4か月ぶりにスタジオでレッスンを受ける。
自身の身体調整のためお休みをしていたのだけれど再開しようとした矢先にCOVID-19にて
スタジオも劇場も閉鎖を余儀なくされた。そして再びのレッスン。
身体との手つなぎ、あるいは対話、はたまた格闘はすでに日々の中に溶け込んでいるため、別段変化はなかったのだが、音楽・リズムと一体になろうとするタイプの踊りへの衝動が変容していた。ウィルスが変えた環境と現状の身体とに踊りを介在させることは物理的に困難さを増し、身体内部からの踊りへの指向が強くなるほどそれとの軋轢が自分の存在を密やかに疲弊させる。踊らない身体はしかし踊るための素地つくりに現状の環境と親和性を増し、踊りへの指向の強さを身体そのものへの指向に変化させていった。
というようなことだったね、自粛期間(と世間では呼ばれていた時間)
そして今、
6月6日にジョギング先の川面のさざ波をみていたら川面にシンクロして身体が動き出した。
それはわたしは川面になりたいのか?なりたいわけではないだろう。そもそもなりたいってなんだ?川面の動きが身体に作用する。得も言われぬ気持ちよさだ。
音楽のリズムを目指して踊る踊りの方もなだらかな欲望を感じて、そう、そして再びのレッスンの今日だった。音楽リズムとわたしの動きのその動きはわたしの頭の中の自己像に支えられた動き、鏡の自己像と頭の中の自己像とを始終、修正しながら何か既成の像(見本となる他者の像)を目指している。それは気持ち良いのだろうか。自己像にかなりの幻想ななければとても耐えられる作業ではないように思うのだが。