音速の葦

人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である・・・

リチャード・バックの言葉

2004-09-23 03:11:28 | 人生について
 「人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールド(現実の、悪意に満ちた世界)なわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて(※)、おまえはその三十億プラス一の余り者にすぎない、おまえのことなんか誰も関心をもっていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ。

 どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。

 もちろん、ドラゴン・ワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんていうわずらいもある。それはしようがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけは歌い続けるわけだ。」

※2004年現在、65億人弱。人口はすでにリチャード・バックの活躍した1970年代の2倍になりかけている

絶海の孤島

2004-09-23 00:05:46 | 人生について
フリーなディスカッションは正しい答えへの道なので歓迎であるが、流石に防戦一方だと疲れてきた。どうして話しているうちに『肉を食わない正義』と『肉を食う悪』という形になってしまうのだろう。私が『肉を食う大悪党』の一味なので、民衆に石を投げつけられている、そんな気分になってきた。善悪はそんなに簡単なことだろうか?何か戦争の始まりの縮図を見ているようで虚しい気持ちになる。菜食主義者には肉を食う親友もいるだろうに。

援軍頼む、というところだが、どうやらこのテーマは話せば話すほど石を強く投げ合うだけになりそうなので、このホームページではもうしないようにする。2chみたいに荒れる予感もするので。停戦交渉というところか。アドレナリンが噴き出て疲れるのと、更新に2時間もかかるのも大きな理由だ。

議論の欠点であると思うが、表現を変な風にとられて私のスタンスが危うくなっているのでスタンスをはっきりさせる意味で色々質問されている(であろう)ことに対して、私なりの考えを答えて終わりにしておこう。それでも反感を買うのであれば、今の段階では仕方がないのであろう。そう思おう。

Q1. (彼らが菜食をするのは)『家畜を殺すのはかわいそうだから』では無い(公称としては)。と書いたのは何故ですか。
⇒あくまでNPO法人ベジタリアン協会を見た印象です。ただ組織としての建前というやつかもしれないと思い『公称』としました。

Q2. ベジタリアンに敵意を持っていますか。
⇒言い争うべき対象では無いと思っています。ただし、私は肉を食べるので、仲間にはなれません。お互いの主義・主張を尊重しあえれば友達にはなれると思います。ただし、生きものが大好きなので、菜食主義になる要素も持っています。ただ、それは今ではありません。『菜食主義が正義だ』と言われると完全な同意はできません。『菜食主義は世の中を良くする可能性の一つだ』か『菜食主義は健康に良い』、『菜食主義は生きものをあまり殺さずに済むから素敵だ』であれば賛成できます。

Q3. 他の生命を奪って、自分の生命をつながねばならないのなら、その殺生を最小限にとどめたいと思いませんか。
⇒思います。必要以上に殺した経験も無ければ殺したいと思ったこともありません。ただ、大自然の営みの中に我々人間もあると考えているので、他の動物を食べることに関しては自然の一部なので、人間の一部だと考えています(今のところ)。日々手をあわせ感謝して生きることが大事だと思っています。

Q4. ご自分で動物を殺して食べることができないのであれば、それはなぜなのかを考えてくださいませんか?。
⇒釣りをするので魚を自分で絞めています。海老や貝など生きていれば自分で絞めます。牛や豚等は流通の関係ですることはありませんが、当番制になれば責任を持ってやります。食うということは殺すということを決して忘れないようにするためにも責任を持ってやります。食べるというのは殺すことなのに、それを自分でまったくしないということはずるいことだと思っています。

Q5. は悪だと思いませんか。
⇒今は思いません。悪では無く、悲しいことだとは思います。家畜には大自然を生き延びる力もありません。そういう生きものを生み出してしまった責任を持って殺し、感謝して食べなくてはいけないと思っています。ただ家畜というシステムはブロイラーの工場を見ている限りはあまり好きではありません。大自然で一匹一匹名前を付けて鶏を大事に育てているような人を見ると、それは最後に殺すとしても特に不自然に思いません。また、生きるために狩りをするのであれば、それは悪では無く自然の営みだと思っています。獲物に逆襲されて逆に食われても仕方がないことだと思います。

Q6. 『地球は動物や鳥や他のすべての生き物の楽園なのです』生まれてきたすべての者達に平和で楽しく生きる権利があります。
⇒まさにその通りです。肉食の私にも楽しく生きる権利があります、という書き方をすると反感を買うのだろう。ただ、私の言いたいことはまさにここに凝縮されている気もします。人間も動物やこの世界の一部であり、その営みの中にある、であれば『肉食=これまでの過ち』とするのは同意できないと思うのです。彼らにも私を食う権利があると思っています。私が死んだら、この大地か海の栄養になって彼らの役に立ちたいと思っています。サメに襲われて死んだら、当然抵抗はしますが、負けて死んでしまったら、どうか残さず食べて欲しいと思います(中途半端なズタズタの死体は困るのもある)。

Q7. 主義の異なる人とはどう付き合いますか
⇒各人が個々の主義と文化と歴史を重んじないと、また愚かな戦争を引き起こすことは歴史の物語る事実です。だからゆっくりと交わることにします。どんなことでもそうですが、誰かが急に主義・主張を変えるとは思っていません。

Q8. 次はあなたが動物に生まれてされるんですよ。それが因果応報と言うものです。
⇒この世の法則がそうであればされます。もし、此の世で犯した罪があって罰を受けるなら受けます。その覚悟はできています。ただ、肉を食うことで罰せられるのであれば神なのか仏なのかはわかりませんが抗議はします。『なら何故我々に肉を食う、消化する能力を与えたのだ、肉を美味いと思う身体を与えたのだ、草食動物のように草しか消化できないようにしなかったのだ』と。

Q9. 動物は、他の生きものを殺して食べるが、人間のように善悪の判断ができず、ただ自然の本能に基づいて行動するので、動物に責任ありません。
⇒『人間のルールである善悪』は人間の範囲だけにとどめておきたいです。『動物における自然の営み』は生きるもの全てに適用されると思っています。人間は、動物は、という分類は何処か間違っている気がします。

Q10. あなた様は人間を動物とみなしておられますが、では、人間同士が殺しあうことも、認めておられるんですね?
⇒人間同士が殺しあうことは認めていません。ただし、『人間はほっておくと人を殺す』という言葉を誰かが言っているのを聞いたことがありますが、あながち間違っていないと思っています。殺人事件や戦争は少しも無くなりません。我々にはだからこそ法律や罰則が必要なのです。それこそが殺しあわずに済む人間の叡智だと思っています。無法地帯が危険なのもこのことを象徴していると思っています。ただし、自分の家族が誰かに襲われたりすれば、その相手を殺してしまうかもしれません。人間のことは共食いを抑制する本能から食べたいとは思いません。

Q11. イルカは人に襲いかかりません。あなたは襲いかかるんですか?もしかしたら、襲い掛かってイルカや鯨を食べるではないですか?
⇒腹が減っていれば襲って食べると思います。戦って負けたら彼らの餌になります。それが平等というものです。それは自然の営みです。イルカも肉食なので腹が減っていれば私を食べると思います。

ヒトと動物と植物と神と

2004-09-21 04:00:58 | 毒にも薬にもなること
 私が予想した通り、菜食主義者とは今はまだ平行線を辿るようだ。それが当然の流れであろう。何かを主張するということは闘争を生む。それが世の流れだ。そういう意味で『議論』ではなく緩やかな『談話』が必要だと私は以前ここで書いた。その反応を制御しきれないという意味で『未推敲』とした。(良いチャンスなので、ベジタリアンに詳しくない人は『日本ベジタリアン協会』『ハラルフード・菜食主義とベジタリアン』辺りを読んでみるといいだろう。私は記事を書くに辺り、何も知らないのに書くのは避けねばならぬので、このホームページに記述されている内容を参考にさせていただいた。私は宮沢賢治の立場が気に入った。)

 さらに反感を呼ぶかもしれないが、もう少し深く書いてみることにしよう。前回は食料問題を危惧して書いた。今回はこの生命の在り方を危惧して書くことにしよう。言い争うつもりは毛頭無い。それだけは言っておくが。

 人間以外の動物を良く見て欲しい。『DEEP BLUE』なんて映画でも良いだろう。我々動物の生命は、他の生命の犠牲に依存して成り立っているのだ。そもそものこの世界の根源に捕食関係というもの存在しているのだ。鯨は1日に体重の4%の魚を食べると言う。20トンの中型の鯨は1日に1トン弱の魚の生命を奪う。

 そもそも植物に生命が無い、植物を食べることが『殺していない』ということ自体、人間のエゴに過ぎないのではないか。『もの言わぬ優しき存在』である植物達の生命の恩恵を受けて、我々は生きている。かれらは『無抵抗主義者』であるだけだ。動物は我々に似ているというだけだ。そして植物をある意味で守る農薬はたくさんの生命を殺している。無農薬野菜を食べれば良いというかもしれないが、無農薬野菜の中に『減農薬野菜』が紛れ込んでいる。経済というものはそういうものだからだ。

 命の尊さは知っているつもりだ。ただ生きている以上、蟻は踏み潰してしまうし、洗剤等の化学薬品を使用している以上、目に見えないプランクトン等の生命を奪い続けている。大きな動物を殺していないだけで、私は小さな生命を一日に数万も殺し続けているのかもしれない。私の体内は言わば神の作った水槽のようなもので、小さな生命が渦巻く宇宙であり、彼らの生命の犠牲によって我々は成り立っている。そこでは数多くの生命が私の都合により、魂を奪われる。

 それらに鈍感にならなければ、私はおそらく発狂してしまうことだろう。他の動植物を殺さないために、我々人類がとることのできる道は滅亡のみだ。この世界の多くの動植物を、古くは恐竜から絶滅させてしまったのは我々人間だ。そして、人類の滅亡後にこの地球に現れた知的生命体は同じように『他の動物を殺したくない』と思うのだろうか。

 私は動物を植物を、そしてこの地球を友達だと考えている。ただその付き合い方に関しては『神様が教えてくれない大いなる原理』に到達できていない私にはまだ答えを出し切れない。

 もう一度言っておこう。植物の静かなる優しき魂を奪うこと、蟻や蚊や小さな見えなき尊き魂を奪うということと、人間や牛や豚、鯨等の大きな魂を奪うというのは、この世の平等から言えば等価だ。仏教や他の宗教でもそういったテーマの寓話がたくさん存在している。『小さな花にも生命がある、人間よ、おこがましくなるな』と言っている。そして植物に魂があることを否定したくない。そういう意味では菜食主義はまだまだ不完全な主義であるとしか、私は思えないのである。

 私がこのような記事を書いたのは『他の生命を殺して生きていかねばならぬのは何故か』という疑問を常に持っているからだ。そして植物・動物およびその一部である人間、その関係についての明確な答えを求めているのだ。そういう意味では菜食主義者と同様の問題意識を抱えているのだ。

 できることから始める。それは重要なことだ。そういう意味では菜食主義者という道から進んでいく方を私は否定しない。何も考えない人々よりはずっとましだ。問題意識を持って行動する、それは素晴らしいことなのだから。

 ただ考えをやめて欲しくない。この世の中は簡単な原理ですぐに動きを止めてしまう。どんなことでもそうだが、答えはもっと先にあるのだ。

そしてその真理に到達するのは、とてもとても長い年月と熟慮が必要となることなのだ。

 人間が歴史の中で肉を食べるようになったという歴史を。それを否定するためには同じくらい長い歴史が必要となることを。そもそも我々は動物であり、植物も生命であるということを。生きている限り、何かを殺し続けねばならぬ我々の業を。私は否定することはできない。

 欲深い魂との闘争。それこそが人間の人生に課せられたある種の罰なのだ。

 人間は熟慮の末、答えに辿り付けるのか?それすら分からぬ深い命題である。1つの宗教、または1つの主義だけでは到底答えに辿りつけない、そういうものなのだと私は考えている。そういう意味では成す術の無い話題では無いかとも私は感じている。

 よって、争うつもり等、毛頭無い。私はダイバーだ。自然を愛し、自然を守る者だ。この世界から自然が失われていくことを危惧しているものだ。菜食主義者とは相容れないかもしれないが、敵対関係になるものでもない。敵は他にいるのだから。得てして主義主張の無いアナーキストこそ、きっと最後に戦わねばならぬ相手だ。

 肉が美味いから食うというのはあまり本題ではないところを主張しすぎた。そこは反省する。野菜も美味い。トマトが大好きだ。はっきり言って肉無しでも生きていける。

 そして最後に問おう。『他の生命を殺さない生き方』とは。鯨の親戚である私は、その答えが『肉を食べないこと』だとは到底思えないのである。彼らの生き方を否定できないように、我々の生き方も、そしてこれからの在り方も、きっと否定できないのだ。

 生命の在り方について、我々人類が長い年月をかけて到達できた真実は『生きるということは他の生命を犠牲にすること』ということだけだ。だからどうすればいいのかというのはまだまだ未熟なる我々には結論を出し切れない命題だ。

 人類はおそらくいつかこの命題を克服する。だがしかし、それは『克服』であり、『否定』では無いのだ。あるがままを受け入れ、全てを飲み込み、その先の段階へと進む。菜食主義もその他の主義・主張もいつか辿りつく真理の一部を成すに過ぎない。世界の賢者が菜食主義者となったのは、『そうすることにした』からである。ただそれは『始まりに過ぎない』ことを彼らはきっと知っていたように思う。

 菜食主義者と私はその進歩、いや進化のために手を取り合って進んでいる。お互い平行線を辿りながらも。私はそう信じる。だからこそ、私の持っている命題をここに記しておこう。仏教徒・キリスト教徒・イスラム教徒・学者・詩人・菜食主義者・考える葦・名も無き賢者達、その答えをいつか誰かが見つけることを祈って。

 『人類の滅亡』という名以外の、素晴らしい『答え』を。我々人類の『本懐』を。

追伸:『』される生き物を見ると、怒りすら覚えるのは真実だ。『』されるために産まれてくる魂を気の毒に思う。そこには生命の尊厳が感じられないからだ。ただし、『DEEP BLUE』というドキュメンタリー映画の中で、シャチが子鯨を狙って襲い、おいしい下顎だけを食べて後は残すシーン等を見ていると、何が正しいことなのかがわからなくなる。そこには生命の尊厳は無い。あるのは『自然』だけだ。人間は『迷う』という罰を与えられた『罪深き生命』なのだろうか。知性とは自然に抗うことなのか。私も自然の一部であるのに。答えはまだまだ遠い、しかし、進み続けることは大事だ。我々はそうするしかないのだから。

芸術は爆発していた

2004-09-20 03:55:50 | 人生について
 岡本太郎という画家は知っているだろう。大阪万博の太陽の塔の作者と言って通じるのか、それともそれでは通じない程の時間は流れているのか。

 ずいぶん前の話になるが、この岡本太郎氏が亡くなった後、川崎市に岡本太郎美術館という美術館ができ、なんだかんだとマスコミが盛り上げていたのか、興味を持った私は、本当に軽い気持ちでそこを訪れた。マスコミが大事そうに盛り上げている『岡本太郎』という人間を見切ってやろう、そんな卑しい気持ちもどこかあったように思う。

 岡本太郎の作品を見た私は驚いた。全てと言ってしまうと嘘になるが、その存在(あえてここでは出来という言葉は使わない)が素晴らしかった。誰かを批判し、誰かを持ち上げることは簡単ではあるが、それとは違う何か、そこには絶対的なもの、『実』があった。そう、『芸術は爆発だ』などと流行語にされた軽い言葉は全ての表層を成すに過ぎず、つまり『芸術が爆発していた』のである。マスコミにまつりあげられていたのでは無く、溢れ出たものによりマスコミが動かされていたのである。

 この日から私にとって、『岡本太郎』は真実となった。特に岡本太郎について何か文献をあさったり、必要以上に絶対として信じているわけではないが、『意味を成す何か』を追い求めたいと願う私の心を強く揺さぶる、そのための我が人生における触媒、その重要なパーツの一つとなった。

 今日、偶然本屋で見つけた彼の本を読んだ。タイトルは『自分の中に毒を持て』という。そして読み終わった今、『私の言いたいこと、やりたいこと』をほぼ実践し(歴史では無い、精神である)、そして華々しく死んでいった一人の人間がいたことを更に思い知らされた。そして、彼をもし師に持っていたとすれば、この私は今の様ではないもっと不安定かもしれないが力強く美しい存在に、なれたのではないかというような気さえした。

 彼は言う。この日本という国からは『人間』が抜け落ちていると。政治・経済の巨大な渦の中に巻き込まれ、機械のように自身のアイデンティティを誤魔化しながら生きているせいで、偉くなるたびに顔がしょぼくれるようになるやつばかりだ、と。まったくもって同感だ。社会的地位と精神的地位は違うのだ。偉いのは結果であって、それは永遠に持続するものではない。そして偉いというのは役職でも無い。何を成したか、だ。

 彼の言葉を読むたび、心が苦しくなる。それは徐々にこのつまらない流れの中にある世の中に取り込まれていく自身の叫びだ。岡本太郎、いや、自身が抑えながら、そして絶望しながら持っている自己の象徴的偶像を見せつけられ、『解放してくれ』、『解放してくれ』と叫んでいるのである。それは50ccのバイクにニトログリセリンを突っ込むような愚かな行為だと知る冷静な頭脳と魂を揺さぶる甘美な生命のパッションとの、苦しい、苦しい、闘いである。

 弱い私である。どこまでできるかはわからない。ただ、闘い続けなければならない。それだけは忘れないようにしよう。芸術は爆発していた。そして人生も爆発なのだ。彼はそれを教えてくれた。後は己自身の問題だ。悔い無き死に到達できるよう、今日、ここで反省しておく。

明日死ぬとするなら今日は何をしよう

2004-09-14 08:50:42 | 人生について
人生の時間は限られている。いろんなことを我々はうやむやにしながら生きている。

寝る前にふと考える。自分の人生はこれでいいのかと考える。テレビを見るとオリンピック選手が金メダルを抱いて涙を流している。がんばったからこそ、泣いている。果たして。私は。夢は。どうなった。

明日死ぬとするなら今日は何をしよう。まずはそこから始めることにする。

夏休みの日記(神ノカタチ)

2004-09-03 13:19:24 | 人生について
 以前、『マッコウクジラを見に行く』とここで書いたが、台風の影響によりマッコウクジラの住む海域に行くことができず、今年はやむなく断念した。だが私はがっかりしているわけでもない。まだ明日がある。来年がある。明日を、そして来年を楽しもう。そしてマッコウクジラのいる海域に行かなかったおかげで青い海の中、悠然と泳ぐマンタにも会えた。それで十分だ。

 夢はいつか叶う。そんな風に信じて、神ノカタチを持つ彼らと会うために私は海へ行く。100歳まであと72年。チャンスはまだまだあるのである。