『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 63 違い鷹ノ羽の謎 5  江島和泉守は武力侵攻によって田原領主となったのか?

2018年09月24日 | 肥前(小国)江島氏



●古城史考説の誤り

今まで数回にわたって、小国郷史の記事全文と田原とその周辺の様子等を紹介してきましたが、今回からいよいよ真相の検証と違い鷹の羽の謎の解明に入ってゆきたいと思います。


小国郷史に書かれた田原の江島城こと矢形尾の城について「古城史考」と杖立竹原家に伝わる文書からその概要を紹介してきました。

古城史考および小国郷史では「応永年間、日田地頭日田詮永が阿蘇氏の日田侵入を防ぐ第一線として、江島和泉守に築かしめたもの」という論を述べています。
これらの史料を読み込み、傍証となる他の史料をあたる内に、一次史料となった古城史考の内容が史実とは違っていることが分かってきました。


その根拠となる事柄を列挙しますと

★江島和泉守が田原に入城したとされる応永年間には、日田詮永は死去から既に数十年が経過しており時代が合わない。

★田原の城は豊後からの侵入を防ぐには有用と思われるが、肥後からの侵入を防ぐためには位置的、地形的に戦略的な価値が認められない。肥後勢をいたずらに刺激するだけで、日田氏が田原に進出、築城するメリットが無い。

★江島氏が日田氏の配下であった根拠がない。(日田財津氏の庶家が江島姓を名乗るのは戦国時代後期)
 
★田原を含む下城地区は国境沿いの無人の緩衝地帯ではなく、古くから小国郷の国人領主が多数居住していた。また小国郷の国衆は阿蘇大宮司庶子家の支配下にあった。日田勢が進出すれば戦闘は必至である。

★江島和泉守は平和裏の内に田原に入城。半世紀以上の在城中に小競り合い無し。文明年間の頃に静かに田原を退去。

★応永年間は九州探題、今川了俊による九州平定や南北朝の統一が既に完了。菊池、阿蘇氏共に九州探題に降伏、帰順しており、探題配下の御家人日田氏と阿蘇氏の敵対関係は解消していた。

★阿蘇氏は惣領家と庶子家が対立していたが、訴訟で解決しようとしていた。九州探題は阿蘇大宮司庶子家(小国郷は庶子家の支配下)を支援していた。

以上の点から、応永期に日田氏勢力が肥後領田原に侵攻し築城を行う事は、新たな戦乱の火種を作る事であり、日田氏が臣従する足利将軍に弓引く行為となります。地理的に大友氏と阿蘇氏に挟まれながら、室町幕府の小番衆となる事によって独自の立ち位置を保持して来た日田氏が、「古城史考」が述べるような、軽率な軍事行動をとるとは到底考えられないのです。



●三寺院の考察

杖立文書を読むうちに、不可解な事実に気がつきました。それは田原という狭い地域に三つの寺院が存在していたという事実です。

一の寺は城主の居館の上に在る真言宗高野山末寺、五角山雲山寺専林院。
二の寺は「北原」の向いにある江島和泉守の寺、天台宗鳥巣山向林寺幸林院。
三の寺は宗派名が書かれてない北原の金角山円林寺法春院。

これら三つの寺の位置関係と他の史料を検証することによって、小国郷田原の当時の状況を伺い知る事が出来るのです。

第一の寺、「雲山寺」は真言宗という事から阿蘇流北条氏の菩提寺「満願寺」(真言宗)との関係が容易に想像できます。寺のある場所は城主の居館がある「上屋形野」の上です。城主が帰依する寺であればこそ、聖なるものとして自分の居館より高い場所に寺院を配置するのは当然の理です。

しかしながら和泉守が帰依する第二の寺「天台宗向林寺」は城山の麓の低地、「北原」の向いにありました。北原の向いとは、道などを挟んで北原に面していたという事です。
向林寺は和泉守が田原に在城してから建立されたと思われます。

第三の寺、円林寺は金角山という山号から、上屋形野の上に在ったという五角山雲山寺との名前の類似性において、同じ宗派、真言宗の寺と思われます。

文明九年(1477)の阿蘇大宮司宇治惟家発行の満願寺への安堵状によれば、時を遡る事約140年前から、円林寺のある「北原」は満願寺の所領でした。つまり円林寺も満願寺系の寺という事が証明出来ます。

寺名を考察しますと
  雲がかかる山上にあるから雲山寺。
  円林寺とは周囲を林に囲まれた寺。
  その林に向かって建つのが和泉守の寺で向林寺。


円林寺は満願寺領、北原の寺という事が明白です。そこで円林寺を除いても、田原に二つの寺が併存したというのは不自然です。
和泉守が武力を背景に田原に侵攻して来たのであれば、館の上の寺の僧侶を排除して、天台の僧侶を迎えるか、寺を取り壊して新しい寺をその地に作ればよい訳です。

しかしながら、元々山上にあった雲山寺に遠慮して、自分の寺向林寺は低地に建て、北条氏の菩提寺満願寺に敬意を表して、自分の寺の正面を円林寺に向けていたのでしょう。和泉守の謙虚さと国衆への細やかな配慮が伺えるような気がします。


●平和裏に行われた田原の領主交代

「Vol 61 江島城址と阿蘇流北条氏」に現存する田原神社を紹介しました。
この神社が何時頃から存在するかは不明ですが、鳥居横の巨大な神木から推測すれば、かなり昔から存在したのではないでしょうか。

小国郷には北条氏が移ってくる以前から清和源氏を自称する「北里氏」がいました。北里氏は北条氏の移住によって勢力範囲を変えますが、和泉守の時代の下城は北里氏や阿蘇流北条氏等多くの氏族が入り混じって国衆を形成していました。

また姻戚関係によって、これらの国衆の調和が取られていたと考えられます。
そして田原神社は田原地区を領した一族の産土神社(氏神)として大切に守られてきた事でしょう。

江島氏が田原に定住した時から退去する間、小競り合いや争いも無かったというのは、話し合いの上で、領主の交代が成されたという証ではないでしょうか。

田原の領民や舘、城、寺等を前領主からそのまま受け継ぐ、今風に言えば「居抜き」という形で和泉守が新領主として田原に収まったのではないかと考えます。また在城にあたっては、阿蘇氏や満願寺との間に、ある約定が取り交わされていたのではないかとも推察しています。
そうであれば二つの寺院が狭い領内に存在する理由や、国衆や阿蘇氏の抵抗が無かった事が説明できます。


●「下城田原神社」と「満願寺・田原神社」二つの神社の関係

そして、領主交代を示している証拠が「ひぼろぎ逍遥」さんの田原神社の記事中にある熊本県神社誌の画像です。画像からは、田原神社、小国町満願寺7397(現在は南小国町満願寺)という文字が確認できます。

満願寺には田原(たばる)という地名は無いようなので、下城田原の田原神社が元社で満願寺の田原神社は分社ではないかと考えられます。
(勿論、田原の田原神社の成立時期が応永期以前であり、満願寺の田原神社の創建が応永期である事が証明されなければなりませんが・・・)

満願寺の田原神社の祭神は菅原道真公ですが、下城の田原神社も社殿の飾りの牛の彫り物がある事から、同じく菅公を祀る神社であると考えられます。
【牛は天神様(菅公)のお使い(神使)と考えられている】

田原の先住領主が領地を江島和泉守に領地を明け渡し、満願寺領内に移住した際、寺はともあれ、氏神だけは移住先の神社でという訳にはいかず、分社して新領地に祀ったのではないかと私は考えています。


●【参考記事】
  下城田原神社社殿の「丸に篠笹紋」について

本題とは直接関係有ありませんが、「ひぼろぎ逍遥」さんの記事にある、下城田原神社の社殿の「丸に篠笹」紋については、小国郷の国人領主、北里氏由来の紋だと私は考えます。

北里氏は清和源氏二代「源満仲」の次男、「源頼親」を始祖と称する氏族です。鎌倉期に頼親の子孫が小国郷北里に定住したとされています。九州は源氏の流れを組む氏族は大変少ないので、まず間違いなく北里氏由来だと考えて良いでしょう。

註※北条氏は桓武平氏高望流の平直方を始祖とし、伊豆国田方郡北条を拠点とした在地豪族。従って阿蘇流北条氏の出自は平氏。

北里氏は代々阿蘇氏に仕え、阿蘇氏滅亡の後は、加藤清正に帰農を勧められ、江戸期は小国郷の惣庄屋や庄屋を務め明治に至ります。現在の社殿に建て替えられるとき、社殿を寄進した村人が北里氏の後裔であったから、あるいは創建時から北里氏に縁ある神社ではなかったかと推測します。

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では、江島和泉守を小国に遣わしたのは誰なのか、そして江島和泉守は筑後江島氏なのか?

続きは次回で。


★違い鷹ノ羽の謎



その1 何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか?
その2 何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか?
その3 何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州5県に拡がったか?


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