音速の葦

人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である・・・

元日や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし(改版)

2005-01-13 02:00:29 | 人生について
 さて。2005年。

 タイトルの句は一休禅師が詠んだ(と言われている)句であるが、まあ、意味は読んだらわかるだろうが、『正月ってのは死へのカウントダウンの目印である』とでも読めば正しいだろうか。とにかく真意はともあれ、人生の理(ことわり)を詠んだ句である。

 2004年の私はと言えば、文章を読めばだいたいわかるであろうが、『迷い』や『惑い』と言った中で手探りに進んだ一年であった。ネガティブだと言われようと、昨年は反省しなければならない年であったことは否定せざるを得ない。心の葛藤はいつしか焦燥へと変わり、そしてこれらの感情はひとつの怒りとなったように感じる。

 清水寺で昨年末、今年を象徴する漢字を決めようという催しがあり、『災』という漢字が選ばれたそうだが、私が選ぶのであれば間違いなく、『怒』という漢字こそが昨年の私を象徴するものとなるだろう。

 わかっていながらそうなってしまう人がいる。そういう人々をこの世界は『愚かである』とみなすのであるが、まさに『迷い』や『惑い』から怒りに転じてしまう行為は本当に愚かなやり方である。

 昔、どこかで不幸な人間は多くの場合、自ずから不幸になるようにふるまっていると書いたことがあるが、まさにその通りで、『迷い』や『惑い』の中で『怒り』を感じたとしても、実はその怒りの対象は自分であるので、結論から言えば、誰かのせいか世の中のせいにして責任転嫁をするか、もしくは自分自身を責めるかのいずれかしか方法はない。

 そして、以上のどちらの方法であっても、その怒りを抑えることはできない。

 昨年の私はそんなことをわかっていたにも関わらず、世の中のせいにも、自分のせいにも、うまくできなかった。そして理不尽な怒りの中で疑問を感じ続けるしかなかった。そして結果として、何も打破できなかった。そんな一年だったように思う。

 そんなものが人生だと言われればそうなのかもしれないが、やはりこんな状態でいつまでもいるわけにはいかない。幾ら現実が厳しかろうと、逆境に耐えそして現状を打破する、そんなのが人間賛歌なのであろう。

 ここで、私は今年の自身を象徴する漢字が『啓』になることを公言したい。『啓』とはすなわち『啓発』や『啓蒙』等で意味されるように、とにかく『何かをひらく』ことを意味する。誰かをひらき、己をひらく。あくまでも冷静なやり方で、そして真実に近いやり方で。どっかの宗教みたいに安易な超常現象を真実とするのではなく。目をひらき、頭をひらき、そして心をひらく。

 具体的なことはまだ考えの途中にあるが、おそらく昨年理不尽なネガティブループにはまってしまった怒りを『正しいやり方で』出せればいいのだろう。

 歴史をかえりみるに、多くの先人は『迷』⇒『怒』⇒『悟』と進み、そして人間・生命としての心の平穏もしくは辛くとも意義のある人生を勝ち得たのだと思う。

 そういった意味においては、昨年は私にとっての一つの重要な期間だったと考えることもできる。

 産まれてきたこの人生で何を成すか、暇つぶしに人生が食いつぶされるのを恐れて。その答えが見つかる日まで。音速の葦は決して考えることをやめない。

 これをもって一年の計とさせていただく。