食べた事が浮かんだ。

 小早川のマンションで、朝、石井の細君陽子が作ってくれものだった。
 二人はその二ヶ月程前から不倫関係に陥っていた。
 石井が警察病院に骨折で入院した時、看護婦だった陽子を見初めて猛アタックをかけて強引に口説き落として結婚に漕ぎ着けた。
 結婚式当日、小早川は初めて陽子を見た。彼女は、いかにも看護婦らしい清楚な美しさを持っており、純白のウエディングドレスが良く似合っていた。こんな素敵な女性を妻に持てる石井が羨ましかった。元ラガーマンだった石井のアタックは強烈だったに違いない。
 小早川は新郎に視線を移した。ガラにも無く緊張した面持ちの石井、その腰が浮ついている。プロポーズにはどんな事をいったのだろう? 今度聞き出してやろう。そんな事をぼんやりと考えていると、新婦の熱い視線に気が付いた。切れ長の目を一杯に見開いて小早川を見詰めていた。
 うろたえて顔を伏せる小早川、運命とはなんと残酷で悲哀に満ちているのだろうか、二人はお互いに惹かれあってしまった。
 尊敬する石井のその結婚式当日に新婦陽子と小早川は恋に陥ってしまったのだ。
 より積極的だったのは陽子の方だった。小早川は恩人とも言える石井を裏切るに忍びず悩みぬいた。が、どうする事も出来なかった。夫石井の事で相談に乗って欲しい、という陽子の言葉につい乗っかってしまった。
 一緒になってみると、以外に神経が細かいとか、のんき過ぎるとか、一回り年が離れていたのでまるで子供扱いするとか、具にも付かない愚痴だった。小早川はたいてい生返事をしていた。
「石井さんは正義感が強い人で、悪を憎んでいるんです。その代わり何かに注ぐ愛情と熱意は暑いんです」などとも言ったりした、慰めているつもりだった。
 禁断の恋故に炎は激しく燃え上がった。何度か合ううちに、自然と肉体関係になってしまった。
 こんな事は許されない、止めなくては、と悩む小早川、対して陽子に迷いは無かった、そのくせ石井と別れるなどということはけっしておくびにも出さなかった。石井の妻という立場と、その部下小早川の愛人という立場、その二つを交互に口に運ぶご飯とおかづのように愉しんでいるようだった。
 ある夜の事、いつものように小早川が避妊具を装着しようとしていると、
「いや! 今夜はつけないで、お願い、安全日だから大丈夫」
 結局陽子の言いなりのまま体を重ねた。
 その夜の陽子は、常にもまして激しく燃え、悶え、喘いだ。
 耐える事が出来ずに、小早川がその気を発すると、意外なほど冷静な声で陽子が言った。
「だめ、すこしだけ堪えて」
 陽子は腰を上げて密着度を高め、絡めた両足に精一杯力を込めた。
「いいわ、来て、お願い、早く来て!」
 小早川は陽子の望むままに噴出した。
 陽子の膣が激しく収縮した。まるで精子の一粒たりとも逃さないという気持ちが篭っているようだった。
 小早川が激しく息を付き、陽子から離れる気配を示すと。
「しばらくそのままでいて」
 陽子が小早川の唇を激しく求めてきた。
 二人の口と舌は、禁断の恋を武者振り尽くすまで、激しく情熱的なまで求め合った。
 その夜限り、小早川は陽子と二人きりで会うのを避けた。会えば二度と後戻りなど出来ない。彼の決意は固かった。
 一年も経たずに石井家に女の子が生まれ、雅子と名付けられた。石井は妻と娘を溺愛し、二人の写真を肌身離さずに持ち歩いていた。

 その石井が運転席のシートを倒して眠っていた。軽い鼾をかいている。
 石井さんは陽子との事を少しも疑ってはいないのだろうか? 生まれた娘の父親が石井なのか、自分なのか判らない。何度か確かめようとしたが、陽子は何も答えて呉れなかった。
 空が白み始めた、もう直ぐ夜が明けるというのに、肝心のネスタの姿は現れない。
 運転席の石井が起き上がった。
「ああ、良く眠った。交代だ、コバお前も少し寝ろ」
「はい」
 小早川はシートを倒して目を瞑った。不思議な微笑を湛えた陽子の顔、可愛い盛りの娘雅子のあどけない顔、そして二人を自慢する石井の顔とが交互に浮かんでは消え、いつの間にか眠りに入っていった。
「コバ、起きろ、現れたぞ」
 石井の言葉で身を起こす小早川。前方のアパートの角部屋に一人の男が入っていく。腕時計を確認すると、八時半を回っていた。
「行くぞ」
「はい」
 二人が車から降りると同時に何台かの車が現れて周りを取り囲んだ。
 一台の車から吉溝が現れ、近付きながら言った。
「悪いが石井さん、これから先は我々に任せて貰うよ」
「ふざけるな! やっと追い詰めたんだ」
「会議の時に言った筈だ、覚えていないのか? どんな些細なことでも報告をするようにってね」
 署内の誰かが怪しい、と小早川は思った。誰だろう?
「石井さんと小早川君には署に帰って貰う。署長が待っていて二人に新しい任務が与えられる」
 悔しい! 込み上げてくる怒りを通り越した絶望が石井と小早川を包み込んだ。

 署に帰ると署長が待っていて、石井がまず呼ばれた。
 五分も経たない内に憮然とした様子で石井が出てきた。
「石井さん」
「俺は博多だとさ、今度はお前だ」

 室に入っていくと、署長はソファーに座って待っていた。
「まあ座れ」
「いいです此の侭でお聞きします」
「そうか」
 署長は小早川を見る事無く言い放った。
「小早川真、君には函館に言ってもらう」
「転属命令、・・・というわけですね。拒めばどうなりますか?」
「わかりきった事を聞くな」
 署長はチラッと小早川を見上げて直ぐ視線を反らした。
「刑事でいられなくなるだけだ」
「俺は刑事が天職だと思っています。他の仕事など考えられません、函館だろうが地の果てだろうが、行きます」
「すまん。私だって悔しいんだ。必ず二三年で呼び戻すから我慢してくれ」
 無言のまま署長の話を聞いている小早川。二三年で復帰できるなどとは露とも思っていなかった。半永久的に地方を転々とさせられるに決まっているのだ。
「だが、判らんものだな。石井にはお前を博多に連れて行っても良いと言ったのだが,きっぱりと言い切った。一人で行くとな。お前たち何かあったのか?」
 その言葉を聴いた小早川の全身に衝撃と旋律が走った。
 石井さんは気が付いていた。
2016/11/24 Gorou