『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 34 対馬・江島氏 その4 対馬、筑後の交易ネットワーク 

2018年05月06日 | 対馬江島氏




閑話休題

宗氏の替紋「丸に平四ツ目」が筑後江島氏の定紋と同じであった事。対馬・江島氏が古(いにしえ)60人と呼ばれる、宗氏の御用商人であった事。朝鮮語に堪能な事から朝鮮の役では従軍通詞として活躍した事をVol30,31, 32でご紹介しました。

今回は文禄の役(1592)よりも20年遡って元亀3年(1572)の対馬・江島氏の活躍が伺える史料をご紹介します。

●朝鮮送使国次之書覚(ちょうせんそうしくになみのしょおぼえ)

この覚書は元亀3年(1572)から天正3年(1575)三月迄の、朝鮮渡航の船隻を記録したもので、朝鮮通交の名義人や実際の行使者名が記されています。

●新国史大年表 日置 英剛 編集
 第4巻 p671 p672より抜粋

是の年閏二月から四月に対馬から朝鮮に渡った船々

―中略―

同月二十四日に以上船数七隻渡海候、両御奉行より召され候て、船の見様、御指南を得候。
船数の事。

一、 古屋惣左衛門
一、 江嶋善左衛門
一、 阿比留三郎右衛門
一、 三川藤神助
一、 長富玄播助
一、 財部木工助
一、 神埼善右衛門

是れ七両五奉行御逗留の内なり

―中略―
一、三月廿四日。日本国肥前州田平源兼の印、御西の御印なり。御使桜本左衛門佐乗り渡る。船大船なり。
一、 四月五日。筑前州 平盛親(注・宋盛親 宗氏は平姓)、江嶋助左衛門乗り渡る、船大船なり。
一、同五日。古東嶋兵庫頭親忠の印、佐須兵部少輔殿送使なり、上官人江嶋又右衛門乗り渡る。
       ※印:朝鮮国王が与えた修好の印

以上

この時の七隻の船主の一人に江嶋善左衛門の名があり、二隻にそれぞれ江島氏の名があります。おそらく助左衛門は善左衛門の代行として船に乗り込んだのでしょう。又右衛門は上官人とありますので、役人として乗り込んでいます。(有力商人が代官となる事もありました)二人が荒波の玄界灘を颯爽と乗り渡る様が眼に浮かぶようです。

御用商人達に与えられた特権には送使船一隻につき、宗氏が行う公的取引から最大800両(現在の金額換算で約1億円)の利益が自動的に得られたと言います。同時に私的貿易を行う事が許されていますから、一航海で、さらにその数倍もの利益があったと言われています。

ちなみに江戸初期には対馬藩は公的取引で年間15万両の利益を挙げました。朝鮮との貿易は宗氏と商人達に巨額の利益をもたらしたのです。


朝鮮送使国次之書覚が書かれた、元亀3年とは織田信長が浅井長政を攻め滅ぼし、武田信玄が遠江、三河を攻撃し徳川家康を攻めた年です。まさに戦国真っ只中、織田信長、武田信玄、上杉謙信が活躍していた時代であり、九州では大友宗麟、島津義久の時代です。

永禄七年(1564)の下田城攻めの記録に筑後江島氏の名前が登場し、元亀3年(1572)から6年後の天正6年(1578)春に、天下布武を目指す織田信長が九州攻略の為、九州の諸大名や城主を調べさせた時の文書に、大名格の国人領主等と共に筑後国三潴郡江島城主「江嶋修理亮鎮村(しゅりのすけしげむら)の名が登場するなど、この頃から江島氏の記録が増えていきます。

これらの事象はこの時期、筑後江島氏が力を蓄えて、それなりの勢力を持ち始めたという証でもあります。その背景には対馬・江島氏との商業ネットワークによる輸出入品の売買、貿易事業への投資による利益の蓄積が潤沢な軍資金となって、武具や馬、船を揃え、多くの将兵を養う事が出来るようになったのではないかと推測しています。

信長の楽市楽座をはじめ、有力大名が自国内の商業振興を奨励し国力と軍事力を増大させたように、筑後の一国人領主も乱世の生き残りを賭けて、知恵を絞り汗を流して一族の力を増強拡大させていったのではないでしょうか。



※Vol 33 「九州各県・江島さんの氏族と家紋」の佐賀県の文章が説明不十分であったため、一部修正しました。
 

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Vol 32 対馬・江島氏 その3 少弐・宗・江島と目結紋

2018年05月02日 | 対馬江島氏



平安期において、江島の対岸神崎庄に宋船が出入りし、日宋貿易が平氏によって行われ、平氏隆盛の礎を築いた事は過去記事で述べました。中国との貿易が中央の権力者によって統制されるまでは、筑後川沿岸の諸氏が私的に大陸との交易を行い繁栄していた事は史実に明らかです。

現代の我々が想像する以上に、古代の人々は大陸との交流を行っていたようです。このような経緯から、中世には外洋を航海する操船技術を持つ海人達の子孫が筑後川沿いには点在しており、各地と船での交易を積極的に行っていたようです。

対馬の宗氏と筑後との関係を示唆する好例として、今回は対馬家家臣の柳川氏をご紹介します。
柳川氏の名は徳川幕府をも巻き込んだ、対馬藩のお家騒動、「柳川一件」の当事者として知られています。この事件については話が長くなるので下記記事をご参照ください。

●大名騒動録 柳川一件
http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-yanagawa.html


さて、私が注目したのは柳川氏の出自と肥前における動向です。

●「宗氏重臣になるまでの柳川氏について」 村瀬達郎 
 ゆけむり史学第3号(2009)より抜粋、一部修正

(宗氏家譜略によると)
柳川氏の父祖は筑後柳川の出身であり、対馬を行き来していた。また柳川氏は兄弟で対馬に渡り、兄弟共に津奈弥八郎調親に仕えた。

兄の式部(後に調長と改名)は調親に子息がなかった為に養子となった。弟の甚三郎(後に調信(しげのぶ)と改名)は調親の末娘を妻とした。

甚三郎は外国の物資を貿易し、日本各地交易して生計を立てていた。甚三郎は調親の家臣として佐賀村の柳河右馬助調正(対馬の柳川氏とは氏族が違う)という人物と縁を持ち、肥前を通じて朝鮮の貿易品を日本各地に流通させていたようである。

しかし、津奈弥八郎調親が当主の宗義調に謀反を起こした後は、佐賀村の柳河右馬助の養子となり、氏を柳川に改めている。そして義父調親の罪を謝罪し、妻の血筋が宗氏であった為に宗義調(そうよししげ)に仕えるようになった。


抜粋終了

対馬の朝鮮貿易は基本的に物々交換であったようです。したがって朝鮮からの貿易品を売りさばく必要があり、多くの商人たちが対馬と九州を往来した様子が見えてきます。また対馬の古60人の商人達も自ら朝鮮との貿易品を日本国内で売り、また輸出品である日本の特産品を買い付ける必要があり、博多津や肥前を重要拠点としていたようです。

この記録から推測しますと柳川氏は筑後と対馬を往来し、商売を行っていたようです。

また甚三郎が佐賀村の柳河右馬助調正と縁を持ったのは、宗氏が古くに肥前に居を移して以来のネットワークがすでに構築されていたからとも推測出来ます。
また肥前は古くから江戸期にかけて、宗氏にとっても重要な販路でありました。


さて江島氏が宗氏の家臣となった経緯については、史料がないので推測の域は出ないのですが、私は次のように考えています。

「筑後誌略」に「江島與兵衛(よひょうえ)三潴郡江島村の人、相伝ふ少弐の末也」と記述があります。江島氏は少弐の末裔という世間の認識があった事を表しています。江島氏は本来藤原姓高木氏の庶流ですが、少弐氏が元寇以来筑前、筑後、肥前に強大な支配力を持つに従って、少弐氏の一門から養子を迎え入れる等、積極的な接近策を取ったようです。その一つの証拠として家紋があげられます。


肥前高木氏の家紋は「十二日足」という日足紋を使用していました。日足とは太陽が輝く様子を紋章化したもので、現在の「旭日旗」や「軍艦旗」の基となったものです。


肥前高木氏 「十二日足」

草野氏、龍造寺氏、上妻氏など高木氏の庶流は形象を少し変えた「日足紋」を使用していました。


草野氏 「十二日足」

では江島氏はどうであったのか、「都道府県別姓氏家紋大事典」西日本編によると、福岡の江島氏(筑後高木氏族)は「丸に四ツ目」の目結(めゆい)紋を使用していたようです。





筑後江島氏 「丸に四ツ目」※丸に平四ツ目、丸に隅立四ツ目

おそらく江島氏は少弐氏との関係が深まるにつれて、当初の日足紋を目結紋に代えたのでしょう。この家紋が江島氏は少弐の末という人々の認識を形成したものと思われます。


少弐氏の家紋(定紋)は「寄懸り目結(よりかかりめゆい)」、別名「隅立て四ツ目」を使用していました。少弐氏「藤原姓秀郷流」の庶流である筑紫氏も定紋は「隅立て四ツ目」です。


少弐氏 筑紫氏 宗氏 「隅立て四ツ目」(別名:寄懸り目結)

筑後江島氏の隠し里と推察される、肥前江島村の周囲は筑紫氏や少弐庶流の朝日氏の領地でした。少弐一門の印「目結紋」は、村の平和を守るために効力があったのかもしれません。


また、本来は「桓武平氏知盛流」であるはずの宗氏の定紋は「隅立て四ツ目」替紋は「丸に平四ツ目」です。つまり主家の家紋を賜った訳です。これからも少弐氏と宗氏の深い関係が伺えます。

宗氏のもう一つの家紋(替紋)「丸に平四ツ目」は少弐氏の軍勢と並んだ時に、主家への遠慮と両家の区別をつけるために使用したと思われますが、これは何と江島氏の「丸に四ツ目」と同じ家紋なのです。


宗氏 「丸に平四ツ目」 

江島氏と少弐氏の関係。少弐氏と宗氏との関係。江島氏と肥前との関係。江島氏の特技の操船技術、海との関り。等を考えれば両者が如何に近い関係であったかが分かります。江島庶家のひとつが宗氏と出会い、仕官したとしても何の不思議はありません。その機会は常時あったと思われます。

江島姓の人名が宗氏の記録に現れるのは永正期(1504~1521)からのようですが、宗氏の家臣となった時期は古60人の由来通り、嘉吉元年(1441)以前ではないでしょうか。


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Vol 31 対馬・江島氏 その2 朝鮮の役、従軍通詞

2018年05月01日 | 対馬江島氏

月岡芳年 正清三韓退治・晋州城合戦の図


「近世日朝通交貿易史の研究」における「古60人」の1家に数えられる対馬江島氏の記述は、後の調査に大いに役立ちました。同書の記述から、多くの検索ワードを推定でき、多くの研究者の方たちの著書や研究論文がある事も、また論文の一部はオープンアクセスで閲覧できる事も分かりました。そして、それらの著書や論文から、新たな江島氏の名前や貴重な傍証を発見することも出来ました。

もちろん、江島氏について詳述されている訳ではないのですが、時代背景や出来事から戦国末期から江戸時代にかけての筑後江島氏の動きが明確になってきたのです。

古60人と呼ばれた商人達は朝鮮との交易を通じて、朝鮮語に通じ、また現地事情に詳しい事から、江戸期には朝鮮使節団の来訪にあたって通詞として選ばれることが多々あったようです。時代が遡りますが、文禄期、慶長期の豊臣秀吉の朝鮮出兵において、従軍通詞として活躍しています。


まずは文禄の役の陣立ての史料からご紹介しましょう。


■【文禄の役】 1592年5月~93年7月

1592(天正20)年3月13日、秀吉が朝鮮出兵の陣立て発令。
名護屋城に全国諸大名から25万の兵を集める。


【文禄の役の編成 158,700人】    ※江島姓以外の日本人通詞の氏名は省略

★第一軍 18,700人
宗義智(先導役 5,000)、  通詞10人「江島彦兵衛」

小西行長(7,000)           通詞3人           
有馬晴信(2,000)、 
大村喜前(1,000)
五島純玄(700)

★第二軍 22,800人
加藤清正(10,000)           通詞3人
鍋島直茂(12,000)
相良頼房(800)

★第三軍 11,000人
黒田長政(5,000)          通詞2人
大友義統(6,000)

★第四軍 14,000人
毛利吉成(森吉成)(2,000)      通詞2人
島津義弘(10,000)
高橋元種(2,000)
島津豊久、伊東祐兵、秋月種長

★第五軍 25,000人
福島正則(4,800)            通詞4人
戸田勝隆(3,900)
蜂須賀家政(7,200)
生駒親正(5,500)
長宗我部元親(3,000)
来島通総・来島通之(700)

★第六軍 15,700人
小早川隆景(10,000)         通詞3人
安国寺恵瓊(小早川陣内)       
小早川秀包(1,500)
立花宗茂(2,500)、高橋直次(800)
筑紫広門(900)

★第七軍 30,000人
毛利輝元(30,000)           通詞1人

★第八軍 (対馬在陣)10,000人
(総大将)宇喜多秀家(10,000)     通詞3人
岡豊前守(宇喜多秀家陣内)      
長船紀伊守(宇喜多秀家陣内)     

★第九軍(壱岐在陣) 11,500人    
豊臣秀勝(8,000)、細川忠興(3,500)   通詞配属なし

★水軍
早川長政               通詞4人
毛利重政                
一柳直盛                
服部一忠                

★名護屋(順次参戦)
伊達政宗               通詞1人
石田三成(三奉行、七人衆)      通詞3人
大谷吉継(三奉行、七人衆)      通詞2人
増田長盛(三奉行、七人衆)      通詞3人
長谷川秀一(七人衆)         通詞2人
木村重茲(七人衆)          通詞2人
前野長康(七人衆)          通詞1人「江島喜兵衛」
浅野長政               通詞1人
他6名                通詞6人         

                  
  【日本人通詞 総計56人】 ※他に朝鮮人通詞5人
               

参考:「高麗へ罷渡人数事」(小早川家文書)
   「対馬藩の朝鮮語通詞」 田代和生


宗義智は10人の通詞を従えており、その中に「江島彦兵衛」の名前が見えます。宗義智は先導役でもあり、また義父の小西行長と共に朝鮮、明との交渉を行う外交担当でした。宗氏専属通詞10人は古60人(実際は当時30家くらいに減少)の中でも、外交交渉の通訳も出来る卓越した語学力、現地の地理や情勢に精通し、豊富な人脈を持つ者達が選ばれたものと思われます。

名護屋に配属された通詞の中に前野長康の専任として「江島喜兵衛」の名が見えます。三奉行や七人衆に多くの通詞が配置されています。三奉行や七人衆は秀吉の子飼い又は恩顧の諸将であり、秀吉の手足として作戦本部的な役目を果たしていました。その役目を補佐するために、朝鮮の現地事情に詳しい者が選ばれ、アドバイザー的な役割も果たしていたと推察できます。

日本軍の朝鮮渡海作戦にあたっては第一軍の渡海だけでも約600隻の船が動員されています。古60人は軍船や輸送船、乗組員の確保にも奔走したことでしょう。

過去記事でも少し触れましたが、第6軍には立花宗茂と実弟の高橋直次が率いる軍勢があります。この高橋直次の与力として蒲池氏家臣の江島氏が加わっていた可能性と、第2軍の鍋島直茂配下、後藤家信の家臣、江島左近允(さこんのじょう)信秀の一門も参戦した可能性は非常に高いと見ています。


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Vol 30 対馬・江島氏 その1 「古60人」

2018年04月29日 | 対馬江島氏



●グーグルブックス

筑後江島氏が船による交易を行っていたのではないか、また博多商人とのルートがあったのではないかという仮説に基づいて、中世から江戸初期にかけての博多に関する史料から、江島氏の足跡を調べ始めたのですが、全く成果が有りませんでした。そこで調査方法を変えてグーグルブックスでの検索を試みてみました。

グーグルブックスの最大の特徴は本文検索が行えることです。またその収録範囲が非常に広く、時代範囲は明治期から現代まで、県史や郡史、市町村史などの書籍ももれなく網羅しています。

歴史資料が豊富な国会図書館デジタルコレクションの検索においても、せいぜい書籍の目次までしか検索できません。ある程度検討をつけた本を探し出し、さらに全ページに眼を通さなければ中身は全く分からないのです。この方法は相当に能率が悪く、無駄な労力が多すぎます。

本文検索が出来れば、江島(江嶋)姓の人物名を検索することも可能です。グーグルブックスで江島姓の人物名がある書籍を探し出し(おおよその内容とページ数が分かります)あとはその書籍を購入するか図書館で調べればよい訳です。

但し、検索する場合には複数のキーワードの選択が重要です。
江島というのは全国に同じ地名やこの二文字が入る地名が多数あるからです。

江島(江嶋)というキーワードの他に人名がヒットしそうな関連キーワードを複数入れないと、欲しい情報にはたどり着けません。先祖達の行動や時代背景を想像しながら適切と思われるキーワードを入力することが必須となります。

グーグルブックス、国会図書館デジタルコレクション共に、著作権の切れた書籍は全文を読むことが出来ますが、読み易さやブラウザの操作性は国会図書館デジタルコレクションに軍配が上がります。

グーグルブックスで読むことが出来る本文は画像も雑で、読みにくい場所があります。アメリカの大学の蔵書から読み取りを行ったものも多く、日本語が読めない人が機械的に作業を行ったのではないかと思われる節もあります。また検索で出てくる本文の一部は機械読み取りの為、旧字などは全く別の漢字に変換されていることがあります。
こうした短所も多々あるのですが、グーグルブックスでの検索は大変有効ではありました。

試行錯誤の検索をくり返しながら、ついに一冊の本を探し出しました。その書籍名は

「近世日朝通交貿易史の研究」
創文社 田代和生(著)

です。何と対馬に筑後江島氏の分流と思われる江島(嶋)氏が存在した事が分かったのです。


●対馬宗氏と古(いにしえ)60人

江戸期に対馬藩10万石として対朝鮮外交に重要な役割を果たした宗氏は、鎌倉期に筑前、肥前、豊前、壱岐、対馬の守護となった少弐氏の守護代となり初めて対馬を支配しました。

対馬は山が多く耕地が少ない為食料の自給が困難でした。九州に領地を確保することが宗氏の願いであり、宗氏は度々九州進出を試みました。主家の少弐氏とは特に深い関係にあり、忠節を尽くしました。応永15年(1408)には宗貞茂は対馬から佐賀に居所を移した事があります。

「古60人」の由来は嘉吉元年(1441)にまで遡ります。
大内氏との戦に敗れ、宗氏は家臣共々対馬に逃れます。この時家臣に与える知行地が不足した為、家臣60人に朝鮮との貿易権と領国内の商業上の特権を与えます。

貿易権は宗氏が朝鮮に派遣する船の利権の一部を与えるだけでなく、60人が私的な船を仕立て朝鮮と交易する権利も認めたものでした。家臣達は対馬に留まり御用商人となって、博多、対馬、朝鮮を往来するようになります。

その後、永正(1510〰)の頃には人数が減少し30人(30家)となります。慶長年間に人数の補充として新たに30人を追加します。中世以来宗氏とのつながりを由緒に持つ前者を「古60人」、後者を「新60人」と呼び分けました。

対馬江島氏は前者の「古60人」の中の一人でした。江島氏は対馬の厳原において、町役である年行司を務めたそうです。この本には古60人商人として、記録に残る江戸期の江島氏の名前が挙げられています。

江嶋彦右衛門   不明
江嶋奥右衛門   寛文 延宝
江嶋吉左衛門   寛文
江嶋惣左衛門   寛文
江島四郎右衛門  不明
江嶋惣右衛門   天保

この本をきっかけとして、さらに調べてみると、宗氏は江戸期まで存続した事もあって史料が多数現存すること、朝鮮外交に関わった事もあって研究者も多く、研究論文がネットで公開されている事も分かりました。
江戸期以前の対馬江島氏や筑後江島氏との関係性などは、次回にご紹介したいと思います。
  

最後に、少弐氏と宗氏と博多との関係を郷土史研究家の「吉永正春」氏が分かりやすく語られていますので、ご参考迄に、その記事を転載します。



■ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」
No.20 戦国武将と博多より転載
https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/020/01.html

西島
戦国時代というとすぐに、謙信や信玄、信長、秀吉、家康といった中央制覇をねらったエースたちの話になってしまうのですが、博多の戦国時代はどうだったのでしょう。

吉永
博多は海外貿易港で、富の拠点でしたから、西国の武将たちは博多を手に入れようと争奪戦を演じていますが、博多の市中には武威を象徴する城がつくられていません。そこに博多の特殊性があると思います。博多の戦国時代というと、地元の人たちでも、秀吉が島津征伐に来て、博多再興をはかったことぐらいしか知らないでしょう。

中村
戦国時代はいつまでを言うのですか。

吉永
普通は応仁の乱が始まった応仁元年(1467)から、秀吉が島津征伐をする天正15年(1587)までの約120年を指します。この間の博多の支配者は大別すると、文明年間の前半が大友・少弐(しょうに)の分領時代、同後半から天文20年(1551)までは大内時代、それ以後は天正6年(1578)頃までは大友時代、その間大友・毛利、大友・龍造寺の抗争を経て島津の進攻、秀吉の島津征伐となります。
 
西島
目まぐるしく支配者が変わって、大変な時代ですね。

吉永
そうです。とにかく戦国時代は、生き残るために最善を尽して競い合う。その火花が400年たってみると、ロマンでもある。戦国武将たちの人間像が生き生きとする戦国末期に、博多周辺を舞台に活躍した武将たちをとりあげてみましょう。

●博多を250年問支配した少弐氏

西島
まず少弐氏ですね。本拠は筑前大宰府ですか。

吉永
ええ。少弐氏は、藤原秀郷(ひでさと)の子孫の武藤資頼(むとうすけより)が鎮西奉行として下向し、大宰少弐に任ぜられてから、少弐を名のっています。大宰府を本拠に、筑前、肥前、豊前、壱岐、対馬まで勢力をひろげていたのですが、次第に勢いが衰え、文明10年(1478)頃には大内氏に大宰府を追われ、肥前、対馬を転々と流浪し、〝流れ大名〟といわれます。

中村
対馬では宗氏を頼るわけですか。

吉永
宗氏は少弐の守護代として、対馬島を支配した豪族で、少弐氏のため涙ぐましいほど忠誠をつくします。対馬は所領が少ないので、博多、つまり少弐氏と結びつく必要がある。逆に、少弐は朝鮮貿易のためには、宗氏の仲介がいる。お互い不可分の関係にあったといえます。

龍造寺氏も少弐の幕下で、宗氏が少弐にとって「足」であれば、龍造寺氏は「手」と言えます。龍造寺は肥前の土豪で、文治元年(1185)藤原季家(すえいえ)が佐嘉郡龍造寺村の地頭職に任ぜられてからこの姓を名のっています。

天文14年(1545)、少弐は、龍造寺が敵の大内と通じているというデマを信じて龍造寺の主だった者を惨殺したので、龍造寺は大内についてしまいます。

また宗氏にもうとまれて、少弐は文字どおり手足をもがれて動きがとれなくなる。これが少弐の衰亡を早めたと言えるでしょう。永禄2年(1559)15代少弐冬尚は龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に敗れ、滅亡します。

中村
少弐が博多を支配したのは何年間ぐらいですか。

吉永
初代資頼(すけより)から13代政資(まさすけ)まで約250年間。博多という都会が少弐の器には大きすぎたのでしょう。朝鮮との貿易にしても、鉄や綿などかなりの実績を誇りながら、権勢にあぐらをかいて民心をつかめなかった。政資の全盛期は10年程で、末路は哀れです。多久の専称寺でひっそりと果てています。その孫の冬尚(ふゆひさ)の代で滅亡します。少弐氏の墓も数個所しか所在がはっきりしていません。

転載終了


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