音速の葦

人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である・・・

2004-07-31 12:30:18 | 人生について
我々は『何を食べているのか』を知らなくてはいけない。『アジのたたき』を食べるのであれば、せめてアジがどんな形をしているのかを知らなければならない。そして自分が親であるならば、子供たちにそれを教えねばならない。

それを知るからこそ、食事の前に『手を合わせねばならぬこと』を理解できるのである。彼らに感謝する気持ちを持つことができるのである。

キリスト教のように、神に感謝するよりも、私は私の糧になってくれる生きもの達に感謝したい。

いつのまにかコンビニエンスな世の中で、大事なことをわすれがちになる。反省しよう。

愛ノウタ

2004-07-31 12:18:00 | 人生について
できることならば、今、身近にいる人全てが幸せであればいい。それこそが私の幸せに続くということを知っているからだ。

恋の駆け引きなどは面倒だ。嫌われるのはまっぴらだ。愛する人を疑い、日々悲しみにつつまれるのはまっぴらだ。

病気で床に伏せるのも、身近な誰かが伏せるのもまっぴらだ。そして病気に負けて、弱い心になるのが嫌だ。

人を憎むのもまっぴらだ。先祖から続く怨恨に巻き込まれ、ただ戦争に行くために産まれてくるのは最低だ。

ただゆったりとした愛につつまれ、平穏な日々を過ごし、人を信用し、静かにこの人生を終える。それが私の望みだ。

だから。私は。

信用できる愛する人を得よう。

ひたすらな延命措置はやめ、私の死を死のう。

過去からの怨恨等、忘れるよう努力し、未来に怨恨を残さないようにしよう。

人から愛されるよう努力しよう。そして人を愛せるよう努力しよう。

精神の隙間にあるわずかなクレパスに足を滑らせて、くだらないことを『俺はこうするしかない』と言い聞かせながら生きるのはやめ、全てを捨て、新しい生き方を選ぶだけの勇気を持とう。

そしてできることならば、身の周りの人を幸せにできる、それくらいの余裕をもって生きよう。

これが私のこの世界に対する、愛ノウタ。

立派な大人になりたい

2004-07-04 23:54:53 | 人生について
 立派な大人になりたかった。

 28歳と言えば、世間的には立派な大人だ。私は現在立派な大人になれているのだろうか。立派な大人になるためには、立派な大人のことを知らねばならぬ。ここに自分なりにまとめておくことにしよう。

一つ、立派な大人は他人の悪口を言わない。何か他人を悪く言わねばならぬときは正義にもとづいていなければならない。

一つ、立派な大人は女と子供を大事にする。決して泣かせたりせず、常に尊敬されるべき行動を心がけなければならない。

一つ、立派な大人は自己中心的ではいけない。常に周りに気を配らなければならない。何か問題が発生した時には自分にも原因があるということを知り、受け入れること。

一つ、立派な大人は外国人を相手にする時も、決して物怖じしたりしない。日本について語れねばならない。即ち、英語くらいはたしなむこと。

一つ、立派な大人は人の役に立つことができなければならない。即ち、人の役に立つ技術を身につけていなければならない。

一つ、立派な大人は深い知識を持ち、おしつけがましい気持ちでなく、その知識を必要とする人に分け与えねばならない。

一つ、立派な大人は人から信頼され、人から頼られねばならない。そしてそのことに誇りを持つこと。

一つ、立派な大人は愛の意味を知り、愛する者を傷つけたり、失望させてはならない。

一つ、立派な大人は愛するものを守るだけの力を持たねばならない。高校生と喧嘩しても勝てる程度の力と気合を忘れてはいけない。(限界はある)

一つ、立派な大人は常に魅力的でなければならない(外見的なことのみではない)。

 どうやら、私もまだまだ『立派な大人』ではないようだ。少しずつ、なりたい自分に近づけるよう、努力することをここで約束する。

癒しの国

2004-07-04 22:33:37 | 人生について
 最近、言葉自体は使い古された感があるが、『癒し』というフレーズ自体はまだまだ目にすることが多い。

 『癒しを求めること』とはすなわち、裏を返せばこの国が『疲れきっていること』を示している。この国の国民が『癒しを求め続けている』限り、この国はまだ『安らかな平穏』を手に入れている、豊かな国ではないということを意味しているのであろう。そもそも遠い昔、我々には癒しなど不要だったはずなのだ。

 インドには『癒し』という言葉があるのだろうか。ノルウェーの人々は『癒し』特集の番組を見るのだろうか。アメリカ人はバケーションという言葉が好きだが、我々日本人のように癒しを求めて旅をするのだろうか。

 24時間営業のコンビニ。24時間放送を続けるテレビ局。24時間停止しないコンピュータシステム。便利であるということが悪いことだとは思わない。ただ、その裏にはそれを維持するだけの人の力が必要となり、我々は夜のうちも求めれば得られるものを意識しなければならない。そしてどんどんこの国は不眠不休のシステムへと変貌を遂げていくのであろう。

 そして我々は今後さらに癒しを求めることになるだろう。癒しを求めねばならぬそもそもの原因は、静かで平穏な『癒しの夜』が高度成長の中でその必要性も含め、失われてしまっているからであろう。がんばれ、がんばれだけで生きていけるほど我々は強くない。日々休息が必要なのだ。テレビをつけても何もやっておらず、店は閉まり、あとは寝るだけしかない-そんな時間が我々にはきっと必要なのだ。

 いつの日か、我々が人工太陽を打ち上げられるだけの科学技術を手に入れたとしたら、我々はそれを打ち上げるのだろうか。不眠不休のシステムの中で、いつでも手に入る何かを意識しつつ、いつまでも沈まない太陽を眺めながら。ビーチで『癒し』の時間を過ごす。そんな馬鹿げた時代が来ないことをここに強く望む。