アメリカ:闇の支配構造と略奪戦争

社会構造を分析しています。

アメリカのインディアン略奪史概略(資料として)

2012年10月31日 | 記事
現在も多くの国に戦争を仕掛けているアメリカですが、自国内のインディアンとの抗争はどのようなものだったのか調べてみました。
 1622年~1890年が主な抗争で「インディアン戦争」と呼ばれています。中でもアメリカ独立戦争以後、豊かで安い地価を求めて入植者が西進するようになるとインディアンの撲滅戦争と化してしまいました。
 白人とインディアンの戦いは1890年に終了しますが1890年は白人の歴史上フロンティアが消滅した輝かしい年となっています。しかし、インディアンにしてみれば1890年はアメリカンインディアンが完全に征服された年に他なりません。
 その後、全てのインディアンにアメリカの市民権が与えられるようになったのは、なんと1924年。30年以上も待たなければなりません。
 これらを俯瞰するとアメリカ人が徹頭徹尾「略奪」という意識の塊であるということが分かります。これで「自由の国」や「民主主義」を名乗るなんて恥ずかしくないのでしょうか。

以下略年表。
・1620年 メイフラワー号でピルグリム・ファーザーズがアメリカ大陸に     到着

・1622年 ピルグリム・ファーザーズによるインディアンの虐殺
 ピルグリムファーザーズの一人がマサチューセッツ族の酋長ら4人を自分の執務室に食事に招待し、逃げられないようにして虐殺した事件。そのうち18歳の少年は、その場では殺されず、あとで、皆の前に引きずり出して絞首刑に処せられた。彼らの首は20年も晒されることになる。

・1622年 ポウハタン族の大反乱
 アメリカで最初に永続的植民地となったジェームズタウンでのインディアンの反乱。350人が殺されたが、鎮圧される。

・1630年 ピルグリムがマサチューセッツ族が住む土地に進入
 進入の結果、ピルグリムの白人が持ち込んだ天然痘により、マサチューセッツ族の多くの者が死亡。

・1634年 ピクォート戦争
 ピルグリムの一人がピクォート族に殺されたとしておきた戦争。しかしピルグリムの白人殺しの犯人は実はピクォート族の者ではなくピルグリムの白人であった。

・1755年-1763年 フレンチ・インディアン戦争
インディアンと同盟を結んだフランス軍とイギリス軍との戦い。1760年に仏側が降伏し、フランスは、北米から前面的に撤退

・1774年 アメリカ独立戦争
 フレンチ・インディアン戦争による本国(イギリス)の財政危機から来る増税がきっかけとなって起こった戦争。この中でイギリス軍の支援を受けたインディアンとアメリカ植民地の開拓者達との抗争が続けられた(西部戦線)。この抗争は、1783年の停戦後も終わることなく、インディアンと開拓者の間にしこりを残した。

・1838年~1839年 「涙の行進」トレイル・オブ・ティアーズ
 インディアンの領地内の金鉱に目をつけた軍隊が1万7千人ものインディアンを狩り集め、用意してあった収容所に追い立てた。移動中に8000人もの人数が死亡。

・1864年 サンド・クリークの大虐殺
 休戦中のシャイアン族の女性、子供150人を虐殺。アメリカインディア ン抗争史上最悪の悲劇と呼ばれている。

・1868年 ワシタ川の大虐殺
 ワシタ川の村を、女性、子供まで手当たり次第に虐殺。インディアンか らは、「女殺し」と呼ばれている。

・1890年12月28日 ウンデット・ニーの虐殺
 野営中の集まりを大砲や機関銃で騎兵隊が一方的に襲撃した事件。
 スー族の1人がナイフを持って手放さなかったという理由で約150名が虐 殺された。

参考
ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA
白人VSインディアン抗争史~概略~http://www.infoseek.co.jp/

アリンコ