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〝浮き雲〟田舎で ぼちぼち と!?〟

気の向くままに書き込んで、読み返すと…
70歳台後半の自分が見える、か、な?。
📷〝写真〟も載せてみます。👴

枝豆 ~ 大豆 !?  遊んだ思い出…

2008年09月25日 18時35分39秒 | 思い出

田舎の田んぼでは、枝豆が黄色く色付いてきて、そろそろ 刈り入れの時期を迎えます。

緑色のときは、茹でて 〝つまみ〟にして食べましたが、黄色く色付いて 刈り取った後の、鞘から取り出した実は「大豆」になります。

 

写真・中央の「茎」は、編んで 虫かごを作って、捕まえた「イナゴ」などを入れて遊びました。

また、緑色の葉っぱは、軽く握った拳の 親指と 人差し指で作った〝小さな丸穴〟の上に乗せ、反対の手のひらで叩き、〝パン〟と大きな音を出して遊んだものです。

友達と、音の大きさを競いながら、道草したことがありました。

半世紀以上も 昔のことです。

 


〝納豆(7/10)の日〟に…

2008年07月10日 17時57分22秒 | 思い出

特派員が、〝納豆〟を初めて食べたのは、病院の「入院食」でした。

30歳ころまで、納豆を食べたことが無かったのです。

理由は、〝お袋さん〟が 納豆嫌いだったため、食卓に出たことが 無かったからです。

   (自分では、避けていたのかも知れません。)

 

病室へ運ばれた食事では、特有の臭いと ネバネバ 糸を引のが嫌で、最初は、箸をつけられませんでした。

でも、担当の看護婦さんから、「栄養があるので、薬だと思って食べましょう」と勧められました。

嫌々ながら、海苔か何かを 混ぜて 食べ始めた…ように思います。

 

その後、数回、おかずとして 出てくるうちに、余り 気にせず、口にするようになりました。

食堂で、ほかの患者さんたちと食べる頃には、難なく 食べられました。

「臭い」が、「匂い」に 変わったのです。

 

退院後は、家でも 進んで食べるようになりました。

そのうちに、〝我妻さん〟の努力が実って、〝お袋さん〟も食べるようになりました。

 

つまりは、食べず嫌いだった…ことに しておきましょう 

今では、当時のことが嘘のように、我が家の冷蔵庫には、必ず、数パックの納豆が入っています。

 

 


(^J^) 絶壁~っ…

2007年12月20日 08時34分10秒 | 思い出

今を去ること 六十年ほど前。 つまり、大昔。

特派員が幼かった頃、田舎の床屋さんは 一軒だけだった。

初めて、〝お袋さん〟に連れて行かれたときは、相当 泣いたそうな。

 

その後、小学生の中学年ぐらいまでは 時々、中学生、高校生までは、たまに、その床屋のおじさんに、初めての散髪で泣いたことを、思い出話で聞かされたものだ。

その上、「散髪し難い頭や…」とも。

当時は、冗談だと思っていたが、今では「事実」だと 思っている。

つまり、特派員の後頭部は「絶壁」状態なのだ。

昔の 手動バリカンでは、刈り難かったと思う。

幼いときは、散髪し易い態勢を 取れなかっただろうし…などとも 思う。

 

赤ん坊の頃、寝返りを打てずに、ずっと 仰向けに寝ていたのだろうか?。

昭和20年代前半は、ドーナツ枕は、無かったのだろうか?。

 

格好いい頭に、具合よく帽子をかぶる人…に、今でも憧れる 特派員だ。

 


(?_?) 後ろ前…

2007年12月12日 07時52分50秒 | 思い出

今朝の田舎は、どんよりとした曇り空です。

さほど寒くなく、居間の、パソコン傍の温度計で 13℃ありました。

 

「前後ろ」と言えば、物の「前と後ろ」を 言い表しています。

ところが、「後ろ前」だと、前と後ろを間違えている…ことを 意味しています。

(意味しているようです。???)

 

先月、新潟へ出かけました。

車に便乗させてもらっての、長距離移動でした。

サービスエリアで、トイレ休憩です。

小用を…と、清掃中のトイレへ入りました。

 

ン?。 前開きのはずのタイツに、開口部が見付かりません。 エッ?。

仕方なく、重ね履きを 少し下げて、用を足しました。

その 次の、昼食・休憩時にも、です。

 

新しく買った、黒色系のタイツを、今朝 履くときに、前後を間違えたようです。

生まれて初めて、気付かずに 出かけてしまったのでした。 う~ん。

歳のせいにはしたくないし、タイツの前後の違いが分かりにくかった…のか。

つまり、もも引きとは、形が違っていたのです。 

つまり、区別し難かったのです。(どちらも、単なる 言い訳 か

 

宿に入って、直ぐに 前後ろを履き直したのは、言うまでもありません。

ちゃんと、開口部が有ったのですから。 トホホ。

 


(^'^) インスタントラーメンの はしり…

2007年12月05日 11時07分12秒 | 思い出

中学生の頃…

近くの、田舎の魚屋さんの店先で、インスタントラーメンが5個、まとめて入った袋が 売られていました。

袋は透明で、セロハンだったように思います。

 

一袋に、裸のインスタントラーメンが五つ、重ねられて 入っているものです。

食べ盛りの特派員は、部活を終えて帰宅すると、夕飯前に、丼茶碗にそれを一つ入れ、熱湯を注ぎ、お皿で蓋をして、3分待ってから 食べた記憶があります。

 

〝かやく〟が 何んにも入らない、〝ストレート〟で食べていました。

今なら、せめて ネギか海苔、卵でも入れたでしょうに。

 

半世紀ほど昔の、懐かしいファストフードの思い出です。

 


(^'^) 夏の思い出、「アイスもなか」…

2007年09月02日 10時17分29秒 | 思い出

梅雨明け以来、およそ3週間も続いた真夏日に、時折 食べたのが「アイスもなか」でした。

食べたのは、車で 出かけたときが多く、バニラ系や 抹茶系に 板チョコが芯(中心)に入ったもの などでした。 コンビニやショッピングセンターの駐車場で、いただくのです。

そんな中で、美味しくて、包み袋を 家まで持ち帰ったのが…

「五郎島金時 焼いもアイス」です。

最中の皮が、焼き芋風。 食べる直前、車内で撮りました。

 

田舎の近く、金沢市の野菜生産地で「五郎島」という地域が在ります。 そこで栽培されるのが「五郎島金時」です。 サツマイモですが、加賀伝統野菜として知られ、味も風味も格別です。

この芋を原料にした「アイスもなか」で、焼き芋 風味なのです。 一昨年あたりから売られていて、これまで数回は 食べていました。 でも、今年は なかなか出会えず、8月も中旬になって、コンビニで買えたのでした。 

今度 出かけたら、また、お店のアイス・ストッカーを探してみます。

 

特派員が、生まれて初めて「アイスもなか」を食べたのは、小学校の高学年 頃でした。 雑貨屋さんの店先に、四角いポット状の保冷容器が置かれ、上の蓋を開けると、アイスもなか や アイスバー、紙コップ入りのアイスクリーム、などが 入っていました。

容器の大きさは…、高さが1mほどで、上面が 50㎝ 四方くらいは あったように思います。 とにかく、小さい物でした。 

初めの頃は、丸くて分厚い蓋が、上の面に はめ込んであり、冷やすための「ドライアイス」を 新聞紙に包んで、容器の中の 底のほうに入れてありましたね。 つまり、電気冷蔵ではなかったのです。

新聞配達をして、自分の小遣いを持っていたので、たまには 買うことが許されました。

蓋を開けると 冷気が逃げるので、ゆっくり選ぶことは、難しかったですね。 

およそ50年前の、田舎の夏の、懐かしい思い出です。

 


(~_~) 夏の思い出、「スイカ」…

2007年09月01日 16時20分07秒 | 思い出

今年の夏は、8月に入ってから〝猛暑〟が続き、冷やしたスイカが 美味しかったです。

これは、家族でも評判が高かった「スイカ」です。

甘くて みずみずしい、大当たりの 美味しさでした。

 

〝我妻さん〟のお友達が、栽培したものです。 半分に割り切ったのを、冷蔵庫で冷やしてから、食べ頃にカットして、食後のデザートに出されたものです。

 

昔の田舎では、旧盆前に収穫したスイカを、縁側の日陰で、丸ごと 自然に保存してありました。

8月下旬からの 田んぼ仕事(稲刈り作業など)に、おやつとして出されるのです。 井戸水や、田んぼの脇の小川で冷やしたのが、とても 美味しかったですね。 

特派員は、子どもだったので、親戚の農家の、簡単な手伝いしかしませんでしたが、大好きなスイカを出されるのが、待ち遠しかったものです。

 

一時期、種無しスイカが出回って、食べた記憶があります。 でも、今は、身近では、栽培されていません。

なりふり構わず かぶり付いて、もぐもぐ食べて、種を出さなくていいのは、魅力的でした。 不精な特派員向きの、ヒット品だったのではないでしょうか。 

今では、種を出しながら、じっくり 味わうようになりました。

 


「湯たんぽ」運び…

2007年01月12日 11時59分28秒 | 思い出

寒い時期に思い出すのは、湯たんぽ運びのことです。

小学校3年生のとき、半年の入院を経験したのが、50年ほど昔のことでした。

寒くなると、木造の病室も冷え込んで、寒いこと この上ありません。 そこで登場するのが「湯たんぽ」です。 

タオルで包んだ湯たんぽを、寝台の足元などに入れて、暖を採ります。

記憶にあるのが、夕方の〝湯たんぽ運び〟です。 看護婦さんが、リヤカーで病棟の部屋を回り、皆の湯たんぽを集めます。 ボイラー室へ行き、熱いお湯を詰めると、病棟へ戻り、患者へ配るのです。 湯たんぽには、持ち主の名前が書いてありました。

夏の手術から5ヶ月が経ち、特派員は元気を取り戻しました。 着衣は着物で、綿入れをはおり、リヤカーに付いて回るのです。

ボイラー室へは、渡り廊下を通るなど、寒い中を歩くのですが、当番の看護婦さんと 喋りながらの 行き帰りが、楽しみだったのかも知れません。

湯たんぽは、素材やデザインが変化しながら、今でも、販売されています。

リヤカーと湯たんぽ運びは、半世紀前の、思い出です。

 


はらたいら さんの…

2006年11月14日 09時23分05秒 | 思い出

訃報を知ったとき、アルバムに貼り込んである、一枚の写真を思い出しました。

はらたいらさんにお会いしたのは、一度っきりで、三人の息子たちが、まだ小学生だった頃のことです。

四半世紀ほど前の、ある年の夏休み(8月下旬)に、家族5人で、長野県の白馬へ、ドライブに出掛けました。

 

ガイドブックで仕入れた『野球大会』の情報を元に、会場の運動場へ立ち寄ります。 

沢山の人たちの中に、ユニフォーム姿で日焼け顔の はらたいらさんが、居られました。 直ぐに見つけることが出来ました。

 

有名な漫画家で、野球が大好きな人…と、教えて有ったので、子どもたちは大喜びです。 長男は少年野球をしていて、二男・三男は漫画が大好きとあって、なおさらです。

チョットした空き時間を見つけて、はらさんに、写真撮影のお願いをしてみました。

はらさんは、白い歯を見せながらのニコニコ顔で、快く引き受けてくださいました。 脇に、子どもたちが居たから、かも知れません。

早速、本部テントの前で、子どもたちと一列に並んでいただいての、記念撮影です。 皆と握手もしていただきました。

 

今でも、あのときの、屈託のない笑顔が、直ぐに思い出せます。

写真も、大切に保存してあります。

 

はらたいらさんの ご冥福を お祈りします。

 


花婿の父…

2006年10月18日 18時21分15秒 | 思い出

そう、新郎の父です。 特派員が。

随分 久し振りの〝役どころ〟です。 兄弟たちの内で、気をもませていた息子が、このたび、挙式に漕ぎ着けました。

学生時代を入れると、離れて暮らすこと 20年。 今回も、殆ど、親の手を煩わせること無く、若い二人の力で、準備を進めてきました。

 

良い天気に恵まれた 野外でのウエディングです。

 

純白のドレスをまとった、素敵な新婦。

凛々しく タキシードに身を包む 新郎。

 

爽やかな秋の日に、清清しい風に包まれて、佳き日を迎えた二人が…伸びやかに、そして大きく見えました。

 

人生はドラマです。 誰もが持つ ドキュメントの…、です。 

親が直接感じられないところでは、本人の外に、回りの人たちが、その分を補っていて下さるのです。

 

〝我妻さん〟は、挙式・披露宴の後半を、その殆どを、涙で過ごしました。

お開きの後も、目には 涙を溜めていました。 

贈られた〝花束〟を手にして。

 

その日の内に、飛行機で帰宅した 我々。 

 

「花束」が〝我妻さん〟の手で、玄関を飾りました。