25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

百坪時代

2017年12月12日 | 社会・経済・政治

 今年は台風も近くを通ったことで、渡利牡蛎がうまく育つったようだ。「オトト」には殻つき牡蛎が箱詰めで並んでいる。去年は「台風が来なんだんで、あかん」と養殖業者はこぼしていた。台風の波で湖の水が入れ替わるのが望ましいらしい。

 現在庭の山茶花の花は満開である。金魚とメダカは動かずにひっそりとしている。一度年内に水替えしておこうか、と考えているところである。

 人口減少時代が始まった。ひしめきあって家を建てる時代も終わった。むしろレンタルの時代になりつつある。一世帯の宅地が百坪もあれば上等で、広すぎる物、大きすぎるものが敬遠されている傾向である。

 百坪あれば野菜作りも庭でのバーベキューもできる。車もおける。これから土地を買う人も百坪くらいで買えればよいと思う。だんだんと地方はそうなっていくだろう。大都会ではとても効率的な家やマンションがレンタルされることだろう。家を建ててもいずれ誰かが壊さなければならない。次の代やその次の代に負の遺産となってしまう可能性がある。これはとても重要なことで、不動産が価値をもたず、また不動産に縛られない社会が現出しているということだ。

 銀行も不動産の価値で融資がしにくくなっていることだろう。

 いずれは尾鷲にも中層か高層の公のマンションができ、浦村の限界集落に住む人々が尾鷲駅あたりに集まる、という効率的な暮らしができるようになるのではないか。車も維持費は高いから、どこでも乗れてどこでもおりることができる交通網が出来上がることだろう。限界集落は新産業の基地とか、賃貸型別荘の村などになっていくのではないか。

 このような方向性作りは市民が決めていくことである。

 とにかく百坪もつことの意味は大きい。いざのときの自給自足の助けにもなる。それは安心感を与える。人間は「安心」の方向に流れると思うが、やはり政治や行政がしようとすることに反対も出てくるものだ。それをあきらめてはならない。理念があれば人間はその理念の方に方向づけるものだから。