『美術手帖』という雑誌を読んだ。
ちょっと一休みするつもりで、通りがかりの喫茶店に初めて入ってみたら、扉の中は実はそんな気軽な場所じゃなく、ある固定のお客様がある固有の空気を作り出しているような、ある固定以外の者は思い切り場違いなところに足を踏み入れてしまったばつの悪さを感じるようなそんなお店に入ってしまった気持ちを少し味わえる雑誌だった。
と感じていたら、次の一言に突き当たった。
「僕は高校で美術を教えているのですが、彼らにも届く言葉で話し合えれば、と思っています。『美術手帖』もいまのアート雑誌なら、いまに直面してもがいている彼らがもっともっと買って救われるようなものにならなくちゃいけない。」
この雑誌の1月号89ページから始まる「三瀬夏之介×福住廉 往復書簡」での三瀬夏之介さん第一通目のメールは上の文章で結ばれている。
そして、ふたりは”かたちにすること””言葉にすること”について言葉を重ねていく。
そもそも何を?言葉にしたり、形にしたりしなくちゃいけないのか。
そう、ふたりの文章からは”しなくちゃいけない”切迫感が伝わってくる。
言語化することの困難さが言語化への切実なエネルギーを生み出しているみたい。
たとえば死、たとえば孤独、もうとっくに言葉になっているのに、ちっとも共有されないものたちを形にしようと、言葉にしようと向かうエネルギーが湧くのは、その先に共有されることへの希望をもっているからなのだと、『往復書簡』を読んでつくづく感じ入ったのでした。