鷲は舞い降りた
by BIRD
(しまった!)
ガラスの割れる音に続いてジュンの悲鳴が上がった。
「どうして窓を開けるのよ!こんなに風が強いのに。」
強風に翻ったカーテンが棚に飾ってあった置物を払い落としてしまった。
ジュンが風で暴れるカーテンを抑え、窓を閉めている最中にも繰り返し謝ったが
「ひどいわ」「大事にしてたのよ」「風があるのに窓を開けるなんて…」
確かに不注意で大切なものを壊したのは悪いが、あまりに嘆き悲しまれると
いささかげんなりしてくる。
精巧なカットを施された白鳥の置物は、長い首が無残に折れて胴体を離れ
床に転がっている。
ジュンは床に跪き、ごろりと横倒しになっている白鳥の胴体に両手を添えて、
そっと自分の膝に抱き取った。
「接着剤じゃダメか?」
少し離れたところに転がっている白鳥の長い首をつまみ上げると
「さわらないでっ!」
尖った声がとんでくる。
優美なカーブを描く長い首はさらに二つに折れて、健の手から滑り落ち
それぞれが床でかすかな音を立てた。
(しまった!)
「とにかく接着剤で…」
白鳥の胴体を抱えて立ち上がったジュンがキッと振り向いた。
睨みつける大きなグリーンの瞳にみるみる涙が盛り上がってくる。
「すまない。悪かった。」
「ひどいわ。あたしの宝物なのに…」
言い捨てるなり部屋から飛び出していった。
白鳥が乗っていた台座も棚から床に転がり落ちて裏返しになっている。
手にとってメーカー名を検めてみた。
かつてはそこにメーカー名だか製品名だかのラベルが張られていたようだが、
大半が剥がれ落ちてかろうじて残っているラベルの文字も掠れ、端の『S』しか読み取れない。
『S』で始まるガラスメーカーなど思いもつかない。それともSwanの『S』か。
だいたい『S』自体、先頭の文字か末尾の文字なのか定かではないが、
どのみちガラスの白鳥の手がかりは『S』だ。
任務の合間をみてショップを巡ったが、見当をつけた最初の店ではクリスタルガラスは
扱っていないと言われ、次は女性客で溢れかえっていてさすがに怯んだ。
ショップめぐりで相当疲れた顔をしていたのだろう、何軒目かで『デパートなら…』
とアドバイスを受けた。
彷徨い歩いたショッピングモールを後にすると、ユートランドの足を向けたこともない
一角にデパートはあった。
人と商品で溢れ返っている店内をフロアマップとフロアガイドを頼りに、エスカレーターで
上がったり下りたりを繰り返しているうちにいっそうわからなくなった。
(仕方がない)
一日中笑っているのではないかと思えるくらい、にこやかな表情を浮かべた受付嬢が
「クリスタルガラスでございましたら、6階特選品売り場の宝飾品コーナーでございます。」
満面の笑みで教えてくれた。
「お客様、こちらの奥に直通エレベーターがございます。」
(あれ?)
ついさっきエスカレーターで昇り降りした同じ店内と思えないほど、静まりかえって人がいない。
絵画、壺、絵皿、彫刻、置物、飾り時計が磨き上げられたショウケースの中に並んでいる。
(ガラスはどこだ?)
人気のない売り場をガラス製品を求めて縦横に歩き廻る。
いつ何時スクランブルになるか、気が気ではない。
どうかこの静まり返った空間でブレスレットが鳴りませんように。
今、出たら許さんぞ、ギャラクター!
(あった!)
精巧にカットされ天井からの照明に煌めく白鳥がフロア奥のショウケースの最上段、
中央に鎮座している。
(これ、だよな?)
透明な白鳥の胴体の底にラベルが張られているが、降り注ぐ光を受けて
無数のカット面がまばゆく輝き確認ができない。
さらにいまひとつの、いやそれ以上の気掛かりは首に掛ったプライスタッグが
裏返しになっていて値段がわからない。
ショウケースの下からなら見えやしないかと、長身を折って屈んで見上げてみたが無駄だった。
「いらっしゃいませ。」
頭上から声がかかって制服を着けた女性がにっこり笑った。
「こちらのお品でございますか?」
これは間違いなく白鳥だ…と、思う。これくらいの大きさだったはず…と、思う。
何よりもイルカだのクマだのはケースの下段に幾組もディスプレイされているが、
白鳥はこれひとつしかない。
もうこれ以上白鳥を求めてあちこち彷徨うのはごめんだ。
「お待ちくださいませ。」
彼女は笑みを浮かべたまま、まるでマジシャンのごとく、どこからか白手袋を取り出し両手に嵌めた。
(?)
次にまたどこからか鍵を取り出し、ショウケースの扉に差し込んで廻しガラス戸を滑らせて開く。
自分も操縦の際には青い手袋を嵌めるので何か作業をするのだとは思ったが、
品物を取り出すのに彼女は手袋を嵌めたのだと理解した。
(随分、厳重なんだな)
「こちらはスワロフスキー社のお品でございます。」
『スワロフ?[S]か。これはクリスタルガラスなのか?』
表情をわずかに掠めた疑問をプロフェッショナルな彼女はすぐに理解し
「お客様、ガラスは製造時に酸化鉛等を添加することでガラスの透明度と屈折率が高まり、
その輝きから水晶(クリスタル)のように透明なガラスになりまして、通称として
〔クリスタル〕と呼ばれます。
ただし、光学的に無色透明であるよりもわずかに青みを帯びた方が肉眼では
〔美しい透明〕と感じがちなため、アルカリ金属酸化物などの着色剤を用いて
調整する事がございます。」
「ではこれは着色されているのですか?」
透明なガラスなのに虹のように輝く白鳥を見ながら訊ねた。
「いいえ。こちらのスワロフスキー・クリスタル・ガラスは通常のクリスタル・ガラス
(酸化鉛 (PbO) の含有量比は約24%)に比べ、酸化鉛が最低32%と多くなっております。
そのため、通常のクリスタル(透明)カット製品でも、光の反射加減により
虹色に見えることがございます。」
彼女は素直な質問をした生徒に噛んで含めるように理解させる優れた教師のごとく、
淀みない説明をした。
「なるほど。」
ショウケースから恭しく取り出した白鳥を白手袋をはめた両手がしっかりと抱き、
黒いビロードを張ったトレイの上で角度をいろいろと変えられながら、天井から降り注ぐ
照明を受けて輝くように美しい光を放つ白鳥は虹色に見える、というその説明を裏付けた。
だが、白鳥がいかなる角度になろうとも、ほっそりと長い首に掛っているプライスタッグは
微動だにせず裏返ったままだ。
相手が白手袋をはめて恭しく扱っている品に無造作に手を伸ばして、タッグをかえすのも躊躇われる。
「こちらでよろしゅうございますか?」
買うのか止めるのかを最上級の言葉遣いと笑顔で迫られる。
心の片隅で激しくアラートが鳴り響き、その為の逡巡が表情に出たのか、逸らしかけた視線を
ひたと射とめられた。G1号ともあろう者がここで怯んではならない。
だいたい相手はギャラクターではなく、我々科学忍者隊が常日頃から守らねばならぬ一般市民ではないか。
敵ではない、そうだ、そうなのだ。健が自分自身に大きく頷いたとき
「ありがとうございます。贈り物でございますね?」
彼女は満面の笑顔になった。しっかりと胸に抱いていた白鳥を慎重にビロードを張ったトレイの上に置き、
白い手袋を嵌めた手が手際良く鋏でプライスタッグを切り取った。
(しまった!)
「只今、箱のご用意をいたします。こちらでお待ち下さいませ。」
白鳥を抱いた彼女は笑顔のまま奥に消えていってしまった。
売り場に独り残されるとたちまち不吉な黒雲のように不安が沸き起こってきた。
(いったい、いくらするんだ)
ショウケースのひとつ下の段に可愛いイルカ達や愛らしいクマの親子がディスプレイされている。
イルカに付けられた小さなプライスタッグに気付いた。タッグは表を向いている。
身体を斜めにしてびっしり並んだその小さな数字を読み取った。
(え?)
理解を超えたプライスが記されている。
クマの親子のタッグも確認した。
(!)
納得の範疇を超えている。
値段の決め手はどこにあるんだ?大きさか?
海洋生物と鳥類では値段の基準が違うのだろうか?
それとも哺乳類と卵性生物の違いが価格に反映されるのだろうか?
天下無敵の科学忍者隊G1号 ガッチャマンが史上最大の難題に
その凛々しい眉を寄せて、考え込んでいる時
「お客様。」
先ほどの女性が戻って来た。白鳥はどこに消えたのか見当たらない。
眼の前にA4サイズ大のボードが置かれた。
グリーティングカード位にカットされた包装紙の見本が5種類、
様々な結び方をした色とりどりのリボンの見本がこれも5本、並んでいる。
私どもで用意しております包装紙がお気に召さなければ、ひとつ上の
7階文具のフロアで包装紙を扱っておりますので、そちらでお客様の
お好みの包装紙を選んでお求め頂き、こちらにお持ちいただければ、
それで包装することができること。
またリボンがお気に召さない場合は5階奥の手芸品売り場に…。
にこやかで懇切丁寧な長い説明が終わるのを待って、健は直ちに首を横に振った。
「ありがとうございます。」
では、包装紙はどれにするか、リボンは何色にするか、結び方は…等々
山ほど聞かれ答えた後で、遂にプライスタッグが登場した。
クラクラするような数字が並んでいる。
いまこの瞬間にブレスレットが鳴らないだろうか?頼む、出てこい!ギャラクター!
女性は固まっている健に微笑みかけ
「恐れ入りますが、もう少々お待ち下さいませ。」
と告げてまた奥に戻ってしまった。
このままフロアを突っ切って、階段を駆け降りデパートから走り出てしまえば…。
いや待て、科学忍者隊が一般市民を騙すなんて…できない。俺にはどうしてもできない!
タートルキング、クラゲレンズ、火喰い竜… もはやこれまでと思われたことは数え切れない。
メカボ-ル、ゲゾラ、ジゴキラー、アルケオ… 打つ手がなく地を這い、うなだれ涙したことも数知れない。
カニキラー、メカブッダ、ブリザーダー、クラゲメカ… だが、いつも知恵と勇気でなんとか切り抜けて来た。
こんなことで屈してたまるか、俺は科学忍者隊G1号 ガッチャマンなんだぞ!
健がキリリとその眉を上げた時、
「お客様、大変お待たせいたしました。」
デパートのロゴが入ったペーパーバッグがショーケースの上に乗せられる。
彼女が手にしているバッグの持ち手に触れたらおしまいだ。
心の奥で最後のアラートが弱々しく鳴ったが、持ち手を僅かに自分の側に傾けられ
笑顔で強く促された。仕方なく健はペーパーバッグを持ち上げた。
羽根よりも軽くなってしまった財布に比べてずしりと重い。
「きっと喜ばれますわ。」
これで嘆かれては平静ではいられない。
「甚平、ジュンは?」
「お姉ちゃんなら買い物だよ、もう帰ってくると思うけど。兄貴、それなんなの?」
甚平がペーパーバッグに視線を向けた。
「ジュンの宝物とやらを落としちまってな。」
「宝物って白鳥の…アレかい?」
「ああ、そうだ。」
カウンターに置いたデパートのペーパーバッグを忌々しげに見やりながら、
記憶に新しい先ほどの特選品売り場での恐怖体験に気を取られていた健は、
甚平の表情に一瞬走った動揺や、自分と並んでカウンター席についている
ジョーと竜の肩が強張るのを見落とした。
ーあれ?繋がってたはずなのに、おっかしいなぁ…
ー接着剤が完全に乾く前に動かしちまったからな、不覚だった…
ー確かにくっついとったはずなんじゃが、どうしたんじゃい…
三人三様に過去の罪を振り返っているとき、道路に面した青い硝子戸が押し開かれて、
ジュンが帰って来た。
「えっ、スワロフスキーのクリスタルを買ったの?」
そのスワロフスキーだ。忌々しい。もう文句を言うなよな。
「ああ、そうだ。」
「スワロフスキー・クリスタルって初めて見たわ。綺麗なものなのね。」
「なんだって!ガラスってみんな同じじゃないのか?」
「違うわよ。あの白鳥はアクリル・ガラスだもの。高かったでしょ?これ。よく買ったわねえ。」
それじゃ、あのラベルの『S』はSwarovski(スワロフスキー)の『S』ではなく
Acrylicglass (アクリルガラス)の『s』か!『S』は逆にしても『S』だ。
アクリル・ガラスならG1号機の風防の素材じゃないか。
(しまった!)
「兄貴、オイラの奢りさ。」
甚平が心を込めて淹れたコーヒーをサーブしてくれた。
「お前の勘違いだ。あきらめろ。」
「ジュンは喜んどるぞい。」
左右から熱心に慰められる。
「ん…まあ…そうだけど。」
どこか納得のいかないまま口許に運んだコーヒーはやけに苦かった。
終
お読みいただきありがとうございます。
スワロフスキー社とクリスタルガラスの記述はウィキペディアからの引用です。
御了解ください。
BIRD拝