25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

石原慎太郎 田中角栄 天才

2016年07月07日 | 文学 思想

 奥田英朗の「向田理髪店」を読み、石原慎太郎の「天才」を読み始めた。まだ全部読んでいない。

 先の「無理」は過疎化していく北海道の町で、市の福祉担当職員、小遣い欲しさの主婦売春、パートで働く独身女性、新新興宗教に踏み込む母子、二代目で県会議員を狙う市会議員でもあり不動産業者とキッチンドランカー、買い物症候群の妻、それに絡むヤクザ。産廃施設建設に反対する代表者女性たちの金銭的にも精神的にもどこにもいそうな低級な人々を描いていた。

「向田理髪店」は財政破綻した町から図書館も病院もなくなり、人が激減していく中で、東京からやってきた官僚が助役としてやってきて、若者たちが煽られるのを、そんなこといくらしたってダメだ、我が子には関わってほしくないという理髪店の父親を中心とする50代の仲間、町人々の間で起こる話である。

 書いていることは最もな話ばかりで、笑ってしまうのであるが、僕だって、子供たちは東京に出ているし、自立生活ができなくなったらどうしようか、と真剣に考えることもなく先延ばしにしている。

 例えば認知症で介護施設となれば、安い福祉法人は月々で10万円くらいで済むそうだが、そこは順番待ちらしい。別のNPO法人施設もあるらしいが、そこになると、2倍くらいになってしまうらしい。これは人から聞いた話で、本当かどうか知らない。

 当然、こういう最終的な段階のためのお金はとっておかなければならないことが起きるゆえに、節約志向が高まるのは当然である。

 石原慎太郎の田中角栄をモノローグ手法で書いた小説の下敷きは、大下英二のいくつかの著作であるように思える。石原慎太郎は綿密な取材をしているとは思えない。そこは小説家である。その下敷きから自分風に「おれは・・・」で始まる語りで書いている。すでに知っていることばかりだったので、小説を読む楽しさはなかった。

 権力者に昇りつめ、落ちていく田中角栄は日本政治の根拠地型の最後の政治家だと言える。その力の差は僕らの選挙地選出である衆議院議員(名前を忘れた)を比較すればわかる。選挙区に尽くして尽くして尽くしまくるという、中国型の政治家はおそらく田中角栄で日本では終わっている。まだ田中角栄を真似るようなミニ政治家もいるが、議員というのは日本全体から考えなければならない弘兼憲史の漫画「加治隆介の義」的な傾向に変わったのである。石原慎太郎がどのような視点から、小説家としてどのように自分の中で通過させるのか、その点に興味があって、知り合いから、「これ貸すから」と渡されて読み始めたのだった。だいたい明日にはわかることだろう。

 石原慎太郎の裕次郎を描いた「弟」にはとても不満が残った。彼は、なぜ弟がアル中になっていったのか、その飲み方の異常性については書かなかった。僕は一番肝心なことに思え、そこには家族の何か秘密めいたものがあるような気がするのだが、石原慎太郎はすっぱりとその点は無死したのだった。仲が良かっただけの弟を書いただけであった。これでは小説家と言えない、と思ったものだった。「天才」もまた不満に思うのか、その点にも関心を寄せている。