25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

介護という問題

2016年07月29日 | 社会・経済・政治

  今から20年前に、「介護のマニュアル」を作るお手伝いをしたことがある。吉本隆明の主宰する雑誌「試行」に田原克拓という人が映画論を書いていて、その名を覚えていた。東京で仕事の関係で会う機会を得た。田原さんのやっている「性格教育センター」の名前を変えろと、提案した。それで「ポルソナーレ」となった。ポルソナーレとなったのを機に、東京都に助成金の申請をして4000万円を得た。新技術と認められたのである。当時、介護施設があちこちに建設中であった。つまり箱物である。僕らは箱物を作っていき、その中に人を入れていくという日本のやり方に相当不信感をもっていた。ソフト面。つまり、介護する側が落ち着いて、客観的に自分の仕事が見える、そんなマニュアル作りに挑戦したのだった。軽い気持ちで介護ヘルパーのアルバイトをしていると、心情的に接してしまい、その心情を家にまで運び、「もういつ死ぬかもわからないご老人のお世話をしていると、悲しくなってきて、哀れでも、自分は何の役に立っているのかしら」などと夫に愚痴を漏らすことにもなりかねない。

 また被介護者の中には老人性うつ病の人もいて、それが伝染するかもしれない。介護をする人は専門の知識と客観的に介護できる技量が必要であり、それがなければ、やがて介護者が被介護者をいじめたり、殺したりすることが起きるに違いない、と僕らは考えた。しかし世は介護施設の建設ラッシュで、とにかく箱物ありきであった。

 15年ほど経って、事件が起き始めた。被介護者をいじめる、傷つける、挙句は窓から落としてしまう。

 今回の相模原障害者施設殺傷事件も制度的にはその延長戦上にあるものだ。障害者の世話をする仕事についた容疑者は「世話をするということはどういうことか」「どういう態度、言動、思いやりが必要か」「自分が壊れてしまわないためにどうすればよいのか」などを学んでこなかったのではあるまいか。

 ハードとソフトは一体化していなければならない。「今日は落ち込んでいるようね」より、バイタルデータや尿、客観的に判断できることが優先されなければならない。日本はようやくソフト面を重視しなければならない時代に入ったのだと思う。あれから20年か、と思うと、進むのは遅いが、確実に前に進むのである。