日本付近は高気圧に覆われ
「昭和の日」(しょうわのひ)
生かされて生きてるけふや昭和の日
(いかされて いきてるけふや しょうわのひ)
今日は国民の祝日で「昭和の日」です。
「昭和の日」は昭和天皇の誕生日です。嘗ては「みどりの日」と制定され、
祝日の改定で、5月4日にスライドしました。そして代わって「昭和の日」と
なりました。いまやゴールデンウイークの最初の休日と定着したようです。
さて、この日は私にとっては特別な感懐があるので記してみます。私は、
大正15年12月17日に生まれました。そうですこの年は昭和に改元です。
12月25日に「大正天皇」が逝去なされ「大正から昭和」に改年したのです。
即ち、昭和元年は六日しか無かったのです。・・・・
明けて昭和2年からが、昭和時代の幕明けというわけです。私はその年号と
共に成長し生活し、今日に至っています。(※現在・八十二歳です)
言うまでも無くこの世代の者は、「太平洋戦争」の体験者です。
私は昭和8年に「尋常小学校」へ入学をいたしました。この時に画期的なことが
起きました。国語(読本)の教科書が変わりました。それまでは白・黒で
「ハナ ハト マメ マス」という文言でしたが、この年にカラーで綺麗な
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」という文章の教科書になりました。
新入生はみんな喜んだのですが実はこの裏には所謂「軍国主義教育」という
国の根幹の教育方針が進行していたのです。(※さくら読本)
当時、日本は、「満州事変」から「支那事変」と突入し、「富国強兵」の国是に
よる政治が強力に推し進められていました。「激動の昭和」といわれる大変な
時代に身を措いた訳です。
当然のことながら戦時色一色となる、言論は全く封じられる異常な国体
となります
16年・12月・8日にご存知の「真珠湾攻撃」があり大東亜戦争(太平洋戦争)
に突入しました。国民は「欲しがりません勝までは」をスローガンに戦時に
対しました。筆舌に尽くし難い戦時生活でした・・・・私は18年・12月中学を
卒業と同時に「甲種飛行予科練習生」に志願入隊しました
戦局は次第に逼迫し、私たちは自らの命を兵器に代えるという「特攻兵器」の
最終局面に身を投じました。多くの戦友が先駆けて命を捧げました・・・・
「終戦」・8月15日に「耐え難きを耐え・・・・」の昭和天皇のお言葉で
終結でした。前線基地での玉砕や、本土の爆撃、原子爆弾の投下、
などなど語るに言葉がありません。こうして戦後の、口では言い表せない
食生活を中心とした酷いものが頭の中に沁みついて離れません・・・・
「戦後の日本」・こうした敗戦後の言い尽くせぬ酷い生活から日本は世界から
奇跡の復興と賞賛を浴びる再生を果たしました。
そして、今日はメキシコを中心とした「新型インフル」のニュースで持ちきりで
悲喜交々のさまざまなニュースは連日絶える事を知りません。
「昭和の日」に思うことは60数年を経た今日にあっても、あの青春時代を
「戦争」という生死を分けた昭和の時代を片時も忘れることは出来ません。
「同期の桜」も散り果て残る桜は僅かとなりました。徒に歳を重ねる
ばかりですが、改めて「昭和の時代」を反省して一日を振り返って見たい
と思います。・・・
『散る桜 残る桜も 散る桜 』良寛作といわれます。
明日は我が身です。・・・・