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わたしは野蛮人だ・・・ゴーギャン

2009-08-16 21:40:41 | みる
ホームページの混雑状況を見ると、「待ち時間0分」
有名どころの美術展は盆暮れ関係なく混んでいるものだと思っていたので、チャンス!とばかりに「ゴーギャン展」に行ってきました。(8/14 金)竹橋、近代美術館まで自転車で。何とも嬉しいお散歩。美術館にはちゃんと駐輪場がありました。

オンラインチケットを購入していたし入館はすいすい済んで、奥田瑛二さまゴーギャン役という音声ガイドをレンタルして館内進んでいくと、さすがに展示の前にはそれなりに人々が集まっていました。この展覧会の主役たる《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》は「立ち止まらずにゆっくり歩きながら鑑賞してください」と絶え間なく声がかかり、止まってはいけない行進状態で絵を観るために列ができていました。仕方がないとはいえ、あの停止禁止注意の声は、絵を見ている時にはかなりつらいです。その行列の後方では、心行くまでじっと堪能できるスペースが用意されていましたが、行列状態の人々のその奥に絵をみるというのも、落ち着かないものがあります。夕暮れ頃になり人々もまばらになると行列も解消され、この絵の前も、落ち着いたスペースになっていたのは幸いでした。

ゴーギャンの作品は総じて大好きですが、今回、一番心つかまれたのは、”Oviri”
動物(音声ガイドでは狼らしき、と説明されていた)を絞め?締めてるわ、踏みつけてるわ、目玉ひんむいてるわ、の彫像ですが、わたしには、これが実に愛らしく、見飽きなかったです。

「純潔の喪失」のあの!いやらしいしたたか狐も、時を経て、大地にしっかりと足つけるそのたくましい足に踏みつけられ、腰元で締上げられる狼になっちゃた、と悟ったのね、ぅぉっほっ。なぁんておばかな想像をしてしまうのも、わたしの絵をみる愉しみのひとつ。

それにしても、女性を執拗に描いて描いて女性の醜さを美にしてしまうほど描いてしまうのは、まっこと魔術ならぬ美術なのか。ピカソの作品とゴーギャンの作品には、女性(他者)との関わりによって創造されていく画家自身を感じます。
果たして、女性の作家にそれほどまでに男性を描いて描いて、というのは、わたしは知らないのですがそういう作品があったら、ぜひ、みてみたいものです。

フランス、ブルターニュに居を移しての1888年頃から描かれた作品が、俄然、活き活きとしてくることが展示の流れからよくわかるのも、この展覧会からのひとつの収穫です。
またいつものように展示最後の作品から逆回りでみたのですが、そのせいでしょうか、最初に見たゴーギャン没年1903年の作品、『女性と白馬』も印象深かったです。もしかしたら奥田瑛二さまのナレーション効果もあったのかもしれません。
たしかこんな感じのこと、「わたしは野蛮人だ。私の作品の中には人を驚かせたりまごつかせたりするものは何もないはずなのに、みな驚いたりまごついたりしているからなのだ。それは私の中の野蛮人が故意無くそうした結果を招いたからだ。・・・・・それこそが誰も私を真似できない所以なのだ。」