風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

古希

2018年04月23日 | 徒然に日々のことを
久し振りに、妹のようにしている友人から電話があった。

昨日の、出しゃばりの件を話すと、「いいじゃないの、この年になったら、たった一人でも、喜んでくれて、たった一人のためにでも何かできることは幸せなこと。」

「万人に、いいね!をもらおうなんて、無理無理」と。


彼女は、とても色彩感覚の良い人で、アクセサリーの手作りをしている。少しずつファンも増えて、注文が来たり、習いたいという人も出てきて、自宅で受け入れもしている。

週末は、横浜赤レンガ倉庫で、出店したとのこと。
そこでも、名刺から、メール連絡をもらったり、前回は逃したので、今回は気に入ったものを購入するつもりで着ましたと、思いを披露してくれた人が居たと、喜んでいた。

そんなセンスに溢れた彼女の作品も、評価はそれぞれ、がっかりしたり、喜んだりしているそうだ。
どんなに心を込めて作っても、興ざめの顔を見ると、無念の思いがひろがるのだと、だから、ひとりでも、満面の笑みで手に取ってくれる人が居たら、それがたった一人でも、十分だという。

私が、詩吟のあれこれを語るときの感動や喜びを、追体験して、同じように感じ、感想を言うようになってきた。
彼女の作品は、永遠に残り続けるけれど、私の詩吟は、一瞬にして消えてしまう。
形として残るものは、本人が忘れていても、それを見つけた人が、新たに、感動を覚える可能性が、高い。
声は、それはない。
 
その違いはあっても、その一瞬一瞬に起こる感動の波は、同じように、それぞれの心に残る。


以前は、何がうれしくて、と言っていた彼女も、その感じ「わかる~」と言うことが増えてきて、共感しあえるようになった。


その彼女も、「若いときと違って・・・」などというようになり、「古希」が、ますます我がものとなってきた。

『「古希偶感」と言う詩吟を初めて習った時、私に「古希」は来るのかと思っていたけど、きちゃったよ~』と言うと、彼女に笑われた。

そのころと、気分はちっとも変らず、成熟とは無縁で、東明先生の心境にはほど遠いのだけれど。

「うん、うん、わかる、わかる」と、今日言っているのだが、、、
来年、彼女が本当に古希になったら、何ていうのだろう。




コメント    この記事についてブログを書く
« オルティンドーをうたった | トップ | 春の集い »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。