25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ブログのことなど

2019年12月16日 | 文学 思想
 田山花袋の「一兵卒」が今日の「よもやま会」での事前に読んでおく小説だったので、ぼくはスマホのアプリ「青空文庫」で読んだ。はて、感想というべきことを述べよと言われれば、「なんと下手な文であるか。明治時代ではこれくらいでも教科書に私小説の作家として田山花袋は出てくる。なんだこれは」という感じだ。
 今日はこの本を読んでよもやま話をするので、まずはこの本を選んだ人になぜ選んだのかは聞いてみたい。そしてもちろん他の人の感想も。

 戦後高度経済成長が始まってきた頃から貸本漫画、月刊誌漫画、週刊誌漫画と興隆し、現在の単行本漫画、アニメ、テレビドラマや映画の原作にまで進展している。サブカルチャアとしてとらえられていたものが純文学だの大衆文学だのもなぎ倒しているような感がある。この前NHKのドラマで「落語心中」を岡田将生が演じていたが、あのドラマは相当よくできていて、原作は漫画であった。漫画家もよく調べている。ストーリーの展開も見事である。
 明治の頃はサブカルチャアと呼べるものは落語くらいしかなかったのかもしれない。芸術創作活動は美術であり、音楽であり、俳句や短歌、小説であった。演劇も加えていいのかもしれない。小説も言文一致運動があり、ようやく人々が読めるものになった。この面では田山花袋の貢献もあるのだろう。
 今やサブカルチャアという言葉は死語である。メインカルチャアとなっている。音楽、美術、映像、演劇、ミュージカル、エンターテイメント小説・・・。
 そして文を書いて見せる、動画・写真映像を見せる、イラストを描いて見せるツールが広がって、多くの人がブログで文を書き、撮った写真や動画を見せる。子供へのアンケートでは将来つきたい職業の1位が「You Tuber」である。

 人間が考えることのほとんどのことは古代までにやってしまっている。人間は科学の先の先を進めていくだろうが、それは知識であって、おおよそ普通の生活で起こってくることで考えることはもう古代に言い尽くされている。聖書あり、論語あり、経典ありである。もちろん親鸞、ルソー、モンテスキュー、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、カント、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル、小林秀雄、吉本隆明、と言っていくこともできるが、おおよそのことは言い尽くされている。ぼくらは過去の人が考えたことを参考にして思考していくだけで、それが人間の歴史の積み重ねということなのだろう。

 ブログの登場でなんと人は「自己表出」をしたいものかと驚く。「ひとりごと」さんのブログを読むと、ガンガン勢いが増していってどれだけ読んでも終わらない、けど書く、という熱情である。

 みんな田山花袋よりは文はうまくなっていると言いたかったのだが、何かもうひとつ言えてないなあ。
 ブログはこれで終わってもいいのである。自分が編集長なのだから。