よく読ませて頂いているJUNKOさんの「笑わせてなんぼの介護福祉士」というブログの『感受性』という記事にお粥の食事介助に色んなものを混ぜていた職員さんがいたケースと、利用者さんが亡くなられて何も出来なかったと悔やんでいる職員さんがおられたが、その方は入院の前に顔を拭いたり、爪切りや話をしてと、足を、心を止めることができていたというケースが取り上げられていました。
読んで後者の方でありたいと思ったのですが、ふと振り返ってみると相手を思うことから外れていること・気付かないことも多いです。一時、気付きが大事だと何度も何度も繰り返して記事に書いていましたが、目の前にいる利用者さんの思いを汲み取った行動ができるというのは利用者さんと相対して、自分が・大事な人がその利用者さんだったらと思いをはせることができることなのではないかと改めて思いました。
JUNKOさんは、記事の中で『感受性は身につけようとしてつけられるものではないから。』と書かれており、すごく納得してしまいました。確かにマニュアル的なものはないでしょう。むしろ経験に基づくことや、想像力によって養われるものだと思います。元はあったとしても、仕事の雰囲気や慣れてしまうことでさび付かせてしまうことも多々あるでしょう。こうしたら痛いのではないか、これはおいしくないのではないか、こうしたら喜んでもらえるのではないか・・・いっぱいありますよね。一つ一つが仕事をするにあたって大切なことだと思っています。
実はこの記事にコメントさせてもらった時にも書いたのですが、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩の1節がふっと思い浮かびました。
「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
この厳しい言葉を忘れないようにしたいですね。もうじき、今の職場に来て4年を過ぎようとしています。
読んで後者の方でありたいと思ったのですが、ふと振り返ってみると相手を思うことから外れていること・気付かないことも多いです。一時、気付きが大事だと何度も何度も繰り返して記事に書いていましたが、目の前にいる利用者さんの思いを汲み取った行動ができるというのは利用者さんと相対して、自分が・大事な人がその利用者さんだったらと思いをはせることができることなのではないかと改めて思いました。
JUNKOさんは、記事の中で『感受性は身につけようとしてつけられるものではないから。』と書かれており、すごく納得してしまいました。確かにマニュアル的なものはないでしょう。むしろ経験に基づくことや、想像力によって養われるものだと思います。元はあったとしても、仕事の雰囲気や慣れてしまうことでさび付かせてしまうことも多々あるでしょう。こうしたら痛いのではないか、これはおいしくないのではないか、こうしたら喜んでもらえるのではないか・・・いっぱいありますよね。一つ一つが仕事をするにあたって大切なことだと思っています。
実はこの記事にコメントさせてもらった時にも書いたのですが、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩の1節がふっと思い浮かびました。
「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
この厳しい言葉を忘れないようにしたいですね。もうじき、今の職場に来て4年を過ぎようとしています。
なんだか、isoさんが、上手にまとめて下さったような感じ(笑)
あの記事にはたまたまとても反響があって、いろいろコメントを頂きましたが
「うちはパン粥にポカリゼリーと白身魚を混ぜていた」や「カレーにお粥ってまずそうだった」とびっくりする話も聞きました。
おおい、フツーじゃないよーーと
そんなことが多い介護現場なのかもしれません。
経験を重ねて「見えなくなるもの」もあるのかもしれない。
いつまでも初心を忘れない介護職員でいたいですよね。
食事に関しては嚥下の問題を抱える人が多くおられ、形を変えてしまわなければならない(本当にぎりぎりまで待つべきだと思いますが)ことが多いですが、美味しく食べることのできる努力をしていきたいです。