私が予想した通り、菜食主義者とは今はまだ平行線を辿るようだ。それが当然の流れであろう。何かを主張するということは闘争を生む。それが世の流れだ。そういう意味で『議論』ではなく緩やかな『談話』が必要だと私は以前ここで書いた。その反応を制御しきれないという意味で『未推敲』とした。(良いチャンスなので、ベジタリアンに詳しくない人は『日本ベジタリアン協会』、『ハラルフード・菜食主義とベジタリアン』辺りを読んでみるといいだろう。私は記事を書くに辺り、何も知らないのに書くのは避けねばならぬので、このホームページに記述されている内容を参考にさせていただいた。私は宮沢賢治の立場が気に入った。)
さらに反感を呼ぶかもしれないが、もう少し深く書いてみることにしよう。前回は食料問題を危惧して書いた。今回はこの生命の在り方を危惧して書くことにしよう。言い争うつもりは毛頭無い。それだけは言っておくが。
人間以外の動物を良く見て欲しい。『DEEP BLUE』なんて映画でも良いだろう。我々動物の生命は、他の生命の犠牲に依存して成り立っているのだ。そもそものこの世界の根源に捕食関係というもの存在しているのだ。鯨は1日に体重の4%の魚を食べると言う。20トンの中型の鯨は1日に1トン弱の魚の生命を奪う。
そもそも植物に生命が無い、植物を食べることが『殺していない』ということ自体、人間のエゴに過ぎないのではないか。『もの言わぬ優しき存在』である植物達の生命の恩恵を受けて、我々は生きている。かれらは『無抵抗主義者』であるだけだ。動物は我々に似ているというだけだ。そして植物をある意味で守る農薬はたくさんの生命を殺している。無農薬野菜を食べれば良いというかもしれないが、無農薬野菜の中に『減農薬野菜』が紛れ込んでいる。経済というものはそういうものだからだ。
命の尊さは知っているつもりだ。ただ生きている以上、蟻は踏み潰してしまうし、洗剤等の化学薬品を使用している以上、目に見えないプランクトン等の生命を奪い続けている。大きな動物を殺していないだけで、私は小さな生命を一日に数万も殺し続けているのかもしれない。私の体内は言わば神の作った水槽のようなもので、小さな生命が渦巻く宇宙であり、彼らの生命の犠牲によって我々は成り立っている。そこでは数多くの生命が私の都合により、魂を奪われる。
それらに鈍感にならなければ、私はおそらく発狂してしまうことだろう。他の動植物を殺さないために、我々人類がとることのできる道は滅亡のみだ。この世界の多くの動植物を、古くは恐竜から絶滅させてしまったのは我々人間だ。そして、人類の滅亡後にこの地球に現れた知的生命体は同じように『他の動物を殺したくない』と思うのだろうか。
私は動物を植物を、そしてこの地球を友達だと考えている。ただその付き合い方に関しては『神様が教えてくれない大いなる原理』に到達できていない私にはまだ答えを出し切れない。
もう一度言っておこう。植物の静かなる優しき魂を奪うこと、蟻や蚊や小さな見えなき尊き魂を奪うということと、人間や牛や豚、鯨等の大きな魂を奪うというのは、この世の平等から言えば等価だ。仏教や他の宗教でもそういったテーマの寓話がたくさん存在している。『小さな花にも生命がある、人間よ、おこがましくなるな』と言っている。そして植物に魂があることを否定したくない。そういう意味では菜食主義はまだまだ不完全な主義であるとしか、私は思えないのである。
私がこのような記事を書いたのは『他の生命を殺して生きていかねばならぬのは何故か』という疑問を常に持っているからだ。そして植物・動物およびその一部である人間、その関係についての明確な答えを求めているのだ。そういう意味では菜食主義者と同様の問題意識を抱えているのだ。
できることから始める。それは重要なことだ。そういう意味では菜食主義者という道から進んでいく方を私は否定しない。何も考えない人々よりはずっとましだ。問題意識を持って行動する、それは素晴らしいことなのだから。
ただ考えをやめて欲しくない。この世の中は簡単な原理ですぐに動きを止めてしまう。どんなことでもそうだが、答えはもっと先にあるのだ。
そしてその真理に到達するのは、とてもとても長い年月と熟慮が必要となることなのだ。
人間が歴史の中で肉を食べるようになったという歴史を。それを否定するためには同じくらい長い歴史が必要となることを。そもそも我々は動物であり、植物も生命であるということを。生きている限り、何かを殺し続けねばならぬ我々の業を。私は否定することはできない。
欲深い魂との闘争。それこそが人間の人生に課せられたある種の罰なのだ。
人間は熟慮の末、答えに辿り付けるのか?それすら分からぬ深い命題である。1つの宗教、または1つの主義だけでは到底答えに辿りつけない、そういうものなのだと私は考えている。そういう意味では成す術の無い話題では無いかとも私は感じている。
よって、争うつもり等、毛頭無い。私はダイバーだ。自然を愛し、自然を守る者だ。この世界から自然が失われていくことを危惧しているものだ。菜食主義者とは相容れないかもしれないが、敵対関係になるものでもない。敵は他にいるのだから。得てして主義主張の無いアナーキストこそ、きっと最後に戦わねばならぬ相手だ。
肉が美味いから食うというのはあまり本題ではないところを主張しすぎた。そこは反省する。野菜も美味い。トマトが大好きだ。はっきり言って肉無しでも生きていける。
そして最後に問おう。『他の生命を殺さない生き方』とは。鯨の親戚である私は、その答えが『肉を食べないこと』だとは到底思えないのである。彼らの生き方を否定できないように、我々の生き方も、そしてこれからの在り方も、きっと否定できないのだ。
生命の在り方について、我々人類が長い年月をかけて到達できた真実は『生きるということは他の生命を犠牲にすること』ということだけだ。だからどうすればいいのかというのはまだまだ未熟なる我々には結論を出し切れない命題だ。
人類はおそらくいつかこの命題を克服する。だがしかし、それは『克服』であり、『否定』では無いのだ。あるがままを受け入れ、全てを飲み込み、その先の段階へと進む。菜食主義もその他の主義・主張もいつか辿りつく真理の一部を成すに過ぎない。世界の賢者が菜食主義者となったのは、『そうすることにした』からである。ただそれは『始まりに過ぎない』ことを彼らはきっと知っていたように思う。
菜食主義者と私はその進歩、いや進化のために手を取り合って進んでいる。お互い平行線を辿りながらも。私はそう信じる。だからこそ、私の持っている命題をここに記しておこう。仏教徒・キリスト教徒・イスラム教徒・学者・詩人・菜食主義者・考える葦・名も無き賢者達、その答えをいつか誰かが見つけることを祈って。
『人類の滅亡』という名以外の、素晴らしい『答え』を。我々人類の『本懐』を。
追伸:『』される生き物を見ると、怒りすら覚えるのは真実だ。『』されるために産まれてくる魂を気の毒に思う。そこには生命の尊厳が感じられないからだ。ただし、『DEEP BLUE』というドキュメンタリー映画の中で、シャチが子鯨を狙って襲い、おいしい下顎だけを食べて後は残すシーン等を見ていると、何が正しいことなのかがわからなくなる。そこには生命の尊厳は無い。あるのは『自然』だけだ。人間は『迷う』という罰を与えられた『罪深き生命』なのだろうか。知性とは自然に抗うことなのか。私も自然の一部であるのに。答えはまだまだ遠い、しかし、進み続けることは大事だ。我々はそうするしかないのだから。
さらに反感を呼ぶかもしれないが、もう少し深く書いてみることにしよう。前回は食料問題を危惧して書いた。今回はこの生命の在り方を危惧して書くことにしよう。言い争うつもりは毛頭無い。それだけは言っておくが。
人間以外の動物を良く見て欲しい。『DEEP BLUE』なんて映画でも良いだろう。我々動物の生命は、他の生命の犠牲に依存して成り立っているのだ。そもそものこの世界の根源に捕食関係というもの存在しているのだ。鯨は1日に体重の4%の魚を食べると言う。20トンの中型の鯨は1日に1トン弱の魚の生命を奪う。
そもそも植物に生命が無い、植物を食べることが『殺していない』ということ自体、人間のエゴに過ぎないのではないか。『もの言わぬ優しき存在』である植物達の生命の恩恵を受けて、我々は生きている。かれらは『無抵抗主義者』であるだけだ。動物は我々に似ているというだけだ。そして植物をある意味で守る農薬はたくさんの生命を殺している。無農薬野菜を食べれば良いというかもしれないが、無農薬野菜の中に『減農薬野菜』が紛れ込んでいる。経済というものはそういうものだからだ。
命の尊さは知っているつもりだ。ただ生きている以上、蟻は踏み潰してしまうし、洗剤等の化学薬品を使用している以上、目に見えないプランクトン等の生命を奪い続けている。大きな動物を殺していないだけで、私は小さな生命を一日に数万も殺し続けているのかもしれない。私の体内は言わば神の作った水槽のようなもので、小さな生命が渦巻く宇宙であり、彼らの生命の犠牲によって我々は成り立っている。そこでは数多くの生命が私の都合により、魂を奪われる。
それらに鈍感にならなければ、私はおそらく発狂してしまうことだろう。他の動植物を殺さないために、我々人類がとることのできる道は滅亡のみだ。この世界の多くの動植物を、古くは恐竜から絶滅させてしまったのは我々人間だ。そして、人類の滅亡後にこの地球に現れた知的生命体は同じように『他の動物を殺したくない』と思うのだろうか。
私は動物を植物を、そしてこの地球を友達だと考えている。ただその付き合い方に関しては『神様が教えてくれない大いなる原理』に到達できていない私にはまだ答えを出し切れない。
もう一度言っておこう。植物の静かなる優しき魂を奪うこと、蟻や蚊や小さな見えなき尊き魂を奪うということと、人間や牛や豚、鯨等の大きな魂を奪うというのは、この世の平等から言えば等価だ。仏教や他の宗教でもそういったテーマの寓話がたくさん存在している。『小さな花にも生命がある、人間よ、おこがましくなるな』と言っている。そして植物に魂があることを否定したくない。そういう意味では菜食主義はまだまだ不完全な主義であるとしか、私は思えないのである。
私がこのような記事を書いたのは『他の生命を殺して生きていかねばならぬのは何故か』という疑問を常に持っているからだ。そして植物・動物およびその一部である人間、その関係についての明確な答えを求めているのだ。そういう意味では菜食主義者と同様の問題意識を抱えているのだ。
できることから始める。それは重要なことだ。そういう意味では菜食主義者という道から進んでいく方を私は否定しない。何も考えない人々よりはずっとましだ。問題意識を持って行動する、それは素晴らしいことなのだから。
ただ考えをやめて欲しくない。この世の中は簡単な原理ですぐに動きを止めてしまう。どんなことでもそうだが、答えはもっと先にあるのだ。
そしてその真理に到達するのは、とてもとても長い年月と熟慮が必要となることなのだ。
人間が歴史の中で肉を食べるようになったという歴史を。それを否定するためには同じくらい長い歴史が必要となることを。そもそも我々は動物であり、植物も生命であるということを。生きている限り、何かを殺し続けねばならぬ我々の業を。私は否定することはできない。
欲深い魂との闘争。それこそが人間の人生に課せられたある種の罰なのだ。
人間は熟慮の末、答えに辿り付けるのか?それすら分からぬ深い命題である。1つの宗教、または1つの主義だけでは到底答えに辿りつけない、そういうものなのだと私は考えている。そういう意味では成す術の無い話題では無いかとも私は感じている。
よって、争うつもり等、毛頭無い。私はダイバーだ。自然を愛し、自然を守る者だ。この世界から自然が失われていくことを危惧しているものだ。菜食主義者とは相容れないかもしれないが、敵対関係になるものでもない。敵は他にいるのだから。得てして主義主張の無いアナーキストこそ、きっと最後に戦わねばならぬ相手だ。
肉が美味いから食うというのはあまり本題ではないところを主張しすぎた。そこは反省する。野菜も美味い。トマトが大好きだ。はっきり言って肉無しでも生きていける。
そして最後に問おう。『他の生命を殺さない生き方』とは。鯨の親戚である私は、その答えが『肉を食べないこと』だとは到底思えないのである。彼らの生き方を否定できないように、我々の生き方も、そしてこれからの在り方も、きっと否定できないのだ。
生命の在り方について、我々人類が長い年月をかけて到達できた真実は『生きるということは他の生命を犠牲にすること』ということだけだ。だからどうすればいいのかというのはまだまだ未熟なる我々には結論を出し切れない命題だ。
人類はおそらくいつかこの命題を克服する。だがしかし、それは『克服』であり、『否定』では無いのだ。あるがままを受け入れ、全てを飲み込み、その先の段階へと進む。菜食主義もその他の主義・主張もいつか辿りつく真理の一部を成すに過ぎない。世界の賢者が菜食主義者となったのは、『そうすることにした』からである。ただそれは『始まりに過ぎない』ことを彼らはきっと知っていたように思う。
菜食主義者と私はその進歩、いや進化のために手を取り合って進んでいる。お互い平行線を辿りながらも。私はそう信じる。だからこそ、私の持っている命題をここに記しておこう。仏教徒・キリスト教徒・イスラム教徒・学者・詩人・菜食主義者・考える葦・名も無き賢者達、その答えをいつか誰かが見つけることを祈って。
『人類の滅亡』という名以外の、素晴らしい『答え』を。我々人類の『本懐』を。
追伸:『』される生き物を見ると、怒りすら覚えるのは真実だ。『』されるために産まれてくる魂を気の毒に思う。そこには生命の尊厳が感じられないからだ。ただし、『DEEP BLUE』というドキュメンタリー映画の中で、シャチが子鯨を狙って襲い、おいしい下顎だけを食べて後は残すシーン等を見ていると、何が正しいことなのかがわからなくなる。そこには生命の尊厳は無い。あるのは『自然』だけだ。人間は『迷う』という罰を与えられた『罪深き生命』なのだろうか。知性とは自然に抗うことなのか。私も自然の一部であるのに。答えはまだまだ遠い、しかし、進み続けることは大事だ。我々はそうするしかないのだから。