『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 1 ようこそ江島氏物語へ

2018年02月07日 | 江島氏



筑後江島村本家家紋  五つ木瓜に剣花菱 



筑後江島氏家紋    丸に隅立四ツ目


ようこそ、『江島氏物語』―通史に無い歴史物語 筑後江島氏とその庶流― にご訪問いただきまして有難うございます。管理人の下総国の住人、下総介甫康(しもうさのすけ うらやす)です。

●江島とは

中世の地名「筑後国三潴庄西郷江島邑(村)(みずまのしょう、さいごう、えしまむら)」
江島村は筑後江島氏発祥の地です。
そして現在の住所は「福岡県久留米市城島町江島」です。

江島の地名は鎌倉時代初期から文献に登場します。
明治以降の市町村合併によって、江島村は青木村、城島町、久留米市と名前を変え、現在は久留米市城島町の大字名にその名を残しています。
市町村合併や安易な町名変更によって、由緒ある古い地名が全国的に消滅していますが、四郎丸、青木島、青木等々、江島氏ゆかりの古い地名が現在も残っているのは大変幸運な事です。地名は「歴史のタイムカプセル」と言われます。その地名『江島』を姓とする貴方は、その名に800数十年の歴史を共有しているとも言えるでしょう。

●筑後江島氏とは
 
後に詳しく述べてまいりますが、筑後江島氏は平安末期から鎌倉初期頃に、千年川(筑後川)の砂州を開拓し、肥前国佐嘉郡高木村(現:佐賀市高木瀬町)から移り住み、その土地を江島と命名して、江島氏を名のります。以後、筑後江島氏は江島村、四郎丸村の二村を本貫とする国人領主として江戸時代の初めまで、約400年間武門の家を守ってきました。

江島氏は刀伊入寇(寛仁3年1019)で武名を轟かした、大宰権帥(だざいのごんのそつ)中納言藤原隆家を祖と称する肥前高木氏の庶流(分家)です。したがって本姓は藤原です。高木宗家、草野氏、北野氏、上妻氏などからなる高木党の一員として、守護大名の少弐(武藤)氏に仕え、後に大友氏、竜造寺氏、立花氏と主家を変えながら筑後の国衆として戦国末期まで存続しました。
筑後江島氏はその出自を中関白流とも少弐流とも自称していました。

豊臣秀吉の九州仕置きと兵農分離政策によって、筑後江島氏は大きな転換点を迎えます。秀吉の朝鮮出兵、関ケ原の戦いという大きな流れの中にも巻き込まれ、最大のピンチを迎えます。そして徳川の世となり、筑後江島氏は先祖伝来の土地を離れ有力大名の家臣として臣従するか、武士の身分を捨て商人や農民となるかの選択を迫られます。しかし江島一族は400年の歳月の中で培ってきた知恵と技能と才覚で、果敢に未来を切り開いていくのです・・・

中世における九州の歴史は源平の戦い、元寇、南北朝の戦い、戦国時代と、戦いに次ぐ戦いの歴史です。これらの戦の中でどれだけの氏族が滅亡していったことでしょうか。幸いな事に筑後江島氏と庶流の各家は一族滅亡の悲劇を味わうことなく、現在に至っています。今あらためて先祖たちの足跡を辿ってみると、良くぞ長きに渡って武門を存続出来たものと感動すら覚えます。

各地に分散した庶流の江島氏は佐賀藩や対馬藩、黒田藩等の家臣として存続します。また一旦、浪人となった筑後江島氏の一家は100年の空白期間を経て、江戸中期初頭に、柳川藩藩士として武門の再興を果たします・・・


●江島氏に関する記録や史料

歴史ブログやHP、書籍での江島氏の情報は大変少なく、あっても断片的なもので、体系的に江島氏について述べたものは皆無と言えます。
 
地方史の文献は県史や市史、町史などからあたるのが一番の早道なのですが、以前はその市町村の図書館に行って調べるしか方法がありませんでした。しかし最近では資料のデジタル化が進み、国会図書館では著作権の切れた市史や町史に関してはネットで読むことが出来ます。また一部の自治体でも市史、町史等の資料をネットで公開して、自由にアクセス出来る所も増えてきています。

さらに「グーグルブックス」ではキーワードによる書籍の本文検索が可能となっています。そして本当に有難いことには、歴史の専門家が書かれた歴史論文にも直接アクセス出来るようになった事です。時間はかかりますが、こうした様々な手段で江島氏に関する史料を集めることが出来ました。
 
また幸いな事に、我が家には先祖代々伝わる一族の伝承がありました。さらに江戸末期から明治、大正に至る時代に生きた先祖達の行動の中に、江島氏の歴史を探るヒントが隠されていた事も分かってきました。収集した文献情報とこれらの情報を繋ぎ合わせていくと、点が線となり、線が面となって室町後期から江戸期にかけての江島氏の実像がかなり分かってきました。

とは言え、史料は限られており、エビデンスとなる史料が全て揃っている訳でもありません。また遠く九州から離れて暮らす身ですから、詳細な現地調査を行う訳にもいかず、史料が不足する部分は推理を働かせながら物語を展開せねばなりません。そこが、当ブログを「歴史推理ブログ」と称する所以でもあります。ベッド・ディテクティブ小説をお読みになるような感覚で、気楽にご覧になって頂ければ幸いです。

では次回より、筑後江島氏についての考察を順次ご紹介して参ります。
また、このブログでは筑後江島氏以外に、豊前宇佐の江島氏や肥後の江島氏など別の血統の江島氏に関しても、知り得た情報は順次公開して参ります。またネタばれになりますが、和歌山起源の江島氏は筑後江島氏の庶流であることをお知らせしておきます。


では『江島氏物語』の始まりです。


2020.7.4一部改訂
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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (とみえもん)
2020-07-04 02:26:25
少し前にたまたまこちらのブログを拝見して驚いてしまいました。と言うのも、ここまで江島氏族を調べて戴いているとは・・・と歓心しております。今回、思い切ってコメント差し上げます。北部九州の筑後と豊前の間の片田舎で今だ墓を守り先祖からの土地が有り、先祖の墓も約200年程前の物と思いますが形となって存在し、それ以前は風化して壊れ、現在の墓の土台として使用し、本家一頭を継承しております。ご近所親戚は筑後三潴の江島町周辺土地の名称と同じ姓を持つ者もおり、貴方様のレポの中で見た、筑後高木氏流江島氏と同じ家紋です。近くのお寺方は、この寺は江戸初期から土地を収めていた武士団のパトロンの寺だったとの事を話していましたが、パトロンとは言い方が笑えます。宇佐氏栗田流なのか、筑後高木流、鳥栖の流れなのか?今まで考えてなかった事が、最近頭を過ぎる様になりました。今後も江島家を護って行きたいと思います。大変貴重なレポありがとうございます。
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Unknown (下総介)
2020-07-04 17:56:23
とみえもん様
千葉在住、管理人の下総介です。
拙ブログへのご訪問、ご丁寧なコメント有難うございます。
記事が何かのお役に立てたのであれば嬉しく思います。

江島姓は鎌倉時代から今日に続く、歴史ある姓です。長きに渡って代々江島家を護られて来たご苦労はさぞかし大変であったろうと推察いたします。とみえもん様とご一族(江島家)の益々の弥栄をお祈りいたします。

諸事情で暫く更新が途絶えておりますが、少々駆け足気味で書いた「江島氏物語」を再考し、新資料や加筆修正を加え、また内容を再構成して、より分かりやすくする構想を練っておる次第です。今年は江島氏ゆかりの地の現地調査を行う予定でおりましたが、新型肺炎の影響で取材が遅れております。
江島氏物語はライフワークと考えておりますので、遅筆ではありますが、時折ご訪問頂ければ幸いです。

(PS)
お手数ですがひとつお教えください。

>筑後高木氏流江島氏と同じ家紋です

とみえもん様の家紋は平四ツ目、隅立四ツ目のどちらでしょうか。また、何かお役に立てる事があれば、なんでもお気軽にコメントを頂ければと思います。宜しくお願い致します。
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下総介様 (とみえもん)
2020-07-04 21:20:50
私ごときのコメントにお気付きい頂きありがとございます。

我が家の家紋は丸に抱き茗荷です。江島の読みはえしまです。家紋は肥前の方なのでしょうか?親戚の人が昔(江戸時代)に参勤交代で御供で江戸に行っていたとの話を聞いた事が有りますが、何のために?誰のお供なのか?、文献が有るわけでも無く、又、調べた訳でも無く、ただそうなのか?と思うばかりです。
返信する
丸に抱き茗荷 (下総介)
2020-07-05 04:49:13
とみえもん様
早速のご返信有難うございます。
大変参考になりました。

丸に抱き茗荷の家紋は肥前鍋島家に仕えた江島氏が多く用いた家紋です。鍋島家の家紋は抱き杏葉紋(ぎょうようもん)ですが、抱き茗荷によく似ております。つまり主家と同じ紋は使えないので、よく似た抱き茗荷を用い、さりげなく鍋島藩士である事をアピールしたものです。
諸説ありますが、鍋島氏は肥前高木氏の庶流益田氏の分かれとの説もあり、少弐氏との関係も深く、筑後江島氏とも関係が深い氏族です。

ご親戚の参勤交代のお話等から推測すると、ご先祖様は武士で鍋島藩に縁の深い方と推察いたします。
佐賀県立図書館は鍋島本家、支藩の侍帳(着到状)が多く収録され、データベース化されています。墓碑やお寺の過去帳等で江戸期のご先祖様のお名前が判れば、人名検索する価値はあると思います。藩士であった年代、家禄、当時の住所などが分かります。ご参考までに。
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なるほど (下総介様)
2020-07-07 01:48:07
下総介様

ありがとうございます。
なるほどです。確かに似ています。

さりげなく藩士をアピールする意味では納得します。
アドバイス頂いた様に、お寺や墓碑を確認して鍋島藩侍帳のデータベースを調べて藩士なのか確認してみたいと思います。

もし鍋島藩士の一員で有ったとしたら、謎があります。家の所在が肥前からは遠い場所に在るという事です。大分県北部近く、東側に旧豊前国、一山超えれば旧筑前国、南に一山超えると旧天領の日田と成ります。所在は高台の丘陵地の真ん中に位置し、周囲に親戚と他家が石垣の土台を組んで取り囲むように存在します。所在地から眺めると渓谷の向こう側の旧街道や周辺を全て一望でき、何にもない片田舎の割には眺めだけは良い所です。
先日法事の際、住職からこのお寺が建立されたのは約300年前でその際、当時本尊のお釈迦様「阿弥陀様だったか?」大きな掛軸を寄贈されたと話しをされていました。、今でも本尊に有ります。やはり謎なのですが、もし佐賀藩士だとしたら、肥前から遠く離れた土地でお寺建立の時に本尊の掛け軸を寄贈したりと勝手なことができるのでしょうか?調べると謎が出てましりました。

下総介様、何かアドバイス・ヒント等御座いしたら、教えて頂けたら幸いです。
宜しく御願い致します。
返信する
謎とき (下総介)
2020-07-07 11:44:26
とみえもん様

疑問の点、ごもっともです。
抱き茗荷は十代紋の一つであり、大変ポピュラーな家紋です。ですから、家紋のみで出自を判断する事は出来ません。

お話によると、300年前にお寺に掛け軸を寄贈されたとの事ですから、最低、西暦1700年頃から明治の廃藩置県までの凡そ160年間は現在居住されている場所に武家の江島家は存続したとなります。言い換えるなら、主家もこの期間は存続していた事になります。

1.まずは、現在お住いのある地域を西暦1700年ごろから明治初頭までどこの大名家が領主であったかを調べてください。

2.その大名家の侍帳(分限帳)、由緒書きの収蔵図書館を探します。藩庁所在地の市立や県立図書館、地域の大学図書館で確認できます。
  
3.侍帳はたいてい何代おきかに作成され複数存在します。原帳が残っている事は少なく、写しのみという場合もあります。その場合、記載漏れなども多々あります。侍帳では姓名、禄高、所属、身分(士卒)などが分かります。
  
由緒書きにはその家の出自、経歴、仕官した年、賞罰の記録、数代に渡る当主、妻や子などの系図が記載されている場合があります。
  
図書館によっては侍帳を書籍化しているか、原帳をデジタル画像化していると思います。カンファレンス担当に相談するとアドバイスしてくれます。

4.菩提寺の過去帳からご先祖の名前を探します。基本的に過去帳は檀家の死亡記録です。氏名と没年月日、享年、戒名の記載のみの場合が多数です。

有力な檀家の場合には添え書きなどがある場合もあります。
例:●●御家中、御書院番 江島富衛門戒名など。
檀家ごとには整理されてはおらず、年ごとにすべての死亡者の名前が書かれていますので、探し出すのは一苦労です。

5.過去帳のご先祖名と侍帳のご先祖名を照合します。武家の場合は代々同じ「通り名」を踏襲する事があります。
その場合は「諱」(いみな)や没年月日等を参考にします。
例:江島四郎衛門(通り名)幸直(諱)

此処迄やればほとんどの事が判ってきます。家系図の作成さえも可能となります。
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コメントから推察しますと。大分の中津あたりにお住まいでしょうか。
中津と仮定すれば、中津領は中津藩奥平家の領地と西国筋郡代(天領)が入り組んでいます。居住地の江戸時代の郡名と村名から、帰属は判明します。

中津藩は小笠原家から奥平家に国替えがあったのが1717年で丁度300年前頃です。奥平家は下野国宇都宮から移り、1871年の廃藩置県迄存続しました。

天領内であれば、郡代は幕府の旗本なのでお役交代が何度もありました。
その間も江島家は居住地の移動が無かったので、郡代の直臣では無く、現地在住の郡役人の可能性もあります。

大分県は天領を除き、廃藩置県時にはたしか8大名家が存続していました。まずは居住地の元領主家をお探しください。


謎解き1 160年の謎
江戸初期から中期にかけ、藩の取り潰しや国替え政策によって大名家の移動が頻繁に起こりました。その際、現地の国人(国侍)を家臣や郷士として新規に召し抱える事が行われました。現地の事情に詳しい国侍は頼りになるだけでなく、浪人対策を兼ねるからです。また幕府も天領の役人として国侍を登用した可能性も高いと思います。もしご先祖様が宇佐姓江島氏の一族であったなら、豊前国の大庄屋の本家の推薦が効いたかもしれません。
また160年間同じ地に住めた理由も納得できます。

謎解き2 家紋の謎
国替えに伴って新規の人材を登用する事は多々行われました。武家の次男や三男は家督を継げない為、養子に行くか、他藩へ仕官するしかありません。
鍋島藩士の家の者が鍋島藩以外に仕官すれば、仕官先で生家の家紋を使用する事に。
江戸詰めの藩士は他藩との交流を持つ機会が多く、新規召し抱えは江戸でのコネクションで決まる事が多かったようです・・・
etc.etc

幾つかの仮説を立てて調査を行うのも、歴史謎解きの楽しみとなります。

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ありがとうございます (とみえもん)
2020-07-19 14:43:32
アドバイス誠にありがとうございます。
下総介様大変御丁寧な解説を戴き、感謝申し上げます。
所在は大分県中津になります。

今後少しづつでは有りますが、アドバイス頂いた項目を参考にして、確認やしてみようと思っております。

又、謎や疑問が生じましたら、コメントさせて戴きたいと思つております。



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Unknown (江島隆太郎)
2023-01-26 01:14:22
下総介どの
江島を名乗る者として、がばい興味があり、拝見しています。よく平安末期まで調べられ、ありがとうございます。それがし、佐賀市川副町犬井道を本拠とするものです。この地域では、親類も含め江島はなかなかいます。もっと御先祖様の事を知りたかです。よろしくお願い申し上げ候。
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江島隆太郎 様 (下総介)
2023-01-29 02:11:25
拙ブログにご訪問頂きまして真に有難うございます。またご丁寧なコメントを頂き嬉しく思います。

隆太郎さんのお名前は江島氏の始祖、藤原隆家、江島太郎の名前にちなんだものでしょうか。素敵なお名前ですね。

ここ数年は父の遺稿の整理や他家のご先祖の調査依頼などが重なり、ブログ  の更新が途絶えており、大変申し訳なく思っております。
今年はそれらも一段落しそうなので、更新並びに修正などに力を入れたいと思っております。
ご先祖様に関する言い伝え等、お家に伝わるお話がありましたら、ご教示頂ければ幸いです。

今後とも宜しくお願いいたします。
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