粗茶淡飯

中国・台湾・日本のお茶に関する色々。執筆者・徳田志保。

蟹・かに・カニ…

2016-10-28 07:54:03 | 現地の人・事(中国茶・台湾茶)






江蘇省宜興市と言えば、お茶好きにとっては宜興紫砂壺やお茶の産地となりますが、それはほんの一部の地域で、宜興市では様々な農水産物があちこちで作られています。昨晩は、宜興市のはずれにある、蟹(上海蟹)の養殖場へ遊びに行きました。

転機②

2016-09-27 11:51:37 | 現地の人・事(中国茶・台湾茶)



浙江省、江蘇省、安徽省、福建省、雲南省…幾つか回りましたが、腰を落ち着けて見てみようかなぁと思えたのは広東省潮安県鳳凰鎮ウードン村の農家でした。

当時この村は人口も500〜600人位。
私が初めて訪れた時には、車道は舗装されてなく、山の麓から車で村まで上がるのに2時間近くかかりました。標高1000メートル近くにあるこの村は、民家が山の斜面にへばりつくように点在していて、夕方になると夕食の準備の際の煙が出ているのが見え、街灯がないため、夜は真っ暗になりました。

村民は山の麓の街へ行く際は皆バイクでした。私もこの村を初めて訪れた時は車でしたが、その帰り、そして2回目以降の訪問は数年間バイクでした。国から走行は危険という理由で批准が下りず、車両の通行が禁止されてる道をバイクで一気に下りるのは、なかなかスリル満点でしたが、お天気の良い日は気持ちが良かったです。

お世話になった農家の技術は、とても安定していました。家のお父さん(以下、おじさんと書きます。)は当時60代でしたが、村の中では教育を受けた部類に入る人材だったので、普通話(標準語)でしっかり話ができ、幸運でした。外国人である私を、彼の家の中で好きに、何でもさせてくれ、私の話に常に真剣に耳を傾けてくれました。生まれも育ちも何もかも違うのですが、割と短期間でどんどん打ち解けて、何でも話せる間柄になって行きました。お昼から翌日の朝まで、ずっとずっとお喋りし続けたこともあります。

ただ、私はまだこの時も毎年オフシーズンに通う…程度の考えで、まさか春茶のハイシーズンに工場に籠ることになるとは、考えてもいなかったのです。実際、最初の数年は武夷山へ行ったり、各地のお茶の祭典に出たり、あちこち回っていました。

転機

2016-09-23 19:55:45 | 現地の人・事(中国茶・台湾茶)

私が中国茶の産地を周り始めたのが2000年頃。当時は何もわからないので、とりあえず行けるところはあちこち行っていました。



そのやり方を変えるきっかけになった出会いが2003年。福建省福鼎市の、ある工場にいた女性工場長との出会いでした。

工場ではとにかく厳しく、時には怒号も飛ぶため、若い工員から「男人婆(男みたいなおばさん)」と呼ばれていた彼女に私は興味津々。2日間、ジャスミン茶の加工をしながら、ずっと彼女の傍にいて色々話を聞きました。

彼女は若い頃、お祖父さんの勧めもあって紅茶工場に就職したそうです。当初は事務職だったそうですが、突然工場勤務に…工場は男性ばかりだったし、最初はただ単純作業の連続のように思えて、つまらなかったのだとか。そんな時、熟練工から

「良いかい、単純作業に見えても、ちゃんと道理があってやっていることなんだ。そこを自分で見つけて仕事をしなさい。」

と言われたそうです。そしてそれがちょっとわかってきて、少し面白くなってきた時に、また緑茶の加工部へ異動させられます。彼女は正直嬉しくなく、当初は勤務態度もあまり良くなかったそうです。その時に今度はまた別の熟練工から

「お茶作りの原理原則は同じなんだよ。君が前にやっていた紅茶も、ここの緑茶も共通点がいっぱいあるよ。まぁ見てごらん。」

と言われたのだとか。そこが彼女の茶工場人生のスタートだったと、懐かしそうに話してくれました。

当時、中国の友人達は私に今流行りの「茶旅」のような内容の本を書くよう勧めてきましたが、私はその方面に全く興味がなく、今後のこともあまり深く考えていませんでした。しかし彼女との出会いが、この当時までのお茶に対して広く浅く…路線だった私を、的を絞って深く…に変えて動かし始めたのだと思います。

そして、実際その3年後に舵をきることになります。