学生の頃、合吟や連合吟をよくしたものでした。
その頃は、調子笛を使う習慣はなく、ましてコンダクターなど機械的なものはあるはずもなく。
詩吟の出だしの高さは、自分の感覚を信じるほかは無かったのです。
ですから、連合吟は、音感がよくて出だしを間違わない人がスタートを切ってくれるのは、何かと安心なのでした。
そんな頼りになる人でも、何かの都合で、高さを間違ってしまうと、続いて発声する仲間は、甘んじてその高さを受け入れ、声が出ようが出まいが最後まで吟じきる必要があります。
それが、どんなに高くても、最高音を出すときは、声がでなくても息だけでも出すのです。
指導をしてくださっていた、岡大吟詩部OBの方たちは、正しい高さで出たときよりも、高すぎる音程で始まってしまった時、最高音でにっちもさっちもいかなくなるけれど、音程を下げることなく、その高すぎる高さを守って、みっともなくても吟じきったときの方が、褒めてくれたものでした。
そんな、体育会系の活動をしていたけれど、今は、コンダクター無しでは、出だしの音を出す勇気が無くなり、マイクに頼った詩吟をするようになっていました。
それを、アレット思い出させてくれたのが、日曜日に聞きに行った日本詩道家協会の吟詠鑑賞会の「実験劇場」です。
大会の後、暗くなった公園で、輪になりがらがらの声をはりあげて、何度も何度も吟じたものでした。
あんな、奇異とも思える声を上げて、吟詠とは言いがたい騒音を長時間続けても、誰もとがめる人も無く、するがままにさせてくれていた周りの人たちに、今頃感謝。
まさにばんから。
五似ん会のメンバーに、一人、吟のうまい人が居て、完璧に吟じることが多かったのですが、そんな吟は、誰も褒めてくれないのです。
間違って、狂って、外れて、それをどう挽回したか、その心意気をのみ褒めてくださいました。
ただ、最後の卒部の時、いつも完璧に吟じた吟友に対して、『お前の吟は、また、聞きたいと思う。』との講評。彼女は、珍しく泣きました。
私には、「お前は、やめるかと思うたけど、よう最後までつづいたなぁ」だった。
その言葉さえなかったら、部活は部活、学生を終わったら部活は無いものになるのだからと、詩吟を続けている私は、無かったことでしょう。
その頃流行のフォークソングとギターに走っていたに違いないのに。
あ、でも違うかもしれない。ギターを買うお金が無かったからかも。。。
なにしろ、体さえあれば出来る詩吟だった。詩は、頭の中に納まっていたから、いつでも、基本となる吟は何の不安も無く吟じることが出来た。
今は、伴奏が無いと、教則本を握りしめないと、一声も出せない。
あーぁ。
関西吟詩文化協会のあり方も変わって、吟法が細かく指示されて、その頃は、詩文が頭に入れば、自然に吟じられるようになったものだけれど、、、
言い訳をするなら、教室で指導をするようになったので、間違った吟を一度足りともしてはいけないとばかりに、教則本を手元から離せない。
せめて、お手本を吟じるときは、教則本を離さねばなぁ。
そのときは、生徒さんの音の高さではなく、自分の高さでね。
あれやこれや、頭がごちゃごちゃになるくらい体育会系の詩吟のことを思い出し、こんな活動をした記憶が、薄れていても、体の中に残っている芯のようなものが、何かことが起こると不協和音を奏で、なんだかわからないもやもやをかもし出すのですねぇ。
今は、学生でもなく、スメ[ツでもなく、伝統券\としての詩吟に取り組んでいる関西吟詩文化協会の構成員なのです。
この気持ちの整理は、なかなか付きそうも無く、思い出して動き出したものは、なだめて、今は静かにしてもらっていて、上手に熟成させて、次のステップへの肥しになってくれたらいいなぁ。
心揺り動かされることは、なかなか快感でもありました。
宿題をもらってどう片付けるかを、楽しんでいられるって、うれしいなぁ。
その頃は、調子笛を使う習慣はなく、ましてコンダクターなど機械的なものはあるはずもなく。
詩吟の出だしの高さは、自分の感覚を信じるほかは無かったのです。
ですから、連合吟は、音感がよくて出だしを間違わない人がスタートを切ってくれるのは、何かと安心なのでした。
そんな頼りになる人でも、何かの都合で、高さを間違ってしまうと、続いて発声する仲間は、甘んじてその高さを受け入れ、声が出ようが出まいが最後まで吟じきる必要があります。
それが、どんなに高くても、最高音を出すときは、声がでなくても息だけでも出すのです。
指導をしてくださっていた、岡大吟詩部OBの方たちは、正しい高さで出たときよりも、高すぎる音程で始まってしまった時、最高音でにっちもさっちもいかなくなるけれど、音程を下げることなく、その高すぎる高さを守って、みっともなくても吟じきったときの方が、褒めてくれたものでした。
そんな、体育会系の活動をしていたけれど、今は、コンダクター無しでは、出だしの音を出す勇気が無くなり、マイクに頼った詩吟をするようになっていました。
それを、アレット思い出させてくれたのが、日曜日に聞きに行った日本詩道家協会の吟詠鑑賞会の「実験劇場」です。
大会の後、暗くなった公園で、輪になりがらがらの声をはりあげて、何度も何度も吟じたものでした。
あんな、奇異とも思える声を上げて、吟詠とは言いがたい騒音を長時間続けても、誰もとがめる人も無く、するがままにさせてくれていた周りの人たちに、今頃感謝。
まさにばんから。
五似ん会のメンバーに、一人、吟のうまい人が居て、完璧に吟じることが多かったのですが、そんな吟は、誰も褒めてくれないのです。
間違って、狂って、外れて、それをどう挽回したか、その心意気をのみ褒めてくださいました。
ただ、最後の卒部の時、いつも完璧に吟じた吟友に対して、『お前の吟は、また、聞きたいと思う。』との講評。彼女は、珍しく泣きました。
私には、「お前は、やめるかと思うたけど、よう最後までつづいたなぁ」だった。
その言葉さえなかったら、部活は部活、学生を終わったら部活は無いものになるのだからと、詩吟を続けている私は、無かったことでしょう。
その頃流行のフォークソングとギターに走っていたに違いないのに。
あ、でも違うかもしれない。ギターを買うお金が無かったからかも。。。
なにしろ、体さえあれば出来る詩吟だった。詩は、頭の中に納まっていたから、いつでも、基本となる吟は何の不安も無く吟じることが出来た。
今は、伴奏が無いと、教則本を握りしめないと、一声も出せない。
あーぁ。
関西吟詩文化協会のあり方も変わって、吟法が細かく指示されて、その頃は、詩文が頭に入れば、自然に吟じられるようになったものだけれど、、、
言い訳をするなら、教室で指導をするようになったので、間違った吟を一度足りともしてはいけないとばかりに、教則本を手元から離せない。
せめて、お手本を吟じるときは、教則本を離さねばなぁ。
そのときは、生徒さんの音の高さではなく、自分の高さでね。
あれやこれや、頭がごちゃごちゃになるくらい体育会系の詩吟のことを思い出し、こんな活動をした記憶が、薄れていても、体の中に残っている芯のようなものが、何かことが起こると不協和音を奏で、なんだかわからないもやもやをかもし出すのですねぇ。
今は、学生でもなく、スメ[ツでもなく、伝統券\としての詩吟に取り組んでいる関西吟詩文化協会の構成員なのです。
この気持ちの整理は、なかなか付きそうも無く、思い出して動き出したものは、なだめて、今は静かにしてもらっていて、上手に熟成させて、次のステップへの肥しになってくれたらいいなぁ。
心揺り動かされることは、なかなか快感でもありました。
宿題をもらってどう片付けるかを、楽しんでいられるって、うれしいなぁ。