100才になっても、お元気で弛みない時間のなかに居て、心豊かにいらっしゃる方を見て、すごいなぁと思う。
人生五十年の折り返し地点をどのように、折り返されたのだろう?
親に依存するころ、現役で自分なりに動いていたころ、次の世代を受け入れたころ、そして中心をなしていたのを次に譲り渡したころ、さまざまな思いがあったのではないかなぁ。
それを、流れのままに受け入れてきたのか、そのときそのときで葛藤があったのか。
穏やかな、表情からは、窺い知れませんが。。。
95才で亡くなった母の命日は、6月3日です。
当日は、UBのガンダン寺におまいりしてゆっくり母を偲ぼうと思っています。
いくつになっても、現役で居たかった母、かわいくて仕方の無い孫にかわいいからこそ厳しかった母。
母の50才の折り返し地点では、私は、小学生だったのだから、人生を折り返すわけには行かなかったのですよね。
もし、私が居なくても、母は人生を折り返すなどとは思いもしなかったでしょう。生涯現役で居たかった人です。
でも、100才の婦人にしても、現役といえなくも無いよね。
母は、80才まで、老いを感じさせませんでした。
ひ孫のお産の手伝いの出来るくらい元気でした。
私も、40代になったばかりでしたから、老いなんて思いもしませんでした。
90代になって、がくんと体力が失われたとき、あの時、私に、老いについて少しでも感じることがあったら、もう少し、柔らかに受け止められたのにと思うのです。
亡くなるときは穏やかでしたが、その前は鬼のようになったこともありました。
いつも穏やかで、我慢をする人だったから、今まで使わなかった怒りの感情を使ってから旅立つのかと勝手に思っていたのです。
ほんのちょっとした理解があれば、鬼にならないで過ごせたかもしれないのに。
「もし、~たら・・・」そういえば、母から、この言葉を聴いた覚えがないなぁ。
最後は、とても幸せに逝った母なのだから、心安らかに命日を迎えたいと思っているのですが、つい、詮無いことばかり考えてしまいます。
きょうでおわり!・・・・・・・・・・に、できたらいいなぁ。