flagburner's blog(仮)

マイナーな話題を扱うことが多いかもしれません。

仙台で小田原とはこはいかに(Oct 10, 2014)

2014-10-10 20:54:59 | その他

先日ある理由で仙台まで出かけた際、こんな看板をみかけた。



仙台で小田原、か。
一応、以下画像の右上側にある赤点線部分が仙台で小田原と呼ばれてる部分らしいが・・・。
・(google mapの画面メモ)


この地名に関しては諸説あるらしいが、その由来は結構昔にさかのぼるらしい。
・仙臺今昔譚2 小田原の地名とお姫様(2014年5月12日 kahoku.co.jp)

以下、2014年5月12日分 kahoku.co.jp『仙臺今昔譚2~』から前半部分を(略)

---- 以下引用 ----
【宮ちゃんとごんちゃん】ねーねー浄圓房さん、私たちの住む小田原と言う地名はどこからつけた名前なの?
遠く関東にも小田原という地名があるね。

浄圓房さん はいはい、承知した。

もともとこの地は鎌倉時代 島津陸奥守と言う人が治めていた時代にはもう今の東照宮あたりは小俵邑玉手崎[※1]と言って小さい俵と書いて”おだわら”と読ませていたと言う記録があるのう。
また1189年文治(ぶんじ)五年、源 頼朝は文治の役[※3] の論功行賞を行い、従軍した関東御家人の武将たちに東北各地を所領として与え、千葉 常胤(ちば つねたね)の五男胤通(たねみち)には宮城郡国分荘(こくぶんのしょう)三三郷(作並・上愛子・下愛子・熊ケ根・郷六・芋沢・大倉・福岡・朴沢・根白石・田中・小角・実沢・野村・上谷刈・古内・荒巻・北根・七北田・市名坂・松森・鶴ケ谷・小田原・苦竹・南目・小泉・霞目・長喜城・蒲町・伊佐・六丁目・荒井・荒浜)が与えられ、胤通は国分氏を名乗った。
その時代からこの地は国分荘小俵【小田原】とも言われておった。

仙台開府当時は玉田横野※2 から連なる田園地帯で国分小俵や小俵村と呼ばれおった。
延宝年間(1673~1681)の仙台城下第3次拡張により小田原八町が割り出された。
その後周辺の町も含め、文政(1818~1829)のころ村名小俵を小田原[※2]と改めた、という説があるのう。
(以下略)

※1 玉田・横野と玉手崎は同意語か、読み違えとも取れる。
寺社仏閣の由緒書や古文書を見ると、この一帯は、往時「玉崎」やら「玉手崎」などに代表されるように國分荘玉手崎が発した地名と、諸説あるものの、いにしえ人の歌枕の地名の玉田横野(たまだよこの)の「玉田」などとも呼ばれていた。(『散木奇歌集』、源俊頼)に、「とりつなげ 玉田横野の はなれ駒 つつじの岡に あせみ咲くなり」と詠んだところの「玉田横野」もこのあたり。
そう言えば仙台には七崎と七坂と呼ばれる地名があります。

仙台七坂…大坂、藤ヶ坂、新坂、元貞坂、茂市ヶ坂、石名坂、扇坂
仙台七崎…茂ヶ崎、青葉ヶ崎、藤ヶ崎、松ヶ崎、島崎、鹿島崎、玉田崎

※3 奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。
また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。
同時代には「奥州合戦」と呼ばれたが、『吾妻鏡』文治5年6月6日条などの記述を踏襲して、奥州征伐と呼ばれる事もある。
---- 引用以上 ----

小さい俵→おだわら→小田原、か。
確かに、米俵(こめだわら)という読みもあるから強ち間違いじゃないんだろうけど・・・。
この手の話題のお約束として、本当の所は有耶無耶の方が色々ありがたいのは否めないか(苦笑)。
というか、昔の人が名前の由来についてどこまで知ってるのかって疑問は残るけどね。


それはそうと。

N年前に茨城の北関東道を走ってた際、『唐桶山(からおけやま)』って名前のついたトンネルがあったわけだが、この『唐桶山』の由来ってなんだろうか・・・?


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。