『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 30 対馬・江島氏 その1 「古60人」

2018年04月29日 | 対馬江島氏



●グーグルブックス

筑後江島氏が船による交易を行っていたのではないか、また博多商人とのルートがあったのではないかという仮説に基づいて、中世から江戸初期にかけての博多に関する史料から、江島氏の足跡を調べ始めたのですが、全く成果が有りませんでした。そこで調査方法を変えてグーグルブックスでの検索を試みてみました。

グーグルブックスの最大の特徴は本文検索が行えることです。またその収録範囲が非常に広く、時代範囲は明治期から現代まで、県史や郡史、市町村史などの書籍ももれなく網羅しています。

歴史資料が豊富な国会図書館デジタルコレクションの検索においても、せいぜい書籍の目次までしか検索できません。ある程度検討をつけた本を探し出し、さらに全ページに眼を通さなければ中身は全く分からないのです。この方法は相当に能率が悪く、無駄な労力が多すぎます。

本文検索が出来れば、江島(江嶋)姓の人物名を検索することも可能です。グーグルブックスで江島姓の人物名がある書籍を探し出し(おおよその内容とページ数が分かります)あとはその書籍を購入するか図書館で調べればよい訳です。

但し、検索する場合には複数のキーワードの選択が重要です。
江島というのは全国に同じ地名やこの二文字が入る地名が多数あるからです。

江島(江嶋)というキーワードの他に人名がヒットしそうな関連キーワードを複数入れないと、欲しい情報にはたどり着けません。先祖達の行動や時代背景を想像しながら適切と思われるキーワードを入力することが必須となります。

グーグルブックス、国会図書館デジタルコレクション共に、著作権の切れた書籍は全文を読むことが出来ますが、読み易さやブラウザの操作性は国会図書館デジタルコレクションに軍配が上がります。

グーグルブックスで読むことが出来る本文は画像も雑で、読みにくい場所があります。アメリカの大学の蔵書から読み取りを行ったものも多く、日本語が読めない人が機械的に作業を行ったのではないかと思われる節もあります。また検索で出てくる本文の一部は機械読み取りの為、旧字などは全く別の漢字に変換されていることがあります。
こうした短所も多々あるのですが、グーグルブックスでの検索は大変有効ではありました。

試行錯誤の検索をくり返しながら、ついに一冊の本を探し出しました。その書籍名は

「近世日朝通交貿易史の研究」
創文社 田代和生(著)

です。何と対馬に筑後江島氏の分流と思われる江島(嶋)氏が存在した事が分かったのです。


●対馬宗氏と古(いにしえ)60人

江戸期に対馬藩10万石として対朝鮮外交に重要な役割を果たした宗氏は、鎌倉期に筑前、肥前、豊前、壱岐、対馬の守護となった少弐氏の守護代となり初めて対馬を支配しました。

対馬は山が多く耕地が少ない為食料の自給が困難でした。九州に領地を確保することが宗氏の願いであり、宗氏は度々九州進出を試みました。主家の少弐氏とは特に深い関係にあり、忠節を尽くしました。応永15年(1408)には宗貞茂は対馬から佐賀に居所を移した事があります。

「古60人」の由来は嘉吉元年(1441)にまで遡ります。
大内氏との戦に敗れ、宗氏は家臣共々対馬に逃れます。この時家臣に与える知行地が不足した為、家臣60人に朝鮮との貿易権と領国内の商業上の特権を与えます。

貿易権は宗氏が朝鮮に派遣する船の利権の一部を与えるだけでなく、60人が私的な船を仕立て朝鮮と交易する権利も認めたものでした。家臣達は対馬に留まり御用商人となって、博多、対馬、朝鮮を往来するようになります。

その後、永正(1510〰)の頃には人数が減少し30人(30家)となります。慶長年間に人数の補充として新たに30人を追加します。中世以来宗氏とのつながりを由緒に持つ前者を「古60人」、後者を「新60人」と呼び分けました。

対馬江島氏は前者の「古60人」の中の一人でした。江島氏は対馬の厳原において、町役である年行司を務めたそうです。この本には古60人商人として、記録に残る江戸期の江島氏の名前が挙げられています。

江嶋彦右衛門   不明
江嶋奥右衛門   寛文 延宝
江嶋吉左衛門   寛文
江嶋惣左衛門   寛文
江島四郎右衛門  不明
江嶋惣右衛門   天保

この本をきっかけとして、さらに調べてみると、宗氏は江戸期まで存続した事もあって史料が多数現存すること、朝鮮外交に関わった事もあって研究者も多く、研究論文がネットで公開されている事も分かりました。
江戸期以前の対馬江島氏や筑後江島氏との関係性などは、次回にご紹介したいと思います。
  

最後に、少弐氏と宗氏と博多との関係を郷土史研究家の「吉永正春」氏が分かりやすく語られていますので、ご参考迄に、その記事を転載します。



■ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」
No.20 戦国武将と博多より転載
https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/020/01.html

西島
戦国時代というとすぐに、謙信や信玄、信長、秀吉、家康といった中央制覇をねらったエースたちの話になってしまうのですが、博多の戦国時代はどうだったのでしょう。

吉永
博多は海外貿易港で、富の拠点でしたから、西国の武将たちは博多を手に入れようと争奪戦を演じていますが、博多の市中には武威を象徴する城がつくられていません。そこに博多の特殊性があると思います。博多の戦国時代というと、地元の人たちでも、秀吉が島津征伐に来て、博多再興をはかったことぐらいしか知らないでしょう。

中村
戦国時代はいつまでを言うのですか。

吉永
普通は応仁の乱が始まった応仁元年(1467)から、秀吉が島津征伐をする天正15年(1587)までの約120年を指します。この間の博多の支配者は大別すると、文明年間の前半が大友・少弐(しょうに)の分領時代、同後半から天文20年(1551)までは大内時代、それ以後は天正6年(1578)頃までは大友時代、その間大友・毛利、大友・龍造寺の抗争を経て島津の進攻、秀吉の島津征伐となります。
 
西島
目まぐるしく支配者が変わって、大変な時代ですね。

吉永
そうです。とにかく戦国時代は、生き残るために最善を尽して競い合う。その火花が400年たってみると、ロマンでもある。戦国武将たちの人間像が生き生きとする戦国末期に、博多周辺を舞台に活躍した武将たちをとりあげてみましょう。

●博多を250年問支配した少弐氏

西島
まず少弐氏ですね。本拠は筑前大宰府ですか。

吉永
ええ。少弐氏は、藤原秀郷(ひでさと)の子孫の武藤資頼(むとうすけより)が鎮西奉行として下向し、大宰少弐に任ぜられてから、少弐を名のっています。大宰府を本拠に、筑前、肥前、豊前、壱岐、対馬まで勢力をひろげていたのですが、次第に勢いが衰え、文明10年(1478)頃には大内氏に大宰府を追われ、肥前、対馬を転々と流浪し、〝流れ大名〟といわれます。

中村
対馬では宗氏を頼るわけですか。

吉永
宗氏は少弐の守護代として、対馬島を支配した豪族で、少弐氏のため涙ぐましいほど忠誠をつくします。対馬は所領が少ないので、博多、つまり少弐氏と結びつく必要がある。逆に、少弐は朝鮮貿易のためには、宗氏の仲介がいる。お互い不可分の関係にあったといえます。

龍造寺氏も少弐の幕下で、宗氏が少弐にとって「足」であれば、龍造寺氏は「手」と言えます。龍造寺は肥前の土豪で、文治元年(1185)藤原季家(すえいえ)が佐嘉郡龍造寺村の地頭職に任ぜられてからこの姓を名のっています。

天文14年(1545)、少弐は、龍造寺が敵の大内と通じているというデマを信じて龍造寺の主だった者を惨殺したので、龍造寺は大内についてしまいます。

また宗氏にもうとまれて、少弐は文字どおり手足をもがれて動きがとれなくなる。これが少弐の衰亡を早めたと言えるでしょう。永禄2年(1559)15代少弐冬尚は龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に敗れ、滅亡します。

中村
少弐が博多を支配したのは何年間ぐらいですか。

吉永
初代資頼(すけより)から13代政資(まさすけ)まで約250年間。博多という都会が少弐の器には大きすぎたのでしょう。朝鮮との貿易にしても、鉄や綿などかなりの実績を誇りながら、権勢にあぐらをかいて民心をつかめなかった。政資の全盛期は10年程で、末路は哀れです。多久の専称寺でひっそりと果てています。その孫の冬尚(ふゆひさ)の代で滅亡します。少弐氏の墓も数個所しか所在がはっきりしていません。

転載終了


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