恩師宮田洋先生が2021年8月25日に他界されました。
突然の訃報に驚き、躊躇し、目の前のことを片付けることしかできなくなってしまいました。
訃報を知ったのは翌週月曜日8月30日のことでした。
facebookの知り合いのページに訃報が掲載されているのを発見。
事実確認をした上で、自分のページにも訃報記事を掲載。併せて知り合い各位へメール、メッセンジャー、Lineなどあらゆるメディアで連絡。
瞬く間に訃報は周知され、私のpageは宮田先生との思い出に関する記事で溢れました。
翌週月曜日でしたか、宮田先生のお嬢様から自宅に留守電。落ち込んだご様子の声を家内からのLINEで聞き、あわてて電話をかけたことは言うまでもありません。
事実が判明しました。
宮田先生は今年5月の連休辺りから足腰が弱り、ご自分のお住まいからお嬢様の元にうつることとなったそうです。
そして8月25日、食事を誘いに寝室に入ると息がない。
救急車を呼び、救急隊の指示でお孫さんが人工呼吸をし続け、到着した救急車で西宮の病院に搬送。
到着後、死亡が確認され、それ以降、通夜・葬儀の準備で時間が過ぎたとのこと。
コロナ禍の葬儀というので、家族だけで葬儀を営み、法名「釈弦洋」を与えられ埋葬されたということでした。
宮田洋先生の関係者への訃報の連絡は、関西学院大学文学部総合心理科学科のホームページ上で公示されました。
また、宮田先生が発起人となって作られた日本生理心理学会のメーリングリストでも公開されました。
それから各方面の諸先生方にも訃報は伝わったようです。
生理心理学会の機関誌「生理心理学と精神生理学」に追悼文を書くようにと依頼があり、断る理由もなく引き受けました。
ところが私は怪我で入院の最中とてまったく資料がありません。
宮田先生が亡くなられた翌日に入院し、翌々日に手術、知らせをうけたときは麻酔から覚め、痛み止めによる発疹が収まっていない間。
9月9日に退院し、追悼文のための資料を整理しはじめました。その後、術部の痛みが緩み、折れた骨の固定も行き届くようになり、自分の足で20分ほど歩ける体力が回復したのがようやくここ数日。
本日、ようやく、追悼資料のいくばくかをまとめはじめるとととした次第。
宮田洋先生の学術的側面を、3つの側面から整理しようと考えています。
まず、研究者として条件反射研究から日本の学習心理学・実験心理学黎明期を生きた若手・中堅研究者としての宮田洋先生。1950年代から1970年までの20年でしょうか。
次に、関西学院大学文学部心理学科教授として、弟子たちと築いてこられた生理心理学スクール創業者としての宮田先生。1970年代から1990年代までの20年。
そして、ロシア、ポーランド、米国の研究者との交流、工学、産業、臨床医学分野との共同研究推進社としての宮田先生。1990年代から2010年までの20年。
資料をよみつつ、これら3つのラインを引いて、宮田洋先生の業績を偲ぶことが使命だと思い至りました。
以後、このBLOGに、短い文章を書き込んでまいります。
お読みいただいた先生方におかれたは、私の勝手な考えや、誤謬をみつけられたら訂正をおっしゃってください。
まずは9月中に第一のテーマをまとめる予定です。
2021/09/22
山田冨美雄
突然の訃報に驚き、躊躇し、目の前のことを片付けることしかできなくなってしまいました。
訃報を知ったのは翌週月曜日8月30日のことでした。
facebookの知り合いのページに訃報が掲載されているのを発見。
事実確認をした上で、自分のページにも訃報記事を掲載。併せて知り合い各位へメール、メッセンジャー、Lineなどあらゆるメディアで連絡。
瞬く間に訃報は周知され、私のpageは宮田先生との思い出に関する記事で溢れました。
翌週月曜日でしたか、宮田先生のお嬢様から自宅に留守電。落ち込んだご様子の声を家内からのLINEで聞き、あわてて電話をかけたことは言うまでもありません。
事実が判明しました。
宮田先生は今年5月の連休辺りから足腰が弱り、ご自分のお住まいからお嬢様の元にうつることとなったそうです。
そして8月25日、食事を誘いに寝室に入ると息がない。
救急車を呼び、救急隊の指示でお孫さんが人工呼吸をし続け、到着した救急車で西宮の病院に搬送。
到着後、死亡が確認され、それ以降、通夜・葬儀の準備で時間が過ぎたとのこと。
コロナ禍の葬儀というので、家族だけで葬儀を営み、法名「釈弦洋」を与えられ埋葬されたということでした。
宮田洋先生の関係者への訃報の連絡は、関西学院大学文学部総合心理科学科のホームページ上で公示されました。
また、宮田先生が発起人となって作られた日本生理心理学会のメーリングリストでも公開されました。
それから各方面の諸先生方にも訃報は伝わったようです。
生理心理学会の機関誌「生理心理学と精神生理学」に追悼文を書くようにと依頼があり、断る理由もなく引き受けました。
ところが私は怪我で入院の最中とてまったく資料がありません。
宮田先生が亡くなられた翌日に入院し、翌々日に手術、知らせをうけたときは麻酔から覚め、痛み止めによる発疹が収まっていない間。
9月9日に退院し、追悼文のための資料を整理しはじめました。その後、術部の痛みが緩み、折れた骨の固定も行き届くようになり、自分の足で20分ほど歩ける体力が回復したのがようやくここ数日。
本日、ようやく、追悼資料のいくばくかをまとめはじめるとととした次第。
宮田洋先生の学術的側面を、3つの側面から整理しようと考えています。
まず、研究者として条件反射研究から日本の学習心理学・実験心理学黎明期を生きた若手・中堅研究者としての宮田洋先生。1950年代から1970年までの20年でしょうか。
次に、関西学院大学文学部心理学科教授として、弟子たちと築いてこられた生理心理学スクール創業者としての宮田先生。1970年代から1990年代までの20年。
そして、ロシア、ポーランド、米国の研究者との交流、工学、産業、臨床医学分野との共同研究推進社としての宮田先生。1990年代から2010年までの20年。
資料をよみつつ、これら3つのラインを引いて、宮田洋先生の業績を偲ぶことが使命だと思い至りました。
以後、このBLOGに、短い文章を書き込んでまいります。
お読みいただいた先生方におかれたは、私の勝手な考えや、誤謬をみつけられたら訂正をおっしゃってください。
まずは9月中に第一のテーマをまとめる予定です。
2021/09/22
山田冨美雄